1.calmato/カルマート

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 杏香が名前も知らないひとりの男性の演奏に遭遇してから一月(ひとつき)が過ぎようとしていた。あの夜以降、杏香は記憶に焼き付けた彼の服装を頼りに、時間を見つけては動画配信サイトを巡回し彼が演奏の様子を投稿していないかと探す日々を送るも手がかりが掴めないでいた。夏を惜しむような憂いを孕み、それでもなお衰えぬ陽射しが燦々と降り注ぐ9月のある日――杏香は思いもよらない形で彼と()()()な邂逅を果たすこととなる。 「ねぇねぇ杏香ちゃん。『ハーフェン』さんの演奏に立ち会ったこと、ある?」 「……? 『ハーフェン』、さん?」  レジテーブル越しに腕を伸ばし、目の前の古宮(こみや) 亜未(あみ)にお釣りを手渡しながら杏香は小さく首を傾げた。このショッピングモールの二階に店を構えるスポーツ用品店で働いている亜未は、金曜日は必ずこのベーカリー店に足を運び昼食を購入している。甘党である彼女の一番の好物はチョココルネ。亜未が来店する曜日の法則に勘付いた杏香が『取り置きしておきますよ』と亜未に声を掛けたのが縁で、ふたりは同い年ということもありこうして名前で呼び合うほどの仲となった。杏香の手からお釣りを受け取った彼女は、杏香の反応に興味津々と言わんばかりに瞳を輝かせる。 「そそ。ストリートピアノの動画をアップロードしている人。知らない?」 「ううん。有名なの?」  ふるふると首を振った杏香は、トレイの上のチョココルネと今日からハロウィン(10月31日)までの期間限定商品・パンプキン味のメロンパンを袋へ詰めながら亜未へ問いを返した。亜未は杏香から受け取ったお釣りを小銭入れに戻しつつ、思案の表情を浮かべぎゅっと眉根を寄せている。 「う~ん、登録者数とかが多いわけじゃないから、有名……ってわけでもないみたいだけど。この前、夜7時半くらいかな。そこのストリートピアノ弾いていたらしくて、うちの店で今すごく話題になってるの」 「……」  笑顔の亜美から告げられた言葉に杏香は思わず息が止まった。 (もしかして……あの人が『ハーフェン』さん……?)  京香の脳裏に浮かんだのはあの夜遭遇した黒づくめの服装をした彼の姿。杏香は僅かに逡巡した。ここで正直に『心当たりがある』と答えるのが友人としての最適解だ。けれど杏香は、あの瞬間に強烈に惹かれたあの演奏を、今はまだ()()()()したい、と思ってしまった。
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