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「ほら、ここは中番があるでしょ? うちの店は早番と遅番しかないから誰も遭遇したことがなくて。だから杏香ちゃんはどうなのかなって思ってね~」
杏香の手から購入品を受け取った亜未は、杏香がその人物を知らないのだと受け取ったのか小さく肩を竦める。彼女も何か情報が得られればよいと思っていたのだろうけれど、残念ながら杏香は『ハーフェン』さんに関する確固たる情報を持っていない。杏香は僅かな罪悪感に苛まれながらもふたたび「見たことないなぁ」と首を横に振ると、亜未は落胆したように肩を落とした。
「そっかぁ。ハーフェンさん、黒い帽子に黒いマスクして演奏してるよ。見かけたら教えてくれない?」
彼女から伝えられた情報に、杏香は今度こそ口から心臓が飛び出るかと感じた。その服装は、まさにあの夜の――彼の服装、そのもの、で。
「……うん、もちろん。今日もお互い仕事頑張ろうね」
レジに向かって手を振り踵を返す亜未に対して笑みを浮かべながらも、杏香は強く鼓動を刻む心臓を必死に押さえつけていた。
◆ ◆ ◆
中番勤務の同僚にレジを交代し、休憩で席を外した杏香はバックヤードでスマートフォンを触っていた。
(……この人、だ…)
杏香の手の中のディスプレイに流れる映像は、あの夜、確かに杏香の心を鷲掴みにした『彼』の演奏の様子。彼女は早速、亜未からもたらされた情報を元に動画配信サイトのアプリで『ハーフェン』と検索をかけていた。そしてヒットしたのが【ハーフェンの気まぐれピアノ】というチャンネル。彼は演奏場所などのキーワードは一切入れずに、不定期に動画をアップロードしているようだった。
(……だから何度調べても引っかからなかったのかな…)
感動で震える指先でスマートフォンにイヤホンを繋ぎ、動画を初めまで巻き戻してゆっくりと再生ボタンをタップする。
(動画でも……すごく、沁みる……)
こんな演奏の場に自分は遭遇できていたのだという幸福感は、思っていたよりも大きかった。僥倖、というのはこういうことをいうのだろうか。
(……)
喩えようのない高揚感に包まれた杏香は、ほぅ、と小さくため息を吐き出し天を仰いだ。彼女はしばらくの間、目を瞑って繊細な演奏に酔いしれていた。
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