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2.misterioso/ミステリオッソ
それから杏香は、通勤時や寝る前に必ず『ハーフェン』の動画を再生し、彼の演奏を堪能するようになった。
ハーフェンは杏香があの夜に聴いた『戦場のメリークリスマス』だけでなく、リストの『ラ・カンパネラ』、ブラームスの『2つのラプソディ』、パッヘルベルの『カノン』などのクラシック曲から流行りの邦楽曲まで、様々な楽曲の演奏動画を投稿していた。亜未が口にしていたように、登録者数もそう多くなく、各動画の再生数が伸びている訳でもない。有名な投稿者ではないものの、杏香は彼の演奏に完全に心を奪われてしまっていた。仕事でパンを購入する客に理不尽な要求を突きつけられ、一時的に感情がひどく荒んでも、彼の演奏を聴くだけで彼女の心は癒された。
職場に行き、仕事をこなして自宅に帰る。早番勤務の際は製パンの仕込みを手伝うため特に疲労がひどく、帰宅すると泥のように眠ってしまう。そんな時にハーフェンの動画を再生しながら眠りに落ちると、蓄積された疲労が一気に取り払われるような気がした。
またいつか、この前のようにあの場所で演奏してくれないだろうか。そして、願わくば自分もその場に居合わせられたら――杏香はそう願っていたが、『ハーフェン』はSNSもやっておらず、チャンネル内で演奏予定や動画投稿予定を告知することもなかった。過去の投稿動画を遡り投稿頻度を確認するも、一ヶ月に1度だったり、一週間に1度だったりと、本当に不定期に投稿していることが確認できた。杏香はただ、彼にまた巡り会えることを願うしかなかった。
◇ ◇ ◇
そんな日々を過ごしているとあっという間に月日は流れ、10月31日――ハロウィンの日を迎えた。
「わあ! やっぱり花守さん、その衣装似合ってる!」
「……本当ですか? その、ちょっと恥ずかしいんですけど…」
仕込みの手伝いを終え、白のエプロンを脱ぎバックヤードで黒とオレンジ色のバイカラーワンピースへと着替えた杏香に、上野が瞳をキラキラと輝かせた。その視線に杏香は居心地悪く身体の前で手を組み、視線を彷徨わせる。
今日はこのショッピングモール全体の施策として、店頭に立つスタッフはハロウィンにちなんだ衣装を身に纏うことが推奨されているのだ。上司であるこの店の店長から杏香が支給された衣装は、『魔女』を連想させるようなくるぶし丈のワンピースに、黒のとんがり帽子。杏香はつり目気味、そのうえ日頃からダークトーンのアイシャドウを愛用しており、周囲からは第一印象で『ミステリアスな女性』と評されることが多い。そんな彼女にぴったりのコスチュームだった。
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