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1.calmato/カルマート
「お先に失礼します。お疲れ様でした」
ブラウン基調の制服から私服に着替えた杏香はレジに顔を出し、遅番の上野 美奈にぺこりと頭を下げた。
「お疲れ~! また明日ね、花守さん」
「はい、また明日」
上野の弾けるような笑みにふたたび小さく会釈を返した杏香はそののち店の裏口付近に位置する発酵室にも顔を出し、そのまま退勤する。明るい電灯が煌々と照らす共用廊下を足早に歩くと水色の大きな鉄製扉に突き当たった。ここがこのショッピングモールの従業員専用出入り口だ。
ギィ、と軋んだ音を立て杏香は外へと踏み出した。肩からずり落ちそうな通勤バッグの紐を握り締め、このショッピングモールの正面にある最寄りのバス停へと足を向ける。
杏香が勤めるベーカリー店は21時閉店。だが、今日の杏香のシフトは中番。10時始業、定時は19時だ。モールの中では雑貨店や婦人服店等は閉店を迎えたが、カフェやレストラン等のいくつかの店舗が営業中。ぽつぽつとまばらな人影がコーヒーを楽しんでいる自家焙煎のカフェ横を通り抜けると、杏香は大きな広場に出た。
ここは頭上に張り巡らされたガラスの屋根が特徴的なベイストリート。モールの正面から施設へと繋がる半円形の広場で、昼間は屋根からこぼれ落ちる陽射しが強い開放感を感じさせる、このモールの『顔』ともいうべき場所。日が落ちた今は無数のパーライトがこの空間全体を、ムーディな雰囲気へと変化させている。
杏香はごそごそと通勤バックから定期ケースを取り出し手に持った。小さく息を吐くと、そのため息がむわりとした夏の外気に紛れて消えてゆく。
金曜日の夜。光が沈まない街は週末の夜の騒めきに包まれている。不意に、高い音域のピアノの和音が暗闇の中から響いた。杏香は見えない何かに引き寄せられるかのように音のする方向へと視線を向ける。
(あ……)
高音で同じメロディが幾度も繰り返され、その和音がだんだんと下っていく。その旋律は、今とは真逆の季節である『冬』にちらちらと雪が降り始めるような、そんな情景を思い起こさせた。
(……調律、狂ってる…の、に)
G5#の調律が狂っている。それなのに、そのずれた音も、夜の騒めきもものともせず、静かに響き続ける儚いメロディに杏香はその場に足を止め、何かに魅入られたようにその音楽に聴き入ってしまった。
うっすらとした暗闇が広がる空間の隅に置かれたストリートピアノ。そこにはまるでその場所だけを浮かび上がらせるような照明が差し込んでいる。この場所に老若男女問わず誰でも自由に弾くことができるピアノが設置されていることを杏香は認知していた。大勢の人が行き交う日中は入れ代わり立ち代わり奏者が現れるそうだが、夜間の時間帯にこのピアノを弾く人物は滅多に現れない。日中は施設内で勤務している杏香がストリートピアノが演奏されている様子をこうして眺める機会はないに等しい。
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