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一、平成二十四年四月
四月三日の夜九時、駅ビル駐車場五階の二番。
約束より五分早く、傾斜を上る唸りが聞こえ始める。深呼吸してバックミラーを覗き込み、伸びた前髪を斜めへ流した。こんなところにも繁忙期のツケが回ってきている。新学期までに切っておかないと、また言われてしまう。
指を離した時、眩しい光を散らしながら車が近づく。思わず隠れた私の前を音はゆっくり通り過ぎて、更に上を目指していった。小さく震え始めた手をさすり合わせ、よし、と呟く。車を降りて、私も階段から五階を目指した。
予想外に響くヒールの音を気にしながら上りきり、重いドアをくぐる。目当ての車は、既に指定した場所へ止まっていた。息の乱れに胸を押さえつつ、黒光りするフルスモークのセダンに近づく。あの窓をノックしたら、もうあとには引けなくなる。でも、これが私の選んだ道だ。後戻りする気はない。覚悟を噛み締め拳を作った時、背後から声がした。
跳ね上がるほど驚いて振り向くと、崩れたスーツ姿の三井が立っていた。
「そんないい車乗れねえよ、こっちだ」
混乱しつつ見比べる私を呼んで背を向け、三井は正しく自分のものらしい車へ戻る。言われてみれば、これは一公僕には過ぎる車かもしれない。一時間前に確かめた時は止まっていなかったのに、予想外の展開だ。噴き出した額の汗を拭い、荒い息を落ち着かせる。出鼻は挫かれたが、まだ大丈夫だ。
知らないうちに落としていたバッグを拾い上げ、頬に張りついた髪を耳へ掛け直す。ふと擡げた視線が、ガラス越しに合った気がした。不確かなのに鋭く刺されたようで唾を飲む。分かっていたことだ。向こうは本当に私が「私」なのかを疑っている。ようやく落ち着いた胸に、足を踏み出す。コートの襟元を整えて薄汚れた黒へ向かった。
「どうやって探し当てた」
助手席へ乗り込んだ私に、三井は浅葱色の封筒を取り出す。私が速達で送った手紙だ。
「名前は父の持っていた名刺で分かってました。今の所属は、外郭団体の新人臨職を装って県警棟の受付で尋ねました。茶封筒の表に書いたあなたの名前を見せたら、すぐに調べてくれましたよ。県警本部にいるかどうかは賭けだったんですけど」
「今、県庁で働いてんのか」
「いえ。でも臨職をしていた時期があったので」
半年ほど、違うお役所で働いたことがある。書類や封筒を抱えていれば、どこにでも入っていけそうな緩い職場だった。
「この封筒は」
溜め息交じりに突き出された封筒の上は汚く破り取られ、速達の文字も半分ない。下の方に県庁総務課の所在地が印刷されている、いわゆる「公式の封筒」だ。
「この封筒を使って速達で出せばすぐに開いてくれると思ったので、総務課の棚からいただいてきました。あの人達、ぶら下がってる名札が本物かどうかなんて確かめませんから」
「確かに、なんかと思ってすぐ開いたわな」
三井は納得した様子で頷きながら手元へ戻し、手紙を抜き取って開く。仄暗い中でがさつに動く左手に、指輪は嵌まっていなかった。
「俺の知ってる『筬前有智子』は自殺したって話だけどな」
「母がそういうことにしたんです。今、私が生きているのを知ってる親族は母と母方の祖母だけです。あとは全員、自殺して密葬を信じてます」
ここ数年で本名を書いたのはその手紙だけ、呼ばれたのは初めてだ。手を差し出すと、三井は戸惑ったようにこちらを向いた。よく見えないが、凹凸の少ないのっぺりとした造作だ。目は細く、表情が分かりにくい。図太そうにも見えるから、刑事には向いているのだろう。太い鼻筋のてかりはよく見えた。
「返してください。もう必要ないので」
答えを聞く前に手から引き抜き、自分のバッグへ突っ込む。一つ、溜め息が聞こえた。
「復讐に手を貸せってことか」
「直接何かして欲しいわけじゃありません。疊原誠一に近づく緒が欲しいんです」
口にした名前に、三井は煙草を抜き取る手を止めた。
「娘じゃねえのかよ」
「両方です」
「お前な」
「両方なんです」
強く返すと黙り、咥えた煙草に火を点ける。少し窓を開けて最初の煙を流したあと、ちょっと走るか、と鍵を捻った。
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