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湯気の這う水面に顎先からぶくぶくと泡を立てて沈んでいく。ヒノキの香りが抜けていき、鼻頭が湯に触れた。「行儀が悪いですよ」と声が聞こえた気がして両手でばしゃばしゃと顔を拭う。
――皆、元気かなあ。
数日前の大浴場を思い出す。かけ湯をした途端泳ぎ始める銀次、口数が少ないせいでのぼせたことに気付くのがおくれた澤村、銀次を注意してもレンズが曇っていて説得力に欠ける時雨。早朝仕様のスーパー銭湯は人気もなくて爽やかだった。
そういえば、とトウは青ざめた澤村の顔が浮かぶ。潜入する時代を教えたときだった。なぜだろう、と首を傾げる。
「お兄ちゃん!」
ばしゃーんと大きな音が波を立てた。
「こーら、飛び込んだらいけないってシヅさんに言われてるだろ」
「えへへ、ごめんなさい」
トウと夜郷が潜入して今日で五日目。「アイスクリームを食べたい」という願いの割に期間は一ヶ月半と長めの設定だった。疑問に思ったものの、まあいっかと開き直った。
そんなトウは願いを叶えたいという本人と入浴中。相手は五歳の男の子、水面から放たれる水鉄砲が額に直撃する。
「うわっ、やったなあ」
きゃーと声を上げて水鉄砲合戦をする。そのうちがらりと戸が開いて「早く出なさい」とシヅさんに窘められるのがルーティンになってきた。
「今日は冷えますから、火鉢を付けておきました」
「ありがとうございます、師走って感じですね」
ええ、と微笑むのはこの家の女将だ。トウを拾ってくれたシヅの義母にあたる。
潜入先で門が開いたのは観光地の宿場として栄えた山間の村。三つある宿は全て二ヶ月先まで満室だった。そもそもお金もないのだ、門前払いと言った方が正しいかもしれない。
さっさと泊まる家を見つけた夜郷に置いて行かれたトウは、バス停のベンチに寝っ転がっていた。寒そうに震えているところをよろず屋の嫁・シヅに拾ってもらったのだ。
シヅの息子がちょうど願いを叶える本人だったからこれ幸い、都合が良いとトウは世話になることにした。
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