4 雨

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 翌朝は雨になった。  人波に背を押されるように改札を出た俺は、街を叩く銀色の雫を睨みながら傘を広げた。すれ違うスーツ姿もバス停に並ぶ制服の群れも一様に陰鬱な表情をしているように思うのは、通学に利用している電車内で不意に思い出した『水底に眠る』のせいだろうか。  雨音に混じって、お父さん、と叫ぶ声が聞こえたような気がしたのは大きな雨粒を受け止めた傘が、ぱし、と悲鳴を上げた瞬間だ。悲愴感に満ちた瞳で父を見上げる小学生(こども)の姿が、脳裏をよぎった。  ある日、医師は妻の実家を訪問しようと家族に提案した。  子供たちは温和な祖父母が大好きだったし、夫婦にとっても安らげる場所であることは確実だったからだ。日常に疲れた四人は久々に明るい心持ちで長期滞在に向けた荷造りをし、車に乗り込んだ。  ──お父さん?  酔い止めと称して父が妻子へ渡した錠剤に、次男は首を傾げた。なぜなら、常にそれを必要とするのは自分だけで、母と兄は乗り物酔いをしない体質だったからだ。遠方に在る祖父母の住まいまでは車で四、五時間。それでも過去にふたりが車内で体調を崩したことはなかった。しかも、配られた錠剤は使い慣れたそれではなく、見たことのない形状をしていた。母と長男は疑うことなく薬を服用したが、次男は水筒の水だけを飲み、シャツの胸元へと薬を落とし……。 「ぅわ、今日もタクシーかよ」  俺の耳が、背後を過ぎるその声を捉えたのは偶然だった。 「篠宮って雨の日は必ずタクシーだよな」  俺は確かにタクシー乗り場の列の先頭に立っていたから、そこまでは事実だ……が。 「そんなに濡れたくないのか。っていうか、ウチの学校、タクシー通学OKだっけ?」 「なわけないだろ。どこの金持ち学校だよ」 「篠宮サマは大富豪のようですが?」  下品な嘲笑で盛り上がる複数の声は、同じクラスの男子生徒たちのものだ。雨の中に立ち止まってまで他者を愚弄するとは、よほど奇特な性格の持ち主なのだろう。ご苦労なことだと呆れつつ、俺は聞こえないふりをした。 「あいつの咳、いつもうるさいよな」 「そうそう。試験のとき、チョー邪魔」 「体育の授業は一年じゅう出ねぇし、それで無事に進級っておかしくね?」 「富豪サマだから、教師を買収してんだろ」 「あはははっ」  あまりにも幼稚で聞くに堪えない。  傘を握る手に力を込め、俺は水煙の向こうにようやく姿を現したタクシーを凝視した。だが、奴らの会話には聞き流せない部分も確かにあった。  ──そんなに濡れたくないのか。  そう。俺はのだ。  志賀と出会ったあの日の放課後は、今にも降り出しそうな曇天だった。俺は志賀からではなく、雨から逃げた。  商業施設で突然エレベーターを降りたのは、浮遊感に恐怖を感じただけではない。四階に水族館があり、志賀がそこを目指していることを察したからだ。  映画の最中、過呼吸のような発作は少女が湖に落下した場面で起きた。  タクシーでの通学も、事情を考慮した学校側から雨の日限定で許可されている。  全て、雨や水に関係がある。  志賀は、もう気づいてしまっただろうか。  端的に言えば、俺は雨や水が怖いのだ。  目の前でタクシーの扉が開いた。運転手は何度か顔を合わせたことのある男性だ。行き先以外、何も聞かずにいてくれるのがありがたい。  駅前を出発すると、徒歩十分程度の距離に建つ学校にはあっという間に到着する。正門を潜って敷地内へと入った車体は、まるで来賓を乗せているかの如く優雅な動作で昇降口へと上がる階段の前に停車した。  料金を支払うと、俺は去ってゆくタクシーを振り返りもせず重力を振り切るように全力で階段を駆け上がった。 「……シンデレラだ……」  ふと、くだらない呟きが吐息とともに零れる。転がり落ちるように階段を駆け下りる姫君と、死にもの狂いで上を目指す俺。向かう方向は正反対だが、その必死さは同質だ。 「……っ……」  ひとつ咳を落としたら、そばで靴を履き替えていた生徒が汚いものを避けるように早足で去っていった。伝染性の病ではないと言ったところで、何が変わるわけでもないのは判っている。友という名の理解者を作らずに、排他的な生き方を選んだのは俺自身だ。 「……は……はぁ……こほっ……」  生命を維持するのに必要な酸素でさえもが、鋭い針のように肺へと突き刺さる。このまま右方向にある教室へ行くことは、とてもできない。左へ曲がった先には職員室や学長室といった生徒には縁の薄い部屋ばかりが並ぶが、その手前には階段がある。上れば図書室へ、下れば備品室や会議室などの静かな場所へと行くことが可能だ。  下だ、と直感的に思った。  保健室があるのは、階下だからだ。胸を押さえ、目眩を堪えて階段を進む。生徒の気配がない一階の空気は、不意の侵入者である俺を絡め取ろうとするかのように冷ややかだ。  ──お父さん。  静まり返った冷気の底に、少年の声がこだました。 「……う、るさい……黙れ……」  耳を塞いでも瞳を閉じても、やめろと叫んでも懇願しても、飴色の髪の子供は一定の距離を保ったまま永遠に俺の後をついてくる。 「ごほっ」  重い咳をした瞬間、咽喉元を熱いものが通過する感触がした。呼吸が詰まり、目の前が暗くなって壁に身体を預けることさえできぬまま、俺はリノリウムの床に膝をつく。  いつか死ぬなら今でも同じと思い続けてきたけれど、学校の薄汚れた廊下は嫌だ。 「篠宮さんっ」  突如、大きな足音と絶叫が空間を引き裂いて、俺の意識を現実へと連れ戻した。無理やり開けた目に、駆けてくる男子生徒が映る。幻覚ではないことを知らせるように、確かな体温を持つ掌で触れてきたのは志賀だった。 「駅前で見かけ……ずっと……走って…」  俺の乗ったタクシーを追いかけて疾走してきた、という意味だろうか。それを証明するかのように、息を切らせて言う彼の頬を雨ではなく汗が伝う。肌寒い廊下の温度にそぐわぬ上気した肌の色に、俺はしばし見惚れた。 「……ぅぐっ、ごほこほっ」  なぜと問おうとした声が咳に変わった。咽喉と胸の激痛に背を丸め、目尻に浮かぶ涙を前髪に隠す。ゆっくりと息を吸い、吐いて、俺はようやくその全てを収めきった──が。 「なっ、これっ」  口を覆っていた右手を膝へと下ろした途端、志賀が驚愕の声を上げた。薄暗い廊下を照らす照明に、その顔が白く浮かび上がる。大きく見開かれた両眼が見つめているものは、俺の掌を汚している鮮血だった。 「咽喉が切れただけだよ」 「……」  いてて、と、おどけて苦笑を見せても、志賀の表情は硬いままだ。作家、樋口一葉や夏目漱石は結核で死んだ。そんな不吉な思考が今、読書好きな志賀の脳内を巡っているのだろうと、俺にも簡単に推察できた。 「深刻な顔をしないで。喀血じゃないし、こんなことくらいでから」 「……は?」  志賀の目が丸くなったのは、俺の言葉が理解できなかったせいだろうか。普段よりも幼く見えるその表情を俺は笑いたかったのだが、それよりも先に体力の限界が来たらしい。志賀に凭れていることを自覚したのは、自宅のものとは違う柔軟剤の香りを呼吸した瞬間だ。 「……ごめ……肩を、貸し……」  保健室まで、と呟く声は掠れた。  廊下の片面に延々と並ぶ窓。降り続く雨音はガラスのみならず、俺の鼓膜をも叩いている。降り止まぬ水滴の群れに足首を捕まれ、暗い場所へと引きずりこまれる恐怖に、脆弱な心身が切り刻まれてしまいそうだ。 「立ちますよ」 「え、わぁっ」  驚かさぬよう、声をかけてくれたことには感謝する。けれど、肩に回ってきた腕に持ち上げられた俺は、やはりいきなり高くなった目線に驚いた。  保健室の扉には『校医不在』の札が掛けられていたが、志賀は構わずにつまさきで引き戸を蹴り開け、三台あるベッドのうちの真ん中に俺を運んだ。廊下からもこの部屋の窓からも遠い場所を選んでくれたらしい。  志賀がベッドの周囲をカーテンで囲む間に俺は白い蒲団の下へ潜り込み、右手だけを出して左右に振った。 「もう行っていいよ。一限、始まるだろ」  重い綿蒲団に遮られぬよう、少し大きめの声を出す。切れた咽喉の痛みに涙が出そうになったとき、ぎし、と古いベッドが軋んで、静かな空間にひとすじのヒビが入ったような錯覚が起きた。志賀が枕元に座ったらしいと気づいたのは、敷蒲団が僅かに沈んだからだ。 「行きません」  真摯な声と掌が、俺の全身を覆う掛蒲団の上にそっと下りてきた。雨に怯えて叫び出しそうになる俺の背を、ぽんぽんと規則的なリズムで叩いてくれている。母の手を彷彿とさせる懐かしいその感触に俺は知らず、頭まで蒲団を被ったまま志賀の腰の辺りへと身を寄せた。 「篠宮さん?」  驚いたのだろうか。一瞬止まった志賀の手は、けれど、やがてまた優しく動き出した。 「雨の日は空が水面に、地上が海底になる。俺は逃げ場を失って窒息する……」  蒲団の下の暖かな暗闇は、降り注ぐ雨から俺を守る安寧の地。だが、窓ガラスの向こうに広がるのは、海に沈みゆく街だ。  青く暗い海底に林立する、高層ビル群。  人間は熱帯魚のように色とりどりの衣服に見を包み、縦横無尽に泳ぎ回っている。志賀の黒い髪が海藻さながら、水流に揺らめき、広がる──。 「行かないで、志賀……」  正直な気持ちが理性を超えた。学校帰りに遊ぶのが友達。  では、キスをする関係は。  その答えを、とても知りたくなった。 「行かないって、言ったでしょう」  室内は静寂に満たされ、まるで世界にふたりきりでいるような錯覚に陥る。蒲団越しの手は心地よく、寒さと恐怖に震えていた身体が少しずつ楽になり、荒い呼吸も落ち着きを取り戻し始めているようだ。遠くから近づいてきた眠気に、俺は素直に身を委ねた。睡眠は最強の逃亡手段であり防御策だが、志賀から与えられるそれはとても心地よく、幸福だった幼少期を思い出しそうになる。 「キス、してもいいですか」  意識が完全に現実から離脱する刹那、冗談とも本気ともつかぬ言葉を口にした志賀が蒲団を持ち上げる気配がした、が。  一方的なそれは──来なかった。
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