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けほ、と。
乾燥した空気に落ちた咳は、志賀の意識を海中から掬い上げてしまっただろうか。
昨日の雨が嘘のように眩しい陽光が射す図書室には司書さえおらず、静謐だけが横たわっている。
「泣くような話じゃないだろ」
俺は感情を抑えて問いつつ志賀の向かいに腰掛け、ハンカチを差し出した。それを数秒間眺めてから、志賀はようやく泣いている己に気づいたらしい。白い布を受け取ることはせずに、羞恥をごまかすかのように手の甲で乱暴に目元を拭った。
「宮篠遊離、あなただったんですね」
「──」
肯定も否定もせずに俺はただ俯き、口元に右手を当てた。
『水底に眠る』は、篠宮家に降りかかった不幸の物語。作中に一度だけ名を記されている悠悧は、一家心中でただひとり生き残った俺だったのだ。
篠宮遊悧、宮篠遊離。
愛されて育った『悠悧』と、家族から切り離されたことを表す筆名の『遊離』。
その簡単な符号に、志賀ならばいつか辿り着くと思っていた。なぜか──漠然と。
高校生作家なんて凄いですね、と安易に言わぬ志賀は、ほんの少し青い顔をしているように見える。気分が悪くなるだけの物語を、長時間読み続けていたせいだろう。
俺も志賀を直視できずに、自分の足が踏み締めているフローリングの木目に視線を落とす。慰めの言葉など、欲しくはなかった。
「祖父が読んでいた文芸誌に、新人賞の告知があった。俺はそこに自分の苦しみをぶつけただけ。偶然その種の話を好む審査員の目に留まっただけ。夢や希望なんて書ける気がしないから、作家の真似事なんてもう辞めるつもりだよ」
自然に、唾棄するような口調になった。俺は本当に、作家という立場への執着や未練などは1ミリもないのだ。言葉に詰まる志賀の眼前で数度咳をし、深く息を吸い込んだ。
「飴、好きですか。と言っても、今日はひとつしか持っていません。篠宮さんが選んだ、あの飴です」
平素と変わらぬ俺を見て平常心を取り戻したのか、志賀もいつもの口調で言ってズボンの前ポケットに手を入れる。取り出されたソーダ味のキャンディは溶けかけてパッケージの内側にくっついているようだが、俺は躊躇することなく個包装の小さな包みを開けた。
ガラス玉みたいな水色の飴が、口中に含んだ瞬間に甘い炭酸飲料の味を俺の舌へと伝えてくる。壁に貼られた『飲食禁止』の注意書きが目に入ったから、内緒、と唇の前に人差し指を立て、志賀を共犯にした。
「今日の天気予報は観ましたか」
「観たけど?」
今は晴れていても、安定しないのが初夏の天気というものだ。俺は途端に緊張し、窓の外に広がる上空へと視線を走らせた。
「降られる前に帰りませんか。送りますよ」
「志賀、五限に出ないつもりか。授業を受けないのはよくないよ」
「今日で最後にします」
俺が言っても説得力がない台詞を簡単に聞き流し、志賀が目を細めて笑った。
「教室で鞄を回収して、五分後に裏門集合」
「了解!」
右腕の時計を覗き込む俺に頷き、志賀はあっという間に二年C組を目指して駆け出した。
きっちり五分後に顔を合わせたふたりは、どちらも無言で駅へと歩いた。俺が咳をするたびに志賀も自身の身体のどこかが痛むみたいに眉を顰めはしたけれど、表情の変化が如実に伝わってきたのは平屋の古民家の前へ立った瞬間だ。どんな住宅を想像していたのかは知らないが、俺にとっては住み慣れた自宅に他ならない。
「適当に座っといて」
志賀を招き入れたのは、居間として使っている八畳の和室だ。四人掛けの座卓が真ん中に設置されている他は、小型のテレビと仏壇しかない簡素な部屋である。お茶を淹れてくると言って退室する俺に頷く志賀は、仏壇と天井の間に掛けられた祖母の遺影を見上げている。ひんやりとした空気の満ちる小さな家の隅々まで、年季の入った柱時計の鐘の音が大きく響いた。
「テレビでも観ていればよかったのに」
「あぁ、気づきませんでした」
盆を持って戻ったとき、志賀はなぜか部屋の隅に立っていた。答えた声が妙に硬くて、俺は卓上に麦茶のグラスを並べながら首を傾げる。リモコンを取ろうと、テレビ台を振り返っただけの数秒間。だが、静寂は突如破られた。
「またですか」
「何が……ぅあっ」
怒気を含む声に、反論の余地は与えられなかった。高速で伸びた志賀の右手に俺の左手首は容易く捕まえられ、制服から着替えたばかりのニットの袖を力任せに肘まで押し上げられた。手首に巻いた包帯には、うっすらと血の色が滲んでいる。切ったのは昨日。保健室で目覚め、二限目の授業に間に合うよう志賀を送り出した直後だ。塞がりきっていない傷口は不意の動作によって開いては、絶えず血を流し続けていた。
「……っ」
平気なふりができなかった。雨に震えてカッターを握った右手に深い傷を負わされた左手首は、昨夜以降、鋭い痛みを訴えている。
「この部屋に入ったときから、薄々感じていたんです。ここに俺を通したのは失敗ですね」
志賀の目が向いたのは、彼がさっきまで立っていた部屋の隅だ。そこには何の変哲もない円筒形のゴミ箱がある。投げ込まれているのは、俺の血を吸い込んだ、数枚のティッシュペーパーだ。不穏なにおいを放つそれは、自傷の証拠としては十分過ぎるものだった。
「言っただろ、この程度のことで死ねたりしないって!」
咽喉が切れて出血しても、皮膚を切り裂いても死ねない。死ぬことができない。
「それは死にたい人間の言い方です」
「そうだよ」
「……っ!」
短く答えた刹那、志賀の整った顔から感情が消失してゆくのが判った。血色のいい頬が青ざめ、艷やかな双眸が輝きを潜め始める。酷い言葉で傷つけたのは明らかだが、志賀にだけそんな顔をされるのは不本意だ。俺には俺の理由があり、腕を切る。誰にも迷惑をかけてはいないし、干渉されるいわれもない。
「父が俺に教えたんだ。人生は虚しく、死は自らの意思で選ぶもの……っ」
最後まで言えずに咳き込む俺へグラスを勧め、志賀は仏壇へと視線を転じた。そこには供えられた湯呑みの横に写真立てがひとつ、ひっそりと置かれている。
写っているのは夫婦と、ふたりの少年だ。
学生服姿の兄は父親に似た黒髪と切れ長の目が印象的だが、弟は母と同じ飴色の髪をしている。兄の中学校入学を祝って撮影したそれは、最後の家族写真だった。
地域住民に信頼され、医療に従事した父、美しく聡明な母と仲のよい兄弟。たったひとりの患者の死によって未来を閉ざされた四人の、幸福だった日の姿がそこにはあった。
「一家心中と言えば聞こえはいいが、そこに俺の意思はない。殺人同然のことをしておいて『生きろ』だなんて、身勝手過ぎるだろっ」
勢いよく溢れ出す涙を、俺は追えない。膝と畳を濡らすそれを見る志賀も返す言葉を持たないのか、無言で項垂れている。
俺と志賀は違う、と以前、俺は言った。凄惨な過去に苦しむ自分と、温かな家庭に暮らす志賀には大きな隔たりがあるという意味だ。志賀も今、それを実感したに違いない。
「祖父母には愛情を注がれたけれど、ひとりだけ生き残った罪悪感が強過ぎてうまく甘えられぬまま、祖母は二年前に亡くなった。入院中の祖父も、もう長くはないだろうと言われている。俺はまた置いていかれて、ひとりに……っ」
「落ち着いて、篠宮さん。身体に障ります」
昨日切れた咽喉の傷、あるいは咳を気遣うように、志賀が背に触れてくる。
「俺も家族と一緒に逝きたかった。でも、一度死にそこねたらもう駄目なんだ。ひとりで死ぬのが怖くて深くは切れない。そのうちに、自分はもう死んでいるのではないかと思えてきた。既に死亡した人間がもう一度死ぬことはできないから。でも、血を見るとまだ生きていると感じてしまう。いつの間にか、死にたくて切るのか、生きていることを確認するために切るのか判らなくなった……」
塞がった傷と切りたての傷。無数の直線が交差する腕を見下ろし、俺は息を吐く。
死にたい、生きたい。
志賀を解放したい、手放したくない。
そんな矛盾の狭間で、疲弊している。
大切な人を失うことは何度経験しても慣れなくて、卑怯な手段だと認識しつつも酷い傷を晒して泣いている。
自分はそんな、どうしようもない人間だった。
「……篠宮さん」
淡い声が、そっと空気を湿らせる。俺の左手を取って浅く目を伏せた志賀の舌先が、傷のひとつに柔らかく触れてきた。まるで、童話の中の王子が姫の手の甲にキスをするみたいだ。俺は小さな痛みに声を上げそうになりつつも腕を引けず、代わりに志賀の瞳を覗き込む。真意を探ろうと目を凝らしてみたが、泣き濡れた双眸に映る光景は白く霞むばかりで何も見えない。
「生きるんだ、悠悧」
「……!」
志賀の声が信じられぬ言葉を呟いた。ゆっくりと丁寧に紡がれたそれは、『水底に眠る』の一文であり、父親の遺言とも言うべき一言だ。俺は限界まで瞠目し、強烈な悪寒に肩を震わせ、拒絶するように首を左右へ揺らした。
「俺の身体は海面に叩きつけられた衝撃と、体内の奥深くまで侵入した海水に壊された。呼吸をするだけでも精一杯なのに、その上どうしろと言うんだ」
知らず、涙がまた転がり落ちた。
「それでも今あなたが生きているのは事実だし、最も重要なことに違いないでしょう?」
「違うっ」
「違わない」
「違……っ」
「ったく、見た目によらず頑固ですね」
ぽん、と音がしそうな勢いで、志賀の両手が俺の頬を挟みに来た。言い終えるや否やのその衝撃に、俺は突然視野が晴れたような気さえする。膝先へ落ちていた目を上げると、綺麗な黒い瞳と真正面から視線が絡み合った。
「家族と離れてもおじいさんとの別れの日が来ても、まだ俺がいる。あなたが父親から教えられたのは、死に方ではなく生き方だ。誰とどう生きるか、自由に選択していいんだ」
「志……」
「俺では、あなたの生きる理由になりませんか」
「……賀」
あの日。生きろ、と父は叫んだ。そして今日、同じ言葉を志賀が言う。『生きる』も『死ぬ』も、地獄としか思えぬ俺に向かって。
「だったら俺に印をつけて。志賀が俺を決して捨てないという証をこの身体に刻んでよ」
「……証?」
「何も考えずに、ペンで線を引くように一直線に動かすだけでいい」
「っ!」
かち、と俺の指の間で音を立てたものは、いつもジーパンのポケットに忍ばせているカッターナイフだ。見つめる俺の目の前で、志賀の顔が恐怖に引き攣った。健全な男子高生である志賀は、自身の身体にナイフを向けたことなどないに決まっている。それなのに、いきなり他者の腕を切れと言われたのだから、それは当然の反応だ。簡単だよ、と笑んで左腕とカッターを差し出す俺に向けられたのは、狂っていると言わんばかりの拒絶の表情だった。
緊迫した時間がふたりの間に流れる。やがて、沈黙を破ったのは志賀だった。鋭利な光が双眸を駆け抜けたと思った直後。
「ふざけるなっ」
力加減を忘れた手が、勢い任せに俺の右手を払い除けた。
カッターが弾き飛ばされ、テレビ台にぶつかって止まる。
2センチほど押し出された刃は、手荒な扱いに抗議するかのように天井から降る照明を反射した。
「……そこまで言うなら」
俺を射竦めた志賀が呻くような声を聞かせながら、自身のネクタイを緩めてゆく。その無駄のない仕草に野生の獣を彷彿とさせられ、俺は自分が無意識に生唾を飲み込んだことを耳の奥に響いた音で自覚した。
「皮膚なんかじゃ足りない。もっと深い場所に、俺を刻み込んであげますよ」
「!」
ネクタイを投げ捨てた志賀が、有無を言わせぬ力で俺を押し倒し、身体の上に覆い被さって──……。
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