6 ……雨、そして

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6 ……雨、そして

「皮膚なんかじゃ足りない。もっと深い場所に、俺を刻み込んであげますよ」 「!」  ネクタイを投げ捨てた志賀が、有無を言わせぬ力で俺を押し倒し、身体の上に覆い被さってきた。恋愛感情よりも激しい何かに、突き動かされているような荒々しい動作だ。俺の後頭部を強く抱き寄せる右手の理由は、直前の俺の挑発に対する苛立ちや意趣返しだろうか。怒りさえも超越する、志賀(しが)の感情のスイッチを押したのは、おそらくは彼自身ではなく俺だ。 「んぅっ」  ファストフード店での、軽く触れただけのキスとは違う激しい口づけに俺は戦慄した。何度も角度を変えて唇を重ねられ、侵入してきた舌に歯列を辿られる。形を確かめるようにひとつひとつの歯をなぞるそれが、怯えて後退する俺の舌を貪るように絡め取る。ふと、胸の辺りをよぎった不快感に、俺は両手で志賀の肩を押し退けた。 「ごほこほっ、ごほ……っ」  畳の上で身体を折り、左右の手で口と胸を押さえ込む。繰り返す咳に呼吸が妨げられ、きつく閉じた目元に涙が浮かび上がる。と同時に、背を擦ろうと近づいてきたらしい志賀の手が、どんな理由によるものか、びくりと震えて止まるのが視界の端に引っ掛かった。何だろう、と俺が思惟できたのは一秒にも満たない短時間だ。見上げた志賀の眼光は鋭く、精悍な面差しは憤りにまみれていた。 「それも、自傷の一種ですか」 「……え?」  志賀の目の奥に、不穏な光が一瞬走る。 「好きでもない俺を受け入れて自分を傷つけて、そんなことが一体何になるっていうんです? どこまで自身を破壊すれば気が済むんですか」 「違うっ」  悔しげな志賀の表情に、俺は一瞬で意味を理解した。勢いよく半身を起こして怒鳴り、予想外の反応に気圧されたらしい志賀の肩を右手で強く掴んだ。 「俺だって男だし、本当に嫌なら最初から志賀を蹴り飛ばしてる。だから、これはそういうことではなくて」 どう言えば正しく伝わるのだろう。俺は、恋などしたことがない。逢いたい、触れたいと思ったのは後にも先にも志賀だけだ。が、それを告げることは怖ろしく難しい。 「こんな……キスは……初めてで」  言い訳が震えて止まる。これ以上は言えなくて、察してくれと願いを込めて俯いた。 「呼吸のタイミングが判らずに苦しかった、と?」 「確認するな。志賀が妙に慣れている感じなのも腹が立つし」 「俺も実践は初めてですけど」  笑いを含む声と一緒に、気安く頬に触れてくるのは温かい手だ。 「実、践?」 「中学時代、女子の間で流行っていたBL漫画がなぜか俺へ回ってきたことがあったから、後学のために熟読しておいたんです。人生、何がどこで役立つか判らないものですね」 「び」  BLとは、と言いかけ、やめた。よく判らないが、今はそれを追求するときではない。息を吐き、俺はわざと別の言葉を選んで舌に載せた。 「志賀に初めて会った日、バカで下品で失礼な奴だと思った」 「はい?」 「女の子の日とか男装女子とか言うし」 「言いましたねぇ」  苦笑する志賀を、俺は横目で睨む。 「でも、何度も助けられているうちに、いつの間にか好きになっていた」 「……篠宮さん」 どくっ、と。柔らかなニットの下で鼓動が高鳴った。  掴んだままでいた志賀の肩も跳ね上がったようだ。人生初の告白は、成功したのだろうか。もう一度と懇願されても言える自信は全く、ない。 「さっきのは、本気? 志賀は、俺の生きる理由になってくれるのか」 「あなたがそれを望むなら」 「望む!」  即答してしまった。たった一度の告白と引き換えに最上の約束を貰う自分は狡い人間だが、志賀は俺に残された最後の希望だ。この恋を失ったら、俺は明日こそ本当に死ぬかもしれない。 「触れてもいいですか」  答える間もなく、肩に載る俺の手を志賀が抱き寄せ、指先に口づけ始める。流れのまま深いキスに持ち込まれそうな予感に、俺は直前で顔を背けた。 「慌てなくても逃げない。場所を変えよう」  そっと、目を仏壇へ向ける。写真とはいえ、親兄弟に見学されながらのキスは気まずい。察してくれたらしい志賀と苦笑を交して、立ち上がった。目的地は居間の斜め向かい。冷たい廊下を数歩だけ行って開けた襖の先が、俺の寝室だ。 サッシの前には障子ではなく黄色いカーテンが引かれ、左右の壁際には幼少期から使用している学習机とベッドがそれぞれ置かれている。ここに引き取られた日に、祖父母が用意してくれたものだ。海を思わせる青ではなく太陽のような黄色を選んでくれたことが、子供心にも痛いほどありがたく思えたのを今もよく憶えている。 「物が少ないですね」 「片付いていると言っ、んっ」  言い切る前に抱きしめられた。触れ合えるのならば、部屋の状態などどうでもいいと言わんばかりの勢いだ。志賀は性急に俺の腰へ腕を回し、唇に舌を這わせる。勢い余って互いの足が縺れ、ベッドへ倒れ込んだ。  軽い音を立て、ふたりを受け止めた敷布団は硬めだ。浮遊感や落下感の苦手な俺には最適なのだが、何も言わぬ志賀がどう感じたかは判らない。睨んでも動じない瞳に負けて目蓋を下ろすと、許可を得たとばかりに志賀の右手が後頭部を抱き寄せに来た。 「……志、賀」 「慌てなくても逃げません」 「真似するな」  一回ごとに深くなる口づけがしだいに熱を帯び、濡れた音を響かせ始める。熱に浮かされたように俺の息遣いは乱れ、急速に溶解してゆく理性の留め方が判らなくなって困った。 「……ぁ……んぅっ……」  果実を()むように志賀に舌を吸い上げられると、痛むはずの咽喉からは果汁の如く甘い声が溢れ出す。ひとしきり舌を舐め合った後で口づけを解いた刹那、ふたりの間に唾液が長く透明な糸を引いて滴り落ちた。 「ここはどうです?」 「……ひ、ぁっ」  不意打ちに、俺の背は勝手に跳ねた。胸の突起に触れてきた指先が、電流を発したように熱く感じられたのだ。 「まだ何もしていませんよ?」 「判ってるっ」  不機嫌を装って羞恥心を隠せば、志賀は、お見通しだとでも言いたげに笑う。口元を覆う手をどけられ、再度のキス。怯えさせぬようにとの気遣いはありがたいが、他者に治療以外の目的で身体を触られていると思っただけで熱が出そうだ。ままならない呼吸に耐えかね、俺の肺は縋るものを求めて無意識に志賀の背へと回っていった。 「大丈夫ですか、篠宮さん」 「……ん……ぁ……あぁっ」  ニットの下へ滑り込んだ爪の先で胸の突起を引っかかれた瞬間、ぞく、と何かが全身を駆け抜けていく感触がして声が跳ねた。しだいに存在を主張し始めるそれを、志賀は器用に指の腹で擦り、掌で転がし、舌を這わせて弄ぶ。 「いっ……あ、んんっ」  ざらついた舌が肌を這うたびに心臓が震え、丸まった足の指がシーツに弧を描く。触られているのは胸なのに、身体の中心が疼くような感覚がする。揺れそうになる腰をごまかすために身を捩りたいけれど、そうすることによって志賀の指が離れていくのが嫌だ。矛盾する思考に奥歯が、きり、と鳴った。 「ここ、好きですか」 「……ぅる、さいっ。女じゃないし、そんな所、何でもない」 「じゃ、もっと舐めていいですか」 「なっ、バカ、やめ……っ」  男装女子という単語を根に持っているわけではない。ただ、ちょっとした仕返しをしてみたくなっただけだ。それなのに、強気な台詞とは裏腹に仰け反ってしまう自分の首が恨めしい。日頃自分で触れぬ場所にこんな感覚があるなんて、俺は想像もしていなかった。 「好きだよ、悠悧」 「卑怯だ、こんなときに名前……っ」  耳朶を甘噛みされ、鼓膜に甘い声を注ぎ込まれる。長い指に鎖骨を辿られるくすぐったさに、俺はまた小さく喘いだ。  されるがままは悔しくて、右手を持ち上げ、志賀の前髪をかき上げる。遮蔽物の取り払われた顔はこんなときにさえ精悍さを保ち、美しい。まっすぐな眉も強気なまなざしも、俺とは違って格好がいい。きれい、と正直に言ってしまいそうになる唇を、俺は慌てて閉ざした。 「俺の名前は憶えていますか」 「ぁ、んっ、そこ、もう嫌だ」 「これからどうしてほしいですか」  舌と指で左右の胸を愛撫され、俺は今度こそ身を捩る。心臓がどくどくと鳴って、呼吸がおかしくなりそうだ。 「キス、して」  保ちたいと努める理性、それを駆逐しようとする本能。今日までの人生で口にしたことのなかった言葉を言ってしまった瞬間、俺は志賀に陥落させられた己を知った。玩具を欲しがる子供みたいに、自然に志賀へと腕を伸ばし、引き寄せて唇を重ねる。──が、キスに夢中になりかけた、そのとき。 「ひぅっ」  不意に下腹部へと何かが触れる感触が来て、甘美な夢が途切れた。右手で俺の顎を捉えてキスをくれている志賀の左手が、ジーパンの上から俺の性器に触れている。声も出せぬほどの羞恥とは反対に、それは先ほどから熱を帯び、勃ち上がり始めていたものだ。劣情を知られ、一秒で頭が冷えた気分になった。 「俺の手に反応してくれてる。よかった」 「やっ、待っ」  待て、と言いたかったし、何がなのかと問いたかった。が、志賀にはそんな親切心はなかったらしい。大きな手でジーパンと下着をまとめて下ろすと、勢いよく現れた俺の性器を室内に満ちる冷気よりも早く掌に包み込み、無遠慮に数度扱いた。 「怖いことはしませんよ」 「……やっ……ぁあっ」  先端を親指でくるりと撫でられ、中心を引っかかれると、俺の身体は電流を流されたかと思うほどに大きく震えた。 「あ、んっ、あぁっ」  勝手に揺れる腰に合わせ、緩急をつけて愛撫を加えられれば、俺はもう意識がどこかへ飛んでしまったように無抵抗で喘ぐことしかできなくなる。ぞくぞくする背が寒くて、熱を欲する五指が志賀のワイシャツをきつく握った。 「……志賀……志賀も、して」 「え?」  思いもかけない願いだったのだろうか。志賀の手が一瞬止まった。俺は伸ばした指先で志賀の腰に巻きつくベルトを外す。本気なのかと問われるよりも先に、かちゃ、とバックルを鳴らし、志賀の腰を束縛から解放した。 「一緒に握って。志賀といきたい」 「バカっ。そんな煽り方、されたら……っ」 「いいから、早く……っ」  何を言っているんだ俺、と頭の片隅で理性が叫ぶ。しかし、身体はそれを聞かず、右手が下着の上から志賀の欲望を包み込む。やんわりと握ってみると、俺よりも男らしいそれがさらに質量を増したように感じられた。 「どうなっても知らねぇぞ」 「どんなでも、いいっ……」 「あんたって人は」  熱を帯びた志賀の双眸がカーテン越しの夕日を受け、淡いオレンジ色に染まってゆく。見つめる視界の真ん中で志賀が自身の制服をかなぐり捨てるから、俺も即座にニットを首から抜いた。志賀の手に、ふたりの性器が一緒に収まる。触れ合うそれの温度は熱湯みたいだ。 「……篠宮さ、ん」 「志賀……あぁっ」  志賀の掌が熱い。触れ合うたびに体温が交錯し、互いの熱で昂ってゆく。どちらのものとも判らぬ雫で、志賀の指が一瞬滑った。 「……志、賀っ」 ふたりを導く志賀の手に限界を感じながら、俺も片手を重ねた。ただそれだけの瑣末なことに志賀が小さく笑んだ直後、快楽の波が言葉にできぬ悦びへと変化して、俺の全身を突き抜けてゆく。 「悠、悧っ」 「……っ」 眼前で閃光が弾けたと思った刹那、俺達は揃って白濁を迸らせた。 「……は、はぁ、はっ……けほっ」 瞬時の緊張と弛緩。数度の咳の後、俺は汗に濡れた前髪を両手でかき上げた。 「自分の身体がこんなふうになるなんて、全然知らなかった。まだ心臓が静まらない」 「自分でしないんですか、篠宮さん」 「しない」  自慰なんて生きたい奴のすることだと思ったけれど、志賀が哀しい顔をしそうで言えない。代わりに俺は、自分の頬に付着した飛沫を手の甲で拭って眺めた。志賀がヘッドボード上のティッシュを箱ごと向けてきたから、黙って一枚だけ引き出す。勧められてはいるが、元を正せばこれは俺の部屋の備品だ。 「照れていますか。かわいいですね」 「うるさいっ」  あまりに素直な志賀の感想に、間髪入れずに俺は怒鳴り返した。そんなところがかわいいのだと続けるなら殴ってやろうと思ったが、志賀は微笑しただけで何も言わない。言葉の代わりに柔らかなキスがひとつ、額に落とされた。 「これも、人生初の経験だ……」  心地よい疲労に囚われて、俺は志賀の肩に身体を預けた。
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