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「使えねぇな」
図書室の扉を開けると同時に、恨み言じみた独白が聞こえた。窓際の机へスマホを伏せたのは志賀だ。何を検索していたのか、手元にはいつもの『水底に眠る』が置いてある。
俺は苛立ちに似た気持ちに襲われながら、このまま戻ろうかと一瞬迷った。
「まだ捨てていないのか」
それでも戻りかけた足を室内へ向けたのは、志賀へ渡すために持ってきたものがあったからだ。俺の右手が小箱を机に置くと、志賀は勢いよく上げた目で俺を見て、すぐに視線を小箱へと流していった。
意味を理解できないでいるらしい志賀を放置して、俺は立ち尽くしたままで一度だけ咳をした。
初めて言葉を交したあの日と同じ曜日、同じ時間。ふたりは再び図書室で出会った。
「志賀のクラスはまた自習?」
「……数学教師、病弱なので」
開きかけた志賀の唇が紡ごうとした本当の言葉は、篠宮さんのクラスは水泳ですね、だろうか。言葉で確認しなくても、下界を見れば一目瞭然だ。
「これは何です?」
志賀が首を傾げて眺める小箱は、駅前のコンビニで購入してきた絆創膏だ。パッケージの右下に、赤い文字で二十枚入りと記されている。
「お詫び。ファストフード店で、志賀を突き飛ばしてしまったから」
目を合わせたら声が震えそうでわざと横を向いて話したけれど、座ったままの志賀が俺の顔を見上げていることは頬に当たる視線で明らかだった。
「怪我はしていません。というより、あれから何日経ったと思っているんですか」
「一週間? 十日?」
「些細な傷なら、とうに治っていますよ」
「……あぁ、そうか」
俺に突き飛ばされて椅子の背に身体を打ち付けたであろう志賀に、そもそも絆創膏はおかしい。湿布を買ってくるべきだったと思っても、時既に遅し、だ。様々なことがうまく行かず、俺は無意識に唇を噛み締めた。
夏の気配が近づく閲覧席にはエアコンの冷気を凌駕するほどの陽射しが降り注いでいるが、ふたりの周囲だけが絶対零度の世界のように色と温度を失ってゆく。
「用件はそれだけ。邪魔してごめん」
気詰まりな沈黙を、俺は断ち切った。踵を返した上履きの下でフローリングの床が、きゅっ、と鳴る。
「待ってください!」
廊下へ通じる扉に触れる直前、視野の端に椅子を蹴って立ち上がる志賀が映り込んだ。そういえば俺は毎回、志賀を置き去りにしてしまっている。今回ばかりはそれを回避しようと、志賀も考えたのだろうか。日焼けした右腕が伸ばされ、俺の左手首を握り締める。示し合わせたかのようなタイミングで閉じる五指に、俺のワイシャツの袖口が収められていく。志賀は半袖、俺は長袖。その季節感のズレが、俺に強烈な違和を与えた。
「俺に話すことがあるでしょう、篠宮さん」
穏便な口調は、多大な努力によるものだろうか。詰問したいわけでも警戒心を煽りたいわけでもないと、志賀が思っているのは確かなようだ。俺は掴まれた腕の痛みに眉を顰め、真率な表情をした志賀から顔を背けた。
「説明するほどのことなんて何もない。映画の日は体調が優れなかっただけだ。志賀こそ、どうしてあんなこと……っ」
しまった、と思った。が、発した言葉はもう取り戻せない。ファストフード店での一件に関してだと志賀も察したらしいと判って、俺は足元に落とした瞳で強く床を睨んだ。
「あんなことって何です、篠宮さん」
ずるい問い方をされた。目を細めて俺を見る志賀は、嗜虐心の権化だ。俺からキスという単語を引きずり出そうと、意図的に自身の唇を赤い舌先でちらりと舐める。双眸に反発心を込めて志賀をきつく睨めつけ、獣に喰われる直前の小動物のように無駄な抵抗を試みる俺は、しかし、キスという二文字を口にする勇気を出せぬままで立ち竦んだ。
数分後、浅い吐息で睨み合いに見切りをつけたのは志賀だった。
「衝動ですよ。他に何があるんです?」
「誰にでもするのか」
「まさか。篠宮さんだからです」
「!」
大きく熱い志賀の手に掴まれたままの、腕時計をはめていない皮膚の下で、一度だけ自分の脈が強く跳ねた感触がした。
「俺だから?」
「あなたが好きだからです」
「嘘」
思わず一歩後退する俺の胸元で、濃紺のネクタイが揺れる。直後には無駄に開いた距離を厭うように志賀の上履きが前進し、互いの隙間を元に戻した。いずれにせよ、俺の左腕は志賀の右手と繋がっている。逃げることなどできはしないのだ。
「本当ですよ。証明してみせましょうか」
「……っ」
言うが早いか音もなく志賀の左手が動き、俺はその掌に、いとも容易く頬を包まれ、目線を捉えられた。天井からの照明を受けて煌めく黒い瞳は美しいが、俺には志賀の思考が読めない。すぐに口づけられるのかと覚悟を決めたが、志賀はそうせず、一体何を思惟したのか或いは無意識だったのか、俺を捕まえている右手に力を込めた。
「痛っ!」
俺は突然左手首を襲った激痛に耐え切れず、彼の右手ごと自分の左腕を抱き締めるようにして背を丸めた。
「篠、宮さん?」
手首を握られただけにしては大袈裟な反応に志賀が驚き、瞠目する。その瞳が過去を見ていることに、俺は五感を超越した不思議な感覚で気がついた。
最初の日、雨が降り出す直前の昇降口。故意に階段から落ちようとした俺の腕を掴み、力任せに引き戻した志賀。その掌へ残ったのは、俺の……血のにおい。
「失礼します、篠宮さん」
「嫌だ、やめろっ」
「暴れないで」
抗う身体を押さえつけ、志賀の指が器用に俺の袖のボタンを外す。左袖を乱暴に捲り上げられた瞬間、頭上で志賀が息を呑んだ気配がした。現れたのは手首から肘までを覆う、純白の包帯だ。それでも長い指は止まろうとはせずに、小さな包帯留めを投げ捨て、包帯を解き出す。皮膚に近づくにつれ、赤黒い汚れの濃淡が鮮明になり、血臭の濃度も上がっていった。
「見るなっ!」
「篠」
宮さん、と呼ぶはずの声は戦慄に吸い込まれ、咽喉の奥で消滅したようだ。包帯が指の間をすり抜けて落下するのにさえ気づかずに、志賀は茫然と俺の手首を見下ろしていた。
「……な、んで……」
信じられない、と続きそうな呟きが志賀の唇から零れ落ちた。
陽光に晒すことの少ない肌の上で交錯するそれは、幾筋もの創傷だ。微かな痕を残して塞がったもの、乾きかけのもの、切ったばかりの血の滲むもの。その大きさや深さは様々だ。太い血管を切断して生命を危機に晒すほどではないにせよ、傷の上に傷を重ねた凄惨な状態は随分と長く自傷を続けてきたことを如実に物語っていた。
「気味が悪いだろ」
「どうしてこんなことをするんです? 両親は? 家族は知っているんですか」
「……家族?」
畳み掛ける言葉に、今度は俺が茫然とさせられた。付き合いの浅い志賀でさえ、俺から漂う血臭に気づいたくらいだ。まっとうな親ならば息子の自傷行為に無関心でいるはずがないと、彼はそう言いたいのだろう。
知らず、俺の目は机上の『水底に眠る』を捉えた。主人公は小学生の男児。優秀な小児科医の父と美しい母、聡明な兄。その順風満帆な人生を大きく狂わせた、ひとりの患者の死……。
「俺は、志賀とは違う!」
肺を侵す海水の幻影を吐き出したい一心で、俺は叫んだ。
悲愴感を纏う声が緊迫した空気を裂いて響き、ふたりの間に越えることのできぬ溝を刻み込む。
何が、と志賀は問わない。読書好きな真面目な脳で俺の言葉の真意を探ってでもいるかのように、ただじっと黙ったままで佇立している。そして、俺自身もまた、大きな声でそれを言ったことによって、自分と志賀の決定的な差異を深々と自覚するに至ってしまっていた。
志賀龍誠という人間の幼少期や家族構成を、俺は知らない。けれど、ひとつだけ判ることがある。他者を思いやり、助けることのできる志賀の健全な精神は、健やかな家庭に身を置き、愛情を注がれることによって構築されたものであること。そして、それは永久に俺には触れられぬ世界なのだということ……。
「志賀も、もう俺から離れていいよ。短い間だったけど、いろいろありがとう」
「な、に」
「同情なんて要らないし、自傷を止めろと言われても無理なんだ。俺とかかわることで志賀を歪めたくない。だからもう……」
……刹那。
だんっ、と耳元で音が弾けた。向かい合って立つ志賀との距離が、直前よりも格段に近い。彼の肩から俺の視界の右端へと、まっすぐに伸びている小麦色に焼けた腕。耳の横で鳴ったのは、志賀の左掌が俺の背後の扉を突いた音だったのだ。
「なめんなっ」
志賀の言葉から敬語が消えたのは二度目だ。黒い瞳に揺らめく激昂は、まるで青い炎。激しく美しく、俺を捉えて焼き尽くそうと燃え上がる。
「離れていいなんて、本心じゃないでしょう? あの日、俺は楽しかった。篠宮さんだって、普段よりも笑っていました」
「俺、は」
志賀の右手が、俺の後頭部へ触れてきた。左腕を背後から回され、俺は志賀に抱き締められる格好になった。
「あなたが抱えているもの、怖れているものは何ですか。俺にも教えてもらえませんか」
髪に唇を寄せられ、耳元で紡がれた言葉に、俺の心臓はびくりと竦んだ。
「そんなの、言えるわけがない」
「どうしてです」
高三男子の自傷の理由は受験、或いは陰湿ないじめ、と志賀は想像しただろうか。
そうでなくても俺はこんな身体だ。いつか死ぬなら今でも同じと思ったことが、ないとは言わない……けれど。
「……言えない」
志賀の言うとおり、離れていいなんて本心のはずがない。
なぜなら俺は志賀の体温を、そのぬくもりと安心感を知ってしまったから。
暗く陰惨な過去を語った途端に見限られるくらいなら、受け入れてもらえるなどという夢は見ない方がいいに決まっている。
「二度と訊くな」
呟く声に、耳障りなチャイムが重なった。
時間切れを告げる音色は一片の情け容赦もなく、俺の胸中に絶望という名の波紋を広げてゆく。志賀は俺の言葉を、文字通りの拒絶として受け止めたらしい。一瞬どこかが痛んだみたいに精悍な顔を歪めると、俺を抱く両腕から力を抜いた。
「あなたが使った方がいいですよ」
長い指が俺の手に載せたものは、絆創膏の箱だ。黒い前髪の落ちる顔は決してこちらを向かず、俺に気持ちを読ませてくれない。
「乱暴なことをして、すみませんでした」
血塗れの腕と過去を隠す俺の目に、志賀の清廉な姿は眩し過ぎる。
廊下へ出てゆく背を見送って、俺は掌にいくつかの咳を落とした。
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