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長引く裁判は医師一家を疲弊させ、崩壊を手繰り寄せてゆく。夫婦には諍いが絶えなくなり、自室に閉じこもったままの長男は昼夜を問わずゲーム三昧だ。小学生の次男が慣れぬ家事を担い、どうにか家族の正気を繋ぎ止めてはいるものの──。
「それ、篠宮君の本?」
崎谷さんの紡いだ疑問文に自分の名を聞き取って、俺は純文学の棚の前で足を止めた。
綺麗に並んだ閲覧机のひとつに向かったまま、その問いを受け止めた生徒は志賀だ。
「そうですけど」
俺の本と言えば、『水底に眠る』だ。
瓦解寸前の世界から現実へと引き上げられたのであろう志賀は、見慣れた図書室と人懐こい司書の笑顔に安堵しているのかもしれないが、俺から見えるのは後ろ姿だけだった。
「どうして判るんですか」
『水底に眠る』はハードカバーではなく、厚みや形に特徴はない上、書店の紙カバーのせいで表紙は見えず、ありふれた文庫本という印象の他に感じ取れるものはない。とはいえ、相手は司書だ。図書室内に、彼の知らぬ本などあろうはずがなかった。
「君に会う前の彼が、よく読んでいた」
「あぁ。見覚えがあったということですね」
いい? と椅子を指差し、司書は志賀の向かいに腰を下ろした。そのまま黙して窓の方を向いた彼にかまわず、志賀は再び本へと目を戻す。
平穏な放課後。開け放った窓の下に運動部員らの掛け声が聞こえ、音楽室からは吹奏楽部の演奏が響いてくる。
どのくらいの時間が経っただろう。
崎谷さんが、頬杖をついた姿勢で深く息を吸い込む様子が、俺の正面に見えた。
「見ちゃったんだって?」
親しいのか否か判然としないふたりの会話に、俺は書架に身を隠したまま耳を欹てた。
「篠宮さんに聞いたんですか」
潜めた志賀の声が指すものは、俺の左腕だろう。正解だったのか、崎谷さんは身体ごと彼へと向き直り、視線を合わせた。
「よく話すんですか、篠宮さんと」
「かわいいでしょ、あの子」
からかうような口調と、正反対の真顔。そのギャップに、俺は言い知れぬ違和を感じた──が、それは一瞬のことだった。
「彼は一年生のころから毎日ここへ通っていたから、僕とはちょっとした仲良しというところかな。年齢の離れた兄弟みたいな?」
それは、事実に違いなかった。崎谷さんの温厚で分け隔てのない性格を俺は好ましく思っているし、彼からも適度な親愛の情を寄せられていると思えることが日々様々にある。
「篠宮さんのこと」
詳しいんですか、と言いかけたのであろう口を、志賀が噤んだ。俺が語らぬことを、他者から聞き出すのは卑怯だと感じたのかもしれない。どれだけ真面目で公平なのかと呆れる反面、なんだか胸の内側が温かくなるような気がした。
「僕から篠宮くんについて言えることは何もないけど、この本は最後まで読むといいよ。読破したとき、君の不安や疑問は全て解決するから」
崎谷さんは俺の立場を尊重したのか、何ひとつ情報を漏らすことをせずに、伸ばした右手で机上の『水底に眠る』を優しく撫でた。
「どうしてそう思うんですか」
「君と彼の関係も大きく変わるよ、きっと」
「だから、どうして」
カフェにでもいるかのように寛いで言い、美貌の司書は長い足を悠然と組んだ。対する志賀の声に含まれるのは、ほのかな苛立ちだ。
「年長者の言うことは信じるものでしょ」
不意にこちらへ飛んできた司書の、意味深な視線が俺の胸を刺す。
「近ごろ、篠宮さんはここへ来ていますか」
「あぁ、うん……ふっ、ふふふ」
「は? 今、笑うところですか」
「よく来るよ」
身体を丸めて笑い出した崎谷さんに志賀が不審そうにつっこむが、俺の姿が見えていないのだから無理もない。彼が何を思うよりも早く、ふらりと上がった司書の右手が志賀の背後を示した。
「今もいる。君の後ろに」
「!」
姿を隠す余裕も顔を背ける暇もなく、立ち尽くす俺と振り返った志賀の視線が絡む。と、認識した直後、俺の足は勝手に出入口の扉へと駆け出していた。
「あ、逃げた。うさぎみたい」
崎谷さんの笑いを含んだ声音が、俺の背を見送っているようだ。志賀に呼び止める隙を与えずに、俺は引き戸の外側へ飛び出した。
「……っ」
三Aの教室を目指して角を曲がった瞬間、不意に襲ってきた胸痛に膝が折れた。長くは走れぬ身体が込み上げる咳に負け、白い壁に支えを求める。いつどこで斃れ、朽ち果ててもいいと思っていた壊れかけの自分。だが、今は心中に一本の芯が通ったように、目蓋の裏に毅然と立つ志賀が見える。
「志賀、龍誠……」
俺は一目惚れなんて信じないけれど、時間をかければ判るものも、きっとある。その答えが知りたくて、震える指で前髪をかき上げ、立ち上がった。
何もかもがここから始まるのだと、そのくらいなら信じてもいいと思えた。
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