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5 晴れのち……
──お父さんっ!
少年は助手席から身を乗り出し、全身の力を振り絞ってステアリングを握る父親の腕に縋りついた。家族を乗せた乗用車は海沿いの峠を疾駆している。少年の目に映る景色は、山間の町に住む祖父母宅へと続くものではなかった。崖に張りつくような狭い道の端に設置されたガードレールは潮風を受けて錆び、頼りがいがあるとは言い難い。一歩でも踏み越えてしまえば、真下の海へと転落することは確実だった。
──お母さんっ。兄ちゃんっ。
後部座席にシートベルトで固定された母親と兄は、いくら呼んでも目覚めない。平素と違うふたりの様子と見知らぬ風景に不安を感じた少年が覗き込んだ父親の目は酷く濁っているにもかかわらず、異様な輝きを放って前方の一点を凝視している。狂気に囚われていることは明らかだった。
──お父さん、停めて! 怖い!
だが、父親は息子の哀願を受け入れず、車は周囲の景色が見えぬほどの猛スピードで峠を駆け上がった。
──お父さん!
ごと、と鈍い音が一度だけ走行音に混ざった。少年に強く揺さぶられた父親の頭部が、窓ガラスに衝突した音だ。父親の双眸に宿る狂気が薄れる瞬間を、少年は見た。
──すまない。
父親の目に涙とともに息子への情愛が浮かび、ステアリングを離れた片手は少年を束縛するシートベルトを素早く解除する。少年の身体を越えて伸ばされた屈強な腕が助手席側の扉を大きく開けると、車内に暴風が吹き荒れた。
──生きろ。
父親の無骨な掌の熱が、少年の頬を包み込む。
──生きてくれ。
そう言って大きく頷いた父親は、一瞬の躊躇いも見せずに渾身の力で息子を車外へと突き飛ばした。
──生きるんだ、悠悧!
中空へ迸った叫びは、最期の願いだ。しかし、少年を受け止めるためのアスファルトは、そこにはなかった。車は既にガードレールを突き破っており、少年は海面に叩きつけられながら、車ごと暗い海の底へと沈んでゆく家族を見た。
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