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1.由良希彦《ゆらまれひこ》
「56歳女性、昨晩Walk-inにて受診。主訴は腹痛、朝起床時より症状あり経過を見ていたが軽減しないため受診に至る。当院にてDMフォロー中、内服薬多量。バイタルは呼吸数36、心拍92、血圧162/74、体温36.4。会話可能。大きく深い呼吸持続。頻呼吸、頻脈持続。綿密なモニタリングの継続が必要であると判断。糖尿病性ケトアシドーシス(DKA)の治療にも持続的な血ガス分析とインスリン持続注入の調整およびカリウムの補充の必要性を考慮して、ICU入院が妥当と判断しました。現在はDKAの再燃がないことを確認、消化器内科病棟へと転室済みです。」
昨晩当直だった為、今朝の救急カンファではメインで話しを進める。目まぐるしく多岐にわたった夜間を出来るだけ簡潔明瞭にレポートするのも、専攻医三年目の今では普通にこなすことが出来るようになった。
「よう、お疲れ。」
同期の鎌田が肩を叩く。初期研修の時からずっと一緒だ。
「おう。」
「荒れたみたいだな、昨日。」
「まあな、でもまあ、通常の範囲内だよ。」
「とりあえずお疲れ。ってこれからデート?」
「行かねーよ。っていうか、無理、身体ボロボロ。」
「とか言ってひと眠りした後はしっぽり?」
「朝から品のねえこと言うな。」
俺の嫌そうな顔にも鎌田は全くめげない。
「なあ今度の合コンさ、」
「お前…朝8時からよくもまあ。ラウンド行け、ラウンド。」
「行くけどさ、来るんだろ、お前?」
「ああ、頼まれたからな。」
「いーのかねえ、彼女持ちが。」
「ああ、あれ別れた。」
「え、マジで?」
「マジで。」
「お前、鬼畜なの?」
「何だよ、言葉を選べ言葉を。」
「だってまだ二ヶ月とかじゃん?美央ちゃんだっけ?ミスVIP病棟。」
「いいから早く仕事に行けって。」
「ええ、だってよぉ、」
そう言ってなおも食い下がる背中を乱暴に押し出した。全く。朝する話じゃねえだろうが。
ようやくうっとうしいヤツが目の前から消えた時、
「今月悪いな、当直多くて。」
さっきよりずっと落ち着いた声が追いかけてくる。
「いえ、大丈夫です。」
「まあお前なら任せられるから。」
そう言って軽く肩を叩かれる。俺が二世でこの人がオリジナル。山咲二世と呼ばれるようになってだいぶ経った。
「光栄です。」
仕事は出来るのに果てしなく女にだらしない。見た目もあるからまた志願者が後を絶たない。そういう救急センター長だ。でも俺にとっては諸悪の根源とでも言いたいような、そんな存在。なのに、仕事上では雲の上のような技量の持ち主だから何もかも教わらなければならない。救急医を志すようになって、一年目から、この人には手取り足取り教えてもらった。大量出血に足がすくんで右往左往していた時、重篤と軽傷の判断を誤ってトリアージをミスした時、動転したご家族にくってかかられた時、そんなひよこだった時から何もかも助けてもらった。だからこの人は多分恩師なんだろう。でも。
「おい、大丈夫か?」
ぼうっと突っ立っていた俺に、彫りの深い顔がぬっと突き出される。
「すみません。」
「早く上がれよ。」
「はい、ありがとうございます。」
年齢的には10歳ほどしか違わないはずだけど、知識・技術・判断力、何をとっても雲泥の差だ。
「あー、チキショー。」
呻いて頭を掻きむしったところに、丁度エレベーターが開いて師長の関根さんが下りてきた。
「あら、そろそろ頭にきちゃいましたか?」
こういうところがあの人を思わせる。辛口で豪胆。この人にも救急に来て以来本当に世話になっている。
「かもしれませんね。」
「まだ10年早いわ。」
「10年って、そうしたらセンター長ですよ。」
「でしょ?まさにきてるわよね。」
涼しい顔でお疲れ様と言って、関根さんは病棟に吸い込まれるように歩いて行った。
今日は直帰だ、直帰。着替えてカバンをひっつかんで外に出た。当直が月六回ともなると身体が重い。段々と疲労が残る年齢になってきたことは否めない。なのにものともせずに誰よりも多い当直をこなす山咲さんの顔が浮かんできて、舌打ちしたくなった。そっと風が吹いてきた。センターの青白い明かりに照らされ続けた身体に、まだ暑気をはらむ九月始めの朝が心地よい。わずかに雲の浮かんだ青空に向かって伸びをした。帰ってシャワーを浴びてひと眠りしよう。その後軽く筋トレして走るか。救急医に求められる体力を維持する為にまた運動を始めた。本当は3x3でも出来ると良いんだけど、まあでも今はコートを走り回る相手がいないしな。
涼しい夕風が頬を撫でる。走りながら時折見上げるオレンジと金色の空に、何かを思い出しそうになる。何か。でももう大昔のことだ。それよりも、
「いつだって他のこと考えてる。」
「別に私のことなんてどうだっていいんでしょ。」
「もう次の女?希彦に気持ち、なんてあるの?」
「抱くだけ抱いといて、本気になれないなんてバカにしないで。」
走っているともう誰のものとも言えない顔が景色に溶け込む。その時々の言葉も浮かんでは消える。縋る声、怒る声、震える声。
別に悪気があるわけじゃない。アプローチに応えてほんの一歩先を見せれば、大抵女はしなだれかかってくる。わかっているから期待通りに振る舞う。挙句虚しくなる。それを幾度か繰り返していたら、いつの間にか“山咲二世”と呼ばれるようになり、最近じゃ“二世”としか呼ばれない。山咲が省略されただけでもマシかもしれないが。二世に成り下がった俺にはもう望みはないだろう。それでも、こうして一人で過ごす夕暮れには、もう何度も思い出している瞳が脳裏に浮かび上がってくる。射抜くような力強い瞳。あの目でカツを入れられたから、今の俺があるような気もする。
―プライドなんて犬にでもくれてやれ―
あれには度肝を抜かれたし、思い出して何度も笑った。笑いながら、いつか必ずふさわしいプライドを持てるような医者になって見返してやる、その時には堂々と話したい、そう心に誓ってきた。結局この五年間、あの人に導かれたようなもんだ。
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