1.由良希彦《ゆらまれひこ》

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三年前、二年間の初期研修を終え、希望通り救急の専攻医になった。 なったばかりで山咲センター長に指導を乞うことになり、その度に、すごいドクターに当たったものだと幸運を感謝した。その日も専攻一年目だった俺をつれて食堂に行きがてら、山咲さんはカンファで取り上げられた症例の補足説明をしてくれていた。 「重症度を見抜く判断力が肝だということは重々わかるのですが、それはどうやって習得していけばいいんですか?やっぱり経験ですかね。」 「多様な診療経験は勿論だけど、疫学の幅広い知識は必須だ。患者背景から見抜く、主訴とバイタルから見抜く為にも。病歴から的を絞った身体所見を摂るだけじゃなくてね。」 「患者丸ごと診るってことですか?」 「理解が早くて助かるな。」 ニッコリと肩を叩かれた時だった、関根さんとあの人が話しているのに出くわしたのは。 楽しそうに、でも師長らしく抑えて控えめに笑い合っていた。仲が良いんだな、と思ったその時、記憶通りの綺麗で強気な瞳が流れて一瞬こっちを見た。心臓が一度強く打ったけれど、視線はそんな俺を素通りして山咲さんの上に二秒かそこら留まった。ハッとして山咲さんの横顔を伺うと、その瞳を受け止めてから目を逸らしたのが見えた。関根さんが慌てたように会釈をする。俺も軽く会釈を返した。急いで頭を上げた時、見えたのは踵を返す小さな背中だった。あんなに強気だった人とは思えないほどの小さな背中がどんどん遠ざかった。何かあるのか、あの人とセンター長の間には?食堂のメニューを眺めている山咲さんの横で、嫌な思いが立ち上るのを抑えられなかった。 その日の夕方、院内の恋愛事に誰よりも耳ざとい鎌田がPC前に陣取っているのを見つけて、さりげなく切り出した。 「なあ、山咲さんってやっぱりモテんの?」 「はあ、何を今更。あ、二世としてはやっぱ気に懸かる?」 「いや、そういう訳じゃないけど。」 鎌田は首を左右に振ってポキポキならしながら、生き生きとした目を向けてきた。こいつはほんとにゴシップ好きだ。 「ま、お前も跡継ぎだもんな。師匠のこと知っときたいわな。」 「跡継ぎって何だよ。」 「山咲さんの秘蔵っ子って呼ばれてるらしいけど?」 「は?知らねえわ、そんなの。」 「まあいいんじゃん、あの人なら。っていうか、かなりの光栄だよな。」 「それがほんとだとしたらな。」 「二年目で救急ローテした時からお前のことかってたって話。」 「噂だろ、そんなの。人手が足りてねえからだよ。」 「いやいやいや。あの山咲さんが精鋭以外とるはずがねえ。」 「それお前、自分もそうだって言ってるだろ。」 てへ、と頭に手をやっている。 「てへ、じゃねえよ。」 「いやあ、でもマジで。昨日の当直でも山咲さん、キレッキレだったらしいじゃん。」 「らしいな。」 どうやら話が逸れてしまった。このままではひたすらセンター長を崇める集いになってしまう。仕方ない、単刀直入に行くか。 「な、山咲さんって師長クラスと何かウワサあんの?」 今は確か独身なはずだが。 「は、何で?」 「いや、何でって言うか。前に結婚とかしてたとしたら、その辺りとかな、って。」 「ああ、結婚な。って、ええっ、なにお前結婚とか意識したりし始めてんの?」 「いや、俺の話しじゃねえって。」 どうもうまくたどり着かない。鎌田は何でかこちらの訊きたいことからことごとくズレまくる。 「まあな、俺も考えるわ。医者の第一次結婚ラッシュってまさに今らしいからな。」 遠い目をしているヤツに溜息をつきながら見切りをつけた。ダメだ、全然。 モヤモヤとしたものを抱えながら、だからと言ってどうするわけでもなく、ただただ働き続けた。救急はハードだと敬遠されがちだが、意外にシフト制が厳しく敷かれている為(極限の集中力を出すことが出来るように休息をとることも仕事の一環だから)、実は自分の時間も取りやすい。そうは言っても、専攻医になりたての身ではひたすら実技の自主練、各種勉強会、他科のカンファ出席などで自由時間は埋まって行く。まだまだプライドを持てるような診療が出来るわけじゃないから、必死に働いた。そんなある日、関根さんから廊下で呼び止められた。 「由良先生、」 「はい、何でしょう?」 「救急、慣れましたか?だいぶ自由に動けるようになられたみたいですけど。」 「自由に、ですか?いや、まだまだ。センター長の足元にも及びませんから。」 「ああ、あの人ね。」 苦笑している。 「まあ、あそこまでになるにはともかく場数をこなすことですね。でも由良先生にはやり遂げる力強さも感じますし、処置の反省や再考も出来る方だと思いますから。あと前向きさっていうのも問題なさそうですし。救急医の三大能力、備わっていますよね。」 「怖いですね、師長にそんなに褒めて頂くと。」 うふふと笑っている。その笑顔につられて思わず口を滑らせていた。 「関根さんは上島師長と仲が良いんですね。」 「え?上島さん、消化器内科の?」 「はい、俺、初期研修の時だいぶお世話になって。」 「ああ。」 そう言うと何か思い当たるような顔で頷いている。 「なんですか、そのリアクションは。」 「お世話になった、の内容が想像出来るからですよ。」 「え?」 思わず声を上げてしまった。心の内を見透かされたかと思って。 「え?」 俺の声に驚いたのだろう。関根さんも同じように声を上げて、それから今度はじっとこっちを見た。 「随分動揺されてますねえ。」 「いや別に。」 取り繕うけれど、ナースの凝視は怖い。何もかも観察されるようで。 「…なるほど。」 関根さんが頷いている。 「は、なるほど?何ですか、それは。」 「いえいえ。やっぱりそういう意味でも“二世”なんですかねえ。」 「はあ?」 訳がわからず間抜けな返事をする俺に、関根さんは、急にかしこまった声で名前を呼んだ。 「由良先生、」 だから俺もつられてかしこまった声で答えた。 「はい。」 「彼女はもう医者には落ちませんよ、絶対に。」 「はい?」 「特に“二世”の先生には。」 あまりに驚いたせいで否定するのも忘れていた。 「それはどういう…?」 「これ以上はプライバシーなので。」 ピシリと切られた。なのに、もう一度名を呼ばれる。 「由良先生は、」 「はい。」 呼んだくせに、ま、いいです、そう言って関根さんはニッコリ笑った。あまりにも尻切れトンボな感じで、かといってどこをどう突っ込めばいいのかもわからず、ただ茫然と廊下に立ち尽くした。不完全燃焼とは、まさにこのことだ。 結局何も聞けなかった。何一つ、山咲さんと上島さんのことはわからなかった。でも「医者には落ちない」。関根さんのその言葉だけが何度も蘇ってきては、心が揺れた。
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