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2.上島絵梨花《うえしまえりか》
そんな存在なんぞすっかり忘れていた。
なのに、病棟での勤務を終えてさつきとの待ち合わせに急いでいたロビーで、大股な長身が前から歩いてきたと思ったら立ちふさがった。
「え、何、誰?」
「ここで会ったが百年目。」
「親の仇か。」
見上げた先の瞳が不敵にほくそ笑んで、忘れかけていた誰かを思い出した。
「もしかして救急の?」
頷いている。そのつむじは今日は上過ぎて見えない。顔色も薄暗いロビーではあまりよくは見えないけれど、悪くはなさそうだ。
「上島師長、」
「はい?」
「俺と付き合いませんか?」
「は?」
幻聴、幻聴。気のせいにして歩き始めた。ただでさえ、時間が押しているのだ。訳のわからない会話にかける時間などない。
「ちょ、ちょっと待って。」
さっきまでの不敵な声とは違う、礼儀正しめな声が聞こえてきた。本来は多分こっちの声を出すタイプなんだろう。
「待ちません、急いでるんで。」
ほとんど小走りになった。でも大股ですぐ追いつかれる。
「じゃあデートの約束だけ、いいですか?」
「しませんて。」
「何で?」
何で?何でか?
私は立ち止まってオペ着姿を上から下まで不躾にじろじろ見た。
「由、あれ?何だっけ?えーと由島、由部…」
わざと言ってやる。
「由良ですよ。由良希彦、もうすぐ救急になって四年目です。」
やっぱり礼儀正しく答えている。
「ああ、そうだっけ。」
対するこっちは出来るだけぞんざいに聞こえるようにする。
「ね、名前すら覚えてないくらい久しぶりなんですよ、お会いするの。そんな人と出かけません。では。」
そう言ってまた出来るだけトップスピードに持って行こうとしていた背中に、
「これからどんどん会えばいいじゃないですか。思い出してくださいよ、上島さん。」
またしても訳のわからない言葉がぶつかってきた。
どんどん会う?会うか、んなの。
なのに、それから事あるごとに、例えば食堂とか廊下とかエレベーターホールとかで、なぜかその姿を見かけることが多くなった。というか、それは腹立たしいことに、意識して見始めたからかもしれないのだけれど。それまでは全然思い出しさえしなかったのに、いったん思い出すとどんどん仕事ぶりとか(努力型だったせいか、あの後、上郡先生によくついていって飛躍的に伸びた)、表情とか(患者さんの笑顔につられてそっくりな笑顔を浮かべていた)、声とか眼差しとか(これは意識して思い出さないようにしていた)、記憶の中の姿が蘇ってきた。それにつれて噂話の類も耳に入ってきた。次から次へと。へえ、ふうん。
お昼を食べながら、同期の救急センター師長の関根に訊いてみる。
「ねえ、あんたんところの由良先生って仕事どう?」
関根はその細い目をさらに細めてこっちをじっと見てから答えた。
「どうもこうも、“山咲二世”って呼ばれるほどの出来。」
「それ誉めすぎじゃない?」
「んー、でも実際大したもんだよ。あの人が場にいれば安心って感じするもの。」
「へえ、そうなんだ。」
「何よ、気になるの?」
「いや、一年目の時、うちでちょっと見てた時あるんだけど、そんな感じ、かけらも無かったなあ、と思って。」
そう言うとクスリと笑われた。
「上島、あんたしごきまくった?」
「いや、そんなことはしないって。」
「“研修医泣かせの鬼の上島”が?」
「泣かせてはないって。知らないけど。」
あはは、と笑われている。あんたこそ“ゴルゴ関根”って呼ばれてるくせに。そこまで思って我に返った。あたしたち、二人ともロクでもない。
「でもさ、」
ゴルゴが続ける。
「うん、」
「女が絶えない。」
「ああ。」
「そこまで似るなって思うけどね。」
そうか、だからか。腑に落ちた。でも何で私?そこは全然わからない。気の迷い説一択だな。
「だから何なんですか?なに、救急ヒマなの、今?」
食堂前の廊下で目の前にそびえ立った姿にイラついた。
「ヒマじゃないですよ。速攻食べてあと五分だけ昼休みです。計13分。」
「はいはい、じゃあその五分、どっかに行っちゃって。」
「行きませんよ、OK貰うまで。」
大きいわけじゃないのに通る声に慌てて周囲を窺う。案の定、面白そうな顔また顔が通り過ぎる。
「ちょっと、皆に聞こえてますよ。」
「そうですか?」
「そうですか、じゃなくて。」
口角を上げてこちらを見下ろしている。なに笑ってんのよ?
「別に笑ってませんよ。」
「え?」
「そう言いたげですから。ギリギリ睨んでくるし。」
「ギリギリって。結構失礼ですよね。」
「ですかね?」
そのまま動こうとしない。私だってそう時間があるわけじゃない。午後イチの師長ミーティングの司会をしなくちゃならないんだから。
「そこ、どいて下さいって。」
「だからどきません。」
「何なの?何の用なの?」
ふてぶてしさに地団駄を踏みたくなってきた。
「最初から言ってますよね。俺と付き―」
その先を言われたらおしまいだ。慌てて手を引っ張った。大きくて少し湿っている手を。
「一体何を言い出すかと思えば。」
はあはあ言いながら食堂からだいぶ離れた角で手を放す。こっちは息が荒いというのに、まただ、またニッコリとして私を見下ろしている。通常運転で。
「ここ、病院、職場。気はたしか?」
「多分。」
「はあ?」
「OKしてくれたら待ち伏せとかしませんって。」
「…」
「その方がお互いの労力節約出来ませんか?」
「何それ?」
「俺は死にそうな勤務の隙をぬって上島さんを追わなくていいし、上島さんは照れなくていいし。」
「て、照れる?」
「はい。結構顔赤いですよ。」
うそ、マジ?慌てて両手で頬を包む。とたんにクックッと笑い声が降ってくる。
「ひっかかった。意外に純情ですよね。」
「…タマ、潰されてもいいの?」
低い声で唸れば、一瞬息を飲んだようだった。ざまあみろ。
「師長がそんなに下品で良いんですか?俺、息止まっちゃうかと思った。」
そう言うと自分の頬を両手で押さえている。こいつは、全くもって手打ちにしたい。
「もう散って。ほら五分経ってるし。」
ぐったり疲れて言うと、得意気に腕時計を指している。
「大丈夫です。これタイマー機能ついてるんで。」
ああああああああ、もう。
「一体何だってあんたがモテんのかさっぱりわからない。」
「はい?」
ニコニコしてるんじゃねえ。怒り過ぎてどんどん下品になる。
「疲れた、本気で。まだお昼も食べてないのに。今日これから師長会議なのに。」
これ見よがしに息を吐けば、
「お疲れ様です。俺も今日はノンストップなんで、お互い頑張りましょう。」
肩を叩かれている。何であたしがこいつに励まされてんの?
「ねえ、」
「はい。おっとあと23秒なんで急いでもらえます?」
「はあ?」
「巻いて、お願いします。」
「ええ?あ、うん、」
悲しいかな、時間が無いと言われると反射神経のように反応してしまう。職業病だ、お互いに。
「じゃあ一回出かければ良いの?」
「いやあ、一回って。」
「どうなのよ?」
お互いものすごい早口になっている。
「とりあえずは直近でイブ、どうですか?」
「ええ、イブ?」
「はい。あ、あと3秒。ほら、はい、」
「わ、わかった。」
そこで本当にピピピッと小さな音が鳴った。
「よし、じゃあ俺行きます。あ、会議頑張って下さいねー。」
そう言った背中はもうだいぶ遠い。長い脚であっという間に角を曲がって行ってしまった。どうやら救急が忙しいのは本当だったらしい。げっそりしながら思った。
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