2.上島絵梨花《うえしまえりか》

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何が悲しくて勤務後にまた病院、しかも他病院に行かなくちゃいけないのよと、目的地を聞いてかみついた。 「いやあ、だって綺麗ですよ?」 鷹揚に答えられて力が抜けた。しかも絶対こいつ前にも行ってるし。 「もう綺麗ってわかってるなら行かなくてもいいじゃない。」 刺したつもりが、 「上島さんに見せたいんです。」 ニッコリと笑われてさらに脱力した。何なんだ、この男は。まともに会話が成り立たない。歯ぎしりをしながら次の言葉を考えていたら、 「さ、行きますよ。」 とさっさと先に立って歩き出された。院内でつむじ風のように歩く時よりは若干加減しているらしいけど、それでもブーツのかかとがつくかつかないうちに足をけり出さないと追いつかない。全く。勤務で酷使した足指が悲鳴をあげている。 「早い。」 ぶすりと言えば、 「頑張って。」 と励まされている。 「この口だけ男。」 わめけば、聞こえてきたのは笑い声だった。 聖トマスのクリスマスツリーはなるほど綺麗だった。病院と大学の間にそびえたっている。これ本物なんだろうな。でもそうだとしたら一体どこから運んできたんだろう?そして瞬くライトは誰がどうやって飾り付けたのか。大学側かそれとも病院側か。費用は一体どちらが負担しているんだろう。気付けばおよそロマンチックとは程遠いことを考えていた。ちらりと横の男を見上げる。黒のコートに黒のタートル。首元に巻いているマフラーだけがダークグリーンだ。まるで樅ノ木のような装いですっくりと立っている。まったくもって一体どんな酔狂者なんだろう、イブを私と過ごそうとするなんて。しかもまた言葉を交わすようになったのなんて、つい最近だというのに。 そんなことを思って、静かな夜空に堂々と立つツリーをじっと眺めていたら、どこからか歌声が聞こえてきた。何となく耳馴染みのあるメロディーに振り向くと、聖トマスのチャペルからキャンドルを灯した人たちが何人も歌いながら出てきた。目が合うとニッコリ会釈される。 「キャロリングですよ。」 急に耳元で声がして思わず反応してしまった。それを悟られまいと黙っていると、 「チャペルで礼拝して、これから病院内を廻るんだと思います。」 とご丁寧な解説が続けられた。 「へぇー、よく知ってるこ、」 くしゃみが出た。しかも二回も立て続けに。ちっともかわいくなく、ブシュッとか不細工な音が響く。 「寒いですか?」 「大丈夫。」 そう言ったのに、背中がぎゅっと包まれた。 「ちょっと、何?」 「こうするとあったかくなりませんか?」 耳元に温かな息がかかって顎が肩に乗せられた。両腕が私の喉元で交差されている。 「止めてよ。」 「どうしてですか?」 「何してるのよ?」 「何って、人間カイロになってるんですけど?」 相変わらずふざけているのか何なのか。 「慣れ慣れしい。」 「医者の心得だと思って下さい。それとも風邪ひいて欠勤したいんですか?師長なのに?」 一年目の時とえらい違いだ。いつの間にこんなにふてぶてしくなったんだろう。 「心の声、漏れてますよ?」 「あらそう?そりゃ良かった。」 つんけんしていれば機嫌を壊してさっさとお開きになるだろうと、“いくら私でも”のレベルの無礼さで応対しているのに、一向に機嫌が悪くならない。 「何なの?変人なの?」 「変人か、そりゃ傑作だなあ。」 暢気に笑っている。いい加減耳元で喋るのを止めて欲しい。この人の声は心臓に悪い。 「顎、乗っけないで。重い。」 わざわざ首を左に傾けてイヤそうに言ってやる。 「すみません。気づきませんで。」 そう言って今度は左側に乗せるから、傾けていた耳が勢いで頬に触れる。冷たくて硬い、少しざらつく頬。 「そういうこと、言ってるんじゃないでしょう?」 「へえ、じゃあどういうことですか?」 のらりくらりと交わされる。でも身体が温まってきたのは否定出来ない。私よりずっと大きな身体のお陰で。 戦法を変えた。 「さすが慣れてるんだね。」 「何にですか?」 「女の扱い。一年目の時はそう見えなかったけど。」 「ああ、あの時はとんでもない毎日でしたからね。」 「じゃあ、元々の由良先生はこうなんだ。」 「こう?」 「そう。付き合ってもいない女を羽交い絞めにしたりする。」 「それはちょっと語弊ありますよ。羽交い絞めはさすがにしませんって。バックハグ、とか言うんですよ、今は。」 絶対に歴代の彼女たちの誰かから教わったに違いない言葉をさらりと口に出す。その無神経さに腹が立つ。そう思った自分に慌てた。無神経さ?腹が立つ?あり得ない。この男が私に影響を及ぼすなんて。手に力を入れて、巻き付いている腕を引きはがした。あっという間に冷たい空気が背中の隙間に入り込む。 「もうあったまりました?」 さもそれだけだというような笑顔に、本気で腹が立つ。 「からかわないで。私はあなたに何の興味も無いから。」 ツリーの柔らかな光の中で、静かな冬の夜に場違いの言葉が響く。 「へえ、じゃあ何で来たんですか、今日。イブなんですよ?」 それは自分でもさっぱりわからない。何であの時頷いてしまったのか。単に時間に煽られてとしか言い様がない。返す言葉に詰まった。そんな自分に焦ってどん底だ。 「もう行こう。」 ツリーからも目の前の背の高い人影からも顔を逸らして言う。逃げている。誰にでもまるわかりだ。でも今はそれしか思いつかない。それなのにくっきりとした声が降りてきた。 「キスしませんか?」 え、また幻聴?虚を突かれて思わず顔を見上げてしまった。真面目さのかけらも無く、口角を少し上げて、面白そうな輝きを宿した瞳で見下ろされている。 「バカにしてるでしょ。」 「は?何でキスしませんかって言うとそうなるんですか?」 「君のその全体がね、ふざけてるのよ。」 両手で身体の輪郭をなぞるように頭のてっぺんから下に向かって楕円を描いてやった。 「ふざけてますかねえ。これでも臨床じゃ結構頼りにされてたりするんですけど、最近は。」 「それはおめでとう。さ、もう行くよ。」 さっさと歩き始めた私に、クックッと笑いながらついて来る。 「やっぱサイコーですよね、上島さんは。」 「勝手に言ってろ。」 何なんだ、こいつは本当に。 「じゃ、手握って良いですか?」 「バカなの?」 「いや、一応医学部入ってる時点で、あんまりバカじゃないとは思うんですが。」 ああ言えばこう言う。やっぱり一年目の時と激しく違わないか? 「あのさ、」 「手、」 「いや、それは握らないけど。そうじゃなくて、そのチャラさは天性なの?それとも医者になってちやほやされ過ぎてそうなった?」 「うーん、」 そこ、真面目に考えこむところか? 「どうですかね。確かに医者になった途端、激しくモテ始めましたけど。あ、でも商社の時も似たようなもんだったかな、今考えると。あれはあれで…」 首をひねっている。 「そうだった、あんたってば、」 「あんたって。君とか由良先生とか、呼び幅激しいですよね。」 「そこどうでもいいから。じゃなくて、商社マンやってたんだってね。」 「ああ、どこかで聞きました?」 どこかどころじゃない、この男は院内の女性陣の恰好のネタだ。いつでも。 「何年?」 「はい?」 「何年働いてたの?」 「ああ、医大の学費貯めるまでですから三年ですかね。」 「医者になりたかったのは何で?…だから手の辺りでうろちょろしないでっ。」 隙あらば握ろうとしているのか、手の甲に指が何度も当たる。 「バレました?」 笑うんじゃない、いちいち。 「単純ですよ。人を生かしたい、それだけです。」 「生かしたい?」 「はい。」 「だから救急?」 「ですね。最前線なんで。」 一年目の時のかけらが、その声に、その言葉に透けて見える。あの時、私は確かにこの男が真面目なドクターだと思った。 「上島さんは俺が救急医だからイヤなんですか?」 何度目かに手を払ったらそんな言葉が降ってきた。唐突過ぎてやっぱり見上げてしまった。切れ長の目が透明にこちらを見ている。 「なにそれ?」 「二世って呼ばれてんの、知りませんか?」 「誰だって知ってるわ、そんなん。」 院内で有名な“山咲二世”。始めて聞いた時は何でだろうと思ったけれど、仕事ぶりと決してそれだけではない、派手な交際関係が徐々に耳に入ってきて納得した。それをゴルゴが裏書きした。挙句有能ぶりを手放しで褒めているので驚く。あの点の辛い彼女が。 「オリジナルのせいかなと思って。俺が邪険にされる理由。」 「何で?関係無いでしょうが、二人の別々の存在なんだから。」 「でも、『もう絶対に医者には落ちない』んですよね?」 「あんた、それどこから―」 そう言いかけて目の細い顔が浮かんできた。 「関根か。」 全く何を好き好んでこの男にそんなことを言ったのやら。 「じゃあ、俺が商社勤務の時に出会ってたら落ちてくれましたか?」 「あのねえ、落ちる落ちないって何?それも『今はそう言うんですよ』なわけ?」 出来るだけ厭味ったらしく真似したのに、似てねえーとか笑われている。チキショー。 「医者、嫌いなんですか?」 笑いながらとんでもない質問をしてくる。 「嫌いも何も。同僚ですよ、尊敬している。」 「嘘くさ。」 「はあ?じゃあ、あんたはナース嫌いなんですか?って訊かれて、はい、そうです、とか言えるわけ?」 「え?だって俺好きですよ、ナース。」 「ああ、もうあんたが言うと何でだろう、いかがわしさがものすごい。」 「そうですか?俺は尊敬している同僚として言ってるのに。」 ああ悔しい。掌で転がされてる感が半端ない。ギリギリと歯を噛みしめていると、 「いや、真面目な話、それ職ハラですよ?」 と耳慣れない言葉を吐かれる。 「何それ?」 「職業で差別することですよ。職業に貴賎なし。」 何で学校の先生と生徒みたいになってるんだろう。 「差別、してないし。」 「してますよ。医者を恋愛相手として除外してる時点で。」 「だから別にドクターだからって―」 「俺は山咲さんとは違いますよ。」 かぶせられた。今日初めてというか、一年目以来というかの至極真剣なまなざしで。 「どこが?」 「俺は浮気しません。」 「あんた度胸あるわね、いきなりそこ突いて来るなんて。でもあんたの噂からして、残念だけど信じられないわ。」 「噂ですよね?俺は一度に一人ですよ。これは神かけて誓えます。」 「なに、偉そうにしてんのよ。そんなの当たり前だって。」 あ、やっぱそうですかね、とか頷いているから気が抜ける。 「じゃあ何であんなに噂だらけなの?しかも具体的な氏名・所属付きで。」 「へ、そうなんですか?」 「うん。すごいわよ、あんたの話。」 「上島さんの耳にも入っている、と。」 「当然。」 「ありゃりゃ。」 「ありゃりゃ?」 ナメてんのか? 「うん、そりゃまずいですよね。付き合って欲しい人にそういうの、あんまり聞かれるっていうのは。」 「だからホイホイ言うんじゃないの、そういうこと。」 「そういうこと?」 「付き合って欲しいとか、そういうこと。」 「何で?」 「何でって…」 何でだろう?何だかあまりにもこいつのペースに乗せられてるせいか、頭が正常に働かなくなっている。
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