2.上島絵梨花《うえしまえりか》

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「痛ってえ。」 通りがかったカップルが何事かと振り向く。にっこりと笑って会釈した。 「やっぱりキスですかね、ここは。ごめんなさいの。」 会釈などしていたから一瞬反応が遅れた。抱き寄せられて腕の中にはまる。 「なにキスキス言ってんのよ?欲求不満なの?」 すべすべして柔らかなコートの生地に向かってわめく。香りがたゆとう。 「あれ?」 「いいから。」 「同じですよね?」 「いいって。」 「運命?」 「はあ、なに乙女?って言うか、放して。」 「嫌ですよ。」 「嫌ですって…」 脱力する。 「言いましたよね、五年分なんです。その本気に見合う気持ちで応えて下さい。」 「何で私が。」 「あなたしかいない、ずっとそう言ってるじゃないですか。」 「じゃなくて。何で応えろとか命令されてんの?」 「あ、そこ?じゃあとりあえず主語はOKって感じですか?」 「何でこうかみ合わないかな。」 あまりにバカバカしくて思わず笑ってしまった。 「くすぐってえ。」 胸元に向かって笑ったからだろう。私だって自分の息が返ってきてくすぐったい。鼻も頬も温かくなった。 「上島さん、」 見上げるととても優しい目に出会った。 「俺、そんなにひどいやつじゃないですよ。」 「ほんとに?」 「うーん、ま、多分?」 首を傾げながら言うな。すっとぼけているにも程がある。 「五年間さんざんフラフラしながら実はあなたが、とかロクでも無さ過ぎ。」 「やっぱそうですかね。俺も自分でそう思ったんですけど。」 「はあ?」 思わず胸に手をついて身体を反らせた。 「危ないですって。」 逆効果でしっかりと腕を巻き直される。 「ちょっと、」 「はい?」 「じゃあ何で追っかけてきたりしたのよ?」 「え?」 「さっきの。」 「さっきの…?ああ、ロクでもないって自分でも思ったけどっていう、あれ?」 とろいのか?仏頂面で頷くと、 「時期が来たって、そっちが強くて。」 なぜか胸を張っている。 「時期が来た?」 「はい、で、あのそろそろ良いですか?」 「…?」 「キス、良いですか?」 「いや、だってまだわからないところ、多過ぎ。」 「キスの後で全部答えますよ。それで良いですよね?」 目を覗き込まれてうっかり頷いた。現実感が乏しくて、なんだかふわふわしている中で、近づいてくる切れ長の瞳を見つめる。その瞳が一瞬驚いたように大きくなって、フッと空気が揺れた。 「照れるじゃないですか。」 「そう?」 「目、閉じて下さいよ。」 嫌だよ、だってその瞳、初めて見た時から綺麗だと思ってたんだもの。でもそんなことは死んでも言わない。だから代わりにリクエスト通りにした。触れてきた唇はとても冷たくて、そう言えば私たちもう何時間も外にいたなと思った。そっと触れて、でもなかなか離れない。ようやく離れた時に訊いてみた。 「確かめてる?」 「何をですか?」 「わからないけど、そんな風だったから。」 わずかに表情が硬くなった。何なんだ? 「上島さんって、」 「何でしょう。」 「慣れてませんか、キス。」 「はあ?」 思わぬ発言に思わず大きな声が出てしまった。 「なに、それ?」 「目は開けてるわ、べらべら喋るわ、分析するわ。絶対慣れてますよね。」 「べ、べらべらって…あんた、ほんとにあたしのこと好きなの?すっごい疑問なんだけど。」 「好きですよ、何回言わせるんですか。」 「やっぱ無理。」 「え?」 背中に回された腕が瞬時に固くなり、眉間に皺が寄る。 「そんな風にさらっと好きとかって言われると、」 「言われると、何なんですか?」 「冗談にしか聞こえない。」 「冗談?」 首を振りながらマジかよ、と言っている。 「上島さん、仮にも師長ですよね?」 「仮にもってとこが若干ひっかかるけど、うん、そうです。」 「ナースの中のナース。」 「いや、それはちょっとどうかと、」 聞いちゃいない。顔が引き締まってなぜだかたたみかける口調になっている。医者の顔になっている。 「ナースっていうのは、患者さんや家族の気持ちを汲み取って理解する、まずそれがくる仕事ですよね、違いますか?」 「うん、まあそれは。っていうか、よくわかってるね、私たちの仕事のこと。」 「それはわかりますよ、さすがに。一番近いところで働いてるんで。」 「そうか、いや素晴しい。」 「は?」 「あんまりそこわかってないドクターが多いから。」 「ありがとうございます。って、そこじゃないし。」 「へ?」 「そうじゃなくて、俺が言いたいのは、」 「うん。」 「なら何で俺のことは理解出来ないっていうか、そもそも理解しようとしないんですか、ってことです。」 「え?いや、理解するもなにも、突然過ぎでしょ?」 「五年前に出会ってるじゃないですか。」 「いや、それはそうだけど。」 この人は一体何なんだ、と大きな溜息がつかれている。え、私?私がわけわかんない存在になってる? 「いいですか、」 キッパリとした口調に気圧されて見上げていると、 「俺があなたのことを好きだって言ってるんです。いい加減信じろ。」 突然ものすごい力で抱きしめられた。 「あ…」 息が苦しい。 「試してるのは上島さんの方ですよ。」 怒っているだけではない、わずかに悲しそうな声音が混ざっている。 「私?」 「…」 さっきまでのスムーズさが跡形もなく消え失せて、今は沈黙だけが漂っている。 「…ごめん。」 それでも力が緩まない。ごめん、ほんとに。自信なくて信じられなくて。緊張させて汗かかせて。真面目なことは最初からわかっていたのに、本体を見ろって言われたのに、聞こえてくる噂の方がずっと強くて。 黙ってただ抱きしめられる。温かくて硬い身体に。この人にどう気持ちを返したらいいんだろう。 あ、そうだ。 「キスさせて。」 え?と両腕が言ったように少し力が緩む。 「お願い。」 身じろぎをして両手を伸ばして頬を包む。頬骨が高くて冷たい頬を。見つめていると、眉間の皺がゆっくりとほどけてやっと目元が緩んだ。口角が上がる。 「背伸び出来ます?」 「出来るけど…全然届かないと思う。」 「一応、ほらやってみて下さい。」 銀座の小道で爪先立ちになる。ブーツの中で冷えきった足指の感覚がほとんどない。 「確かに、全然ですね。」 そう言うとゆっくりと頬が降りてきた。 気持ち、いつか言えるのかな。五年前初めて見た時その瞳に惹かれたって。その声が真っすぐ心に入ってきたって。目を閉じて唇を合わせる。離れたくなくてずっと押し当てていた。同じ香りに包まれて涙が滲みそうだった。
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