プロローグ

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プロローグ

―五年前― 「上島(うえしま)師長、あの、由良(ゆら)先生なんですけど、6号室の川崎さんが疼痛が収まらなくて相当お辛いことをレポートしたんですが、『もう少し様子を見て下さい』ってそればっかりなんです。もう上郡(かみごおり)先生に直接訊いていいですか?」 三年目の土浦(つちうら)が口を尖らせている。ああ、またか、と溜息が出る。毎年、この季節になると一年目の研修医と看護師の間に軋轢が生まれやすくなる。 「いきなり指導医に飛ぶのはなしでしょう。土浦さんだって、いきなり私に言われたらどう?」 「あ、それは…。」 元来が素直なので、土浦は俯いてちゃんと考えている。 「うん、でしょ?でもプライマリーとしての土浦さんの気持ちもよくわかる。だからこの件はちょっと預からせてくれる?」 「わかりました。では川崎さんにはどうお伝えすれば…?」 「そうね、よいお薬を考えるから午後まで待っていただけますか、ってお伝えしてみたら?あとはこっちのケアでなんとかお支えして。」 「わっかりました。行ってきます。」 「ん、よろしく。」 私はその頼もしい背中を見送りながら、溜息を押し殺した。由良希彦(まれひこ)。何とかしろよ、プライドなんか捨てろ。 思った通り医局で文献にまみれている長い背中を見つけた。一応ノックをしたのだけれど、全然気付いていない。もう一度、強くノックをして咳払いもした。それでもこっちを見向きもしない。 「由良先生。」 耳栓でもしてるのだろうか。それとも聴力が著しく低下しているとか?まさかストレスからくる突発性難聴?でも近づくにつれ、ただ単に集中していることだけわかった。その集中力は褒めてつかわそう。 「由良先生っ。」 耳元で怒鳴ってやった。大きな身体全体がビクッと震え、手元からバサバサと文献が床に落ちる。 「な、何ですか?」 疲れて灰色になっている顔の中で、切れ長の目が綺麗だ。一瞬だけ見とれる。 「六号室の川崎さんですが、疼痛コントロールが上手くいっていないようだと土浦からレポートいきましたよね?」 「ああ、はい。」 「それに対する処方ですか?今先生が調べてらっしゃるのは。」 背中をかがめ長い腕を伸ばして、落ちたものを拾い集めている。 「そうですけど。」 「で、土浦には何て仰ったんです?」 「経過観察の指示を出しましたが。」 「いつまで?」 「え?」 「いつまで経過観察すればいいんですか?患者さんが痛みを訴えてらっしゃるのに?他に何を観察するんです?」 「あ、」 「…その中に答えが見つかりましたか?」 行儀悪く顎をしゃくって文献を指す。 「今やってるところです。」 「いいですか、」 多少荒手だが仕方ない。私は間合いを詰めた。えっ、と息を飲んでのけぞる姿が初々しい。初々しいのだが。 「プライド、ですか?」 「は?」 「わからないから指導医の上郡先生に訊いてくると言えないのは。」 俯いている。黒々とした髪のつむじから青白い頭皮がわずかに見える。研修医は激務中の激務だから何もかもが不健康な色合いだ。 「由良先生、」 その顔を覗き込む。 「この病棟で一番いらないのは医者のプライドなんです。そんなもの、出勤前に犬にでもくれてやれ。」 一瞬目が見開かれ、口が半開きになった。 「正直に謙虚に働いて下さい。由良先生が努力しているのは皆知っています。その上でわからない事があるのは仕方ない、まだ1年目なんですから。わからない事だらけで当然です。だから指導医がつくんでしょうが。上郡先生は学ぶことが多いドクターですよ?利用しない手はない。訊いて、方向性を示してもらって、憧れて下さい。人格的に優れた医師を1年目でメンターにもてるなんて、由良先生はものすごくラッキーです。」 私の言葉が果たしてどの程度入っていっているのだろう。ひたすらこっちを凝視している。 「聞こえてます?」 激しく頷いている様子からすると聞いてはいるらしい。理解しているかどうかは不明だけど。 「じゃあ、指導を仰ぎに行って下さい。川崎さんの病態、頭に入ってますよね?」 また頷く。どうした、声が出ないのか? ほら行った行った、と煽りに煽る。ああ、はい、とようやくかすれた声がして、ゆらりと椅子から立ち上がった。しまった。立ち上がられるとこっちは圧倒的に不利だ。バレーかバスケでもやってたに違いない長身に気圧されそうになる。負けないように、 「では土浦に何と言っておきましょうか?」 と踏ん張ると、 「上郡先生に指導を仰いできますので、午後イチには必ず処方を出すとお伝えねがえますか。」 しっかりとした声が聞こえてきた。よし、この人は良いドクターになれるかもしれない。まっすぐだし理解が早い。それに真摯だ。 ほっとしてその後ろ姿を見送った。
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