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初めて声をかけたとき、あなたははにかんだ。後で理由を訊いたら、女性から話しかけられたのはそのときが初めてで照れくさかったのだという。あの表情を、私は忘れられない。私だけが知っている、彼の初めての顔。思い出せば思い出すだけ、切なくなる。もう見られない。写真もない。
あなたはもう、どこにもいない。
キッチンへ行くと、作業服を着た男が換気扇周りで何かしていた。気にすることなくシンクへ紅茶を流していたら、彼に気付かれて声をかけられる。
「美也子さん、こんにちは」
「ええ、こんにちは。何をしているの?」
「換気フード内の汚れを落としてるんです」
掃除屋のビルだ。彼はそう言った後、何かの薬液を換気フードにかけて布で擦り始めた。フード内の上の方を拭くために背伸びをしている。
彼の高い背が私は大好きだ。私よりも頭ひとつ分以上はある身長、長い脚と腕。抱きしめたら私のことなんて絞め殺せてしまいそう。
「他にどこか、掃除したいところはあります?」
「……じゃあ、窓を全部磨いておいて」
「任せてください」と笑う彼に背を向けて、部屋に戻る。彼は、いつでもどこでも掃除してくれる。それをいいことに私が何でも言いつけているのを、誰かが知れば非難されるだろう。
でも残念だけれど、彼は掃除が下手だ。彼が掃除した場所は、後から私が掃除し直している。納戸から引っ張り出した雑巾はまっさらだった。
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