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それはまだ逸子が病で入院していた時のこと、本当は夫である自分が逸子を気に掛けてやらねばいけなかった。
それなのに英雄は自分中心で遊びに出てばかりで逸子の看病はいつも後回し、当時まだ学生だった紗季が率先して逸子の世話をしてくれていた。
きっと紗季は友達と遊んだり、興味のある勉強に時間を費やしたりとやりたいこともあったに違いない。
そして紗季の努力も虚しく、逸子は息を引き取った。逸子の葬式が終わった後、ほろ酔い気分で逸子との数少ない思い出に浸っていた英雄は、つい鼻歌が出てしまった。
それを娘の紗季に聞かれると「父さんがいなければ」と言われた。その先の言葉は聞きたくない。一瞬酔いが醒めたものの、やはり酒の酔いにはそう簡単に勝てない。
自分がいなければ逸子はもっと長生きできたとでも言いたかったのだろう。そんな紗季の気持ちは分かってると開き直らんばかりにそっぽを向き、逸子の位牌を置いた仏壇の前で布団も掛けずに眠ってしまった。
朝になると英雄は少し風邪をひいたようだが、傍には薄手の毛布がくしゃくしゃに丸められていた。紗季が英雄を心配して掛けたものの、英雄の寝相の悪さにそうなってしまったのか。それとも紗季が怒りに任せてくしゃくしゃの毛布を英雄に投げつけたのか、今となってはどちらか英雄には分からない。
ただその薄手の毛布は、生前に逸子が愛用していたもので、かすかだが亡くなった逸子の香りがした。その毛布を抱きしめると英雄は静かに泣いた。
逸子は物静かな性格で、自由気ままに過ごす英雄を「困った人ね」と笑いながら見ていてくれた。病気になってもそれは変わらなかった。弱音を吐くこともなかった。
ある日のこと、何となく逸子を見舞ってやろうという気持ちになったので病院に向かった。病室に入ると、紗季が来ており、逸子の洗濯物を畳んでいた。
声を掛けるのが躊躇われ、英雄は二人から見えないように部屋を出て、会話に聞き耳を立てた。
「……お父さん、ちゃんとご飯食べてる?」
「さぁね。一緒に食べることなんてないから」紗季はつっけんどんな返答をした。自分が大変な時に父の心配をしている場合かとでも言いたげだった。
「本当に、困った人ね」口では「困った」と言うものの、逸子は英雄の世話を焼くのを一つの生きがいにしているようでもあった。その証とでも言うべきか。逸子は英雄に本気で怒ったことがない。
「ねぇ、紗季」
「何?」
「もしも……私がいなくなったら、父さんのことよろしくね」
【私がいなくなったら】それは逸子がこの世からいなくなることだ。「困った人ね」と朗らかに笑う逸子を思い浮かべて、英雄は初めて胸の痛みを感じた。
病室には入らずそのまま帰宅した。夕方に帰宅した紗季の目が赤くなっているのも英雄は無視した。
毛布を抱きしめながら、その時のことを思い出す。酒が抜けておらず感情が昂っていたのかもしれない。だけどその日の朝は泣かずにはいられなかった。ぼろぼろと年甲斐もなく泣いた。ここで英雄は一つの決心をする。
紗季の言う通り逸子は自分のせいで亡くなった。英雄が逸子の身体を普段から労わっていれば完治できたかもしれない。百歩譲って完治は無理でも、英雄が心を入れ替えて逸子を看病していれば、もっと長生きできたかもしれない。
だから自分は娘の紗季に恨まれて当然である。もう娘との和解は望まない。むしろ自分がいないところで娘は幸せになるべきだと。
紗季が高校卒業して働くことを決め、そして就職した春に家を出て行った。逸子も紗季もいない一戸建ての家は英雄には広すぎる。英雄は家を売って今の安普請のアパートに引っ越した。自分のような人間はこういった場所がお似合いだと思っていた。誰からも必要とされない、それは自業自得であるから、誰も恨んではいない。ここで一人寂しく老後を迎えて死のうと決めていた。どれだけ生活が困窮しようと娘の紗季には頼まないとも決めていた。そんな矢先に紗季の夫である直也が自殺をしてしまった。
もしも紗季がここで英雄を頼ってきたらどうすれば良いのか、英雄の頭の中は紗季に対する「もしも」でいっぱいになった。だけどそんな心配は杞憂で終わった。
紗季が英雄を頼ることはなかった。むしろ悟の前でも気丈に振る舞い、その結果、自分の心を壊してしまった。英雄は紗季に対して「馬鹿な娘だ」と思っている。
どうして助けを呼ばなかったという一方で、紗季に恨まれたままで良いと決め込んだのは自分である。紗季が自分を頼るはずがない。
英雄は紗季とはほぼ縁を切った状態でいるつもりだったが、内心はやはり娘のことが気になってしまうのである。素直に言えばいいのだが、年老いた性格を今さら変えることもできない。紗季に何度ひどい言葉を掛けただろう。何度ひどい態度を取っただろう。した側は忘れることができても、された側は一生心の傷に残る。早くに母が亡くなったという紗季の傷は、英雄の振る舞いや言動で悪化し、さらに深い傷となって残っているだろう。
英雄はそこまで独り言のように話し、悟に聞かせていた。最後には自然と「本当に駄目な親父だ」と言葉にしていた。その言葉を悟が聞いていたのかどうか、英雄は気になったが、悟の方は見ないようにしていた。話が一通り終わったタイミングでエルが「にゃあ」と鳴いた。悟は自分が持ってきた小ぶりのリュックから猫のおやつを取り出した。
エルは「それだよ、それ。早くくれ」と言わんばかりに激しく鳴きだした。今までの真剣な話をしていた車内の空気がエルの鳴き声で一気に緩んだ。トラックは名古屋市を過ぎ、いよいよあと少しで滋賀県という所まで来ていた。
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