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滋賀県に入る前でもう一度休憩を挟む。さすがに悟も疲れたのか、こくりこくりと眠そうに船を揺らし始めた。トラックは滋賀県の彦根インターで降りて、再び一般道路を走りだした。琵琶湖の東側を沿うように南下するコースである。
この時間でもまだ外は明るいが、夕焼けの色も少しずつ混ざり合ってきていた。湖の見える景色が珍しいのか、悟は眠い目をこすって外を見る。英雄は悟に「滋賀県は初めてか」と聞くと、悟はコクンと頷いた。「そうか」とだけ返した。
地元の人からは「湖岸道路」と呼ばれている田舎道をひたすら走った。時折琵琶湖は見えるが、大半は田んぼで埋め尽くされた退屈な景色だった。
しかし悟のような都会暮らしの子供には新鮮に見えるようで、ここでも悟は窓の景色に釘付け状態となっていた。小一時間ほど湖岸道路を走ると今度は大きな橋が見えてきた。
悟が橋を見て口を丸く開ける。英雄に言わせれば、都心にあるレインボーブリッジより規模が小さいからそう驚くことはないだろうにといったところだが、水を差すのは止めておく。
この橋を通るには料金所で百五十円払わねばならない。英雄は会社の経費が入った財布から小銭を料金所の人に渡す。「ありがとうございました」という職員の声をすり抜けると、すぐ橋の上り口が見えた。左右両側は湖である。何の変哲もない湖に掛かる橋だが、悟の様子は橋を渡りきるまで落ち着かなかった。その様子をエルも察したようで窓の外を見る。
橋を渡ったところで「大津市」という案内板が見えた。滋賀県の県庁所在地であることくらいは悟にも分かっているらしい。しかし悟が思う県庁所在地とは、ビル群に囲まれた賑やかな場所を指すのか、今トラックが走っている場所は県庁所在地というより、ちょっと廃れた雰囲気さえも感じられる国道だった。
その困惑した様子を英雄は察したのか「あぁ、大津市っていっても広いからな。県庁があるのはもっとこの道を車で三十分くらい進んだとこだ。この辺は物流倉庫か住宅地、時々食いもん屋があるくらいだ」と説明した。悟はふうん、そうなのといった感じで英雄を見ていた。
物流倉庫には入らないという社長からの条件があったため、英雄が荷物を降ろしている間は、悟とエルは車内から降りずに待っていた。先方から何か聞かれるのも面倒だと思ったので、悟がいる側の窓はカーテンを閉めておいた。荷降ろしは大体三十分で終わるが、英雄と物流センターの職員は仲が良いのか、倉庫の外で缶コーヒー片手に煙草を吸っていた。時折楽しそうな笑い声が聞こえてくる。短気で我慢するのが苦手な英雄でも唯一心を許せる仕事仲間らしい。英雄が乗る運転席側にはカーテンが掛かっておらず、悟はカーテンの隙間から英雄の様子を見ていた。あんな風に笑うこともできるのかと、悟は少し不思議な気持ちに駆られていた。
夕方の六時を回ろうかというところ、英雄が運転席に戻ると携帯電話が鳴った。着信番号をよく見ずに通話ボタンを押す。悟の学校の本田という教師からだった。こないだの、面倒な奴か、と英雄は自然とうんざり顔になる。
「あの……音羽君が学校に来ていないのですが」
「あぁ、俺んとこで仕事の手伝いさせてる」英雄が悪びれなく言った。ちらと英雄は悟を見たので、その仕草で悟も学校からだと分かったようだ。
「音羽君の状態を考慮した上で、おじいさまがそう判断されたのなら構いませんが、休ませるなら学校に連絡を入れてくださらないと……」
本田が安堵しつつも、英雄に抗議めいたことを言い出した。棘のある物言いに英雄の沸点は急上昇した。
「はいはい、分かったよ、今滋賀県にいるから明日も休ませる、これでいいか?」一気にまくし立てるように話した。馬鹿にされた感じで腹が立っているのか、相手が黙り込む。
「じゃあ、仕事の途中だから」英雄はまたしても相手の返事を待たずに通話終了のボタンを押した。横では悟が感心したように見ていた。
子供にとって教師は崇拝するべき存在であって、喧嘩腰で話すことなど無いのだろう。小学校五年生にもなると、調子に乗って教師に反抗的になる男子もいるが、結局は勝てるはずもなく、敗北で終わるのがほとんどだ。そんな教師に対して飄々と交わす英雄が悟には魅力的に見えたのかもしれない。
英雄が悟の尊敬の眼差しに気付き、悟に顔を向けると、悟は慌てて顔を逸らした。なぜだか英雄まで気恥ずかしくなり顔を逸らしてしまう。
「言いたいこと我慢したって自分が損するだけだ」ともっともらしいことを言ってみせた。悟の心にどう響いたか、未だに口を利こうとしない悟の胸中は英雄には分からない。
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