手のひらに、少しの幸せを

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 ビジネスホテルの駐車場は真っ暗だった。場内に外灯は備え付けられているが、今にも消えそうな程薄暗い。悟は少し怖いなと思った。見知らぬ土地という要素もあるのだろう。  それでもせっかくここまで来たのだし、エルにご飯をあげて頭を撫でたらすぐ部屋に戻れば大丈夫。悟はそう自分に言い聞かせた。  悟の身長ではトラックの扉の鍵穴に鍵を差し込むのは少し大変だった。だから悟はタイヤに片足を掛けて背伸びするような形で鍵を開けた。やった、と悟の表情が一瞬で明るくなった。悟の恐怖心は、トラックの扉が開くと同時に開放されるようだった。悟はエルのかごに手を伸ばす。エルは眠っていたのか、寝起きのか弱い声で「にゃあ」と鳴いた。車に置いていたエルの餌の缶詰を手際よく開ける。その音にエルの耳がぴくっと反応した。お腹を空かせていたのだろう。いつもは悟と一緒にご飯を食べているため、空腹は限界のはずである。悟は顔の前で両手を合わせた。「遅くなってごめん」と言いたいらしい。かごをトラックから降ろし、扉を開けるとエルが缶詰目掛けてまっしぐらに向かってきた。「遅いじゃないか。何してたんだよ」と悟を責めるように餌の缶詰に顔全部を突っ込んでいるエル。その様子が何だか可笑しくて笑ってしまった。声は出ないが、顔は満面の笑みだった。  あっという間に餌を平らげたエルは満足そうに悟の顔を見た。「ごちそうさま」と言っているのだろうか。悟はエルがうっかり逃げ出さないように、エルの正面にしっかりとしゃがみ込んでいた。 その時だった。凄まじい勢いで一台のスポーツカーが薄暗い駐車場の前を猛スピードで通過した。車のマフラーから響く重低音は、腹に重くのしかかるような不快な音だった。  悟はその瞬間「しまった」と思った。エルは元気で人懐こいが臆病な一面がある。大きい音を聞くとパニックになる。去年の夏、ゲリラ豪雨がもたらした大きな雷の音に怯えてしまい、部屋中を駆け回った挙句、クローゼットの奥に引っ込んでしまい、なかなか出てこないということがあった。悟はエルをかごの中に戻さなければと思った。しかし悟の動きの方が一瞬遅れる。エルは全身の毛を逆立てた状態で、しゃがんだ姿勢の悟の真上を飛び越えていた。やはり今のスポーツカーの大きな音に怯えているのだ。怯えているのなら、悟の傍から離れなければいいものを。しかしそれを猫に言ったところでどうしようもない。エルは既にパニック状態にあり、一瞬で駐車場から出て行ってしまった。暗闇がエルを飲み込んでしまうように、エルの姿は見えなくなった。    悟の顔が歪む。どうしよう、エルが、どこに行ったの。エル、お願いだ。戻ってきてよ。僕は、エルが。エル。そっちに行ったら、危ないよ。  悟の頭の中もパニック状態だった。エルを呼ぼうにも声が出ない。頭の中ではエルを呼べるのに、口に出そうとしても声にならない。  それならすぐ探しに行かねば、と思うが足が竦んで動かない。知らない街だからエルがどこに行ったかもさっぱり見当が付かない。とりあえずエルが行った方向に向かおうと、自分を奮い立たせるように一歩踏み出した。
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