手のひらに、少しの幸せを

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 要約するとこうだった。迷い込んだ猫を探しに子供が一人でここに入ってきた。猫は無事に見つかったものの、今度はその猫があの大人の一人にぶつかってしまった。履いているブランド物のスーツが汚れたから弁償しろ、親を呼んで来いと言っているらしい。しかし子供は何故だか口を利くことができない。大人の一人が「口を利けない振りでもして責任を逃れようとしている」と言いがかりを付け出した。  そのため、何か言葉を発するまではこの道を通すわけにはいかないと子供の前に立ちはだかっている状態だという。もうかれこれ三十分はお互いがああして向き合っていると、野次馬は事の成り行きを自慢げに語った。  一言一句聞き逃すことなく聞いていた英雄は大きなため息をついた。面倒なことになった。さてどうするか。元々沸点が低く、喧嘩早いことは自他共に認める英雄のことだ。  大人の男三人に対して喧嘩を売るのは怖くもなんともない。ただ、悟はどうなる。これからもそうやって反発もせず、誰に助けも求めず、諦めた顔をして生きていくのか。  紗季が倒れた時だって、悟は何もしないで、たまたま通りかかった隣人に助けてもらったと聞いた。紗季も、悟も、いつからそんな弱くなったんだ。英雄は沸々と怒りが込み上げてきた。怒りの矛先は悟に向き合う男三人にではない。悟に、である。悟の位置からは英雄の姿が見えるだろうか。英雄は野次馬の中にいるが、立ち位置としては悟の正面であるため、悟が少し視線を野次馬の群衆へ向ければ見えるかもしれない。英雄は悟の心に通じるように強く念じた。歯を食いしばる。握った拳に力を籠める。 ―――悟、助けてほしいなら素直に助けを呼べ。諦めるな。助けを呼べ。 ―――悟、黙っていれば誰かが何とかしてくれるとか思うなよ。自分の弱さをまずは認めろ。そして助けがいるなら自分から呼べ!  英雄はハッとした。今悟に投げ掛けたこの言葉は、英雄自身にも言えることだったのではないか。  無理やり閉じ込めた記憶の蓋を開ける。英雄に対して寂しそうに笑みを向ける逸子。「本当にあなたは困った人ね」逸子の声が聴こえた気がした。  暗がりに独り佇む英雄。離れた先には逸子が亡くなる前の元気な姿で立っていた。逸子の隣には英雄自身がいて、表情のない顔で英雄を見つめる。  もう一人の英雄が、英雄に語り掛けた。 ―――英雄、お前だって逸子が弱っていく傍で誰にも助けを求めなかったじゃないか。今の悟を責められる立場なのか。 ―――英雄、お前は逸子が亡くなる前からすべてを諦めていたよな。強がっているように見えて、全部を諦めて現実から逃げたのはお前だろう。  英雄の怒りの矛先は、心の弱くなった紗季や悟なのか。  違う。愛する妻が亡くなっても強がってきた自分自身だ。俺は弱い。  どうして逸子の位牌の前で自分自身の行いを悔やまなかったのか。いや、本当は悔やんでいたに違いない。  しかし「自業自得だ」と紗季から見放されるのが怖かった。  だから自ら紗季に恨まれるように、駄目な人間をずっと演じ続けてきた。  本当は、手のひら程度の幸せでいいから欲しかった。  それなのに言葉にすることもなく今日までのらりくらりと生きてきた。  自分にはそんな権利がないと思っていたから。  だけど悟は自分とは違う。助けを呼びたければ呼べばいい。  なぁ、逸子。こんなどうしようもない俺だけど……自分ができなかったこと、悟に託してもいいか?  それで今度こそ、手のひら程度の少しの幸せを望んでもいいか?   逸子は赦してくれるか?  逸子と隣に佇む英雄、二人は「やっと本音を言ったね」と安心した顔で英雄の前から姿を消した。 ―――悟、助けを呼べ! 自分で言葉で叫んで助けを呼んでみろ!
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