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その時、悟と英雄の視線が交わった。いや、実際には英雄の方を見ただけで、悟が気付いたかは分からない。
悟の瞳には涙が浮かんでいる。今にも零れそうな涙をギリギリの状態で我慢しているのだ。
何を我慢することがある。泣いてもいいんだ。泣いて助けを呼べばいい。泣くことが弱さだと誰が決めた。
弱さとは、英雄のように後悔をごまかし、本音から目を背けることだ。
英雄の思いが通じたのか、悟が何かを決心したように息を吸った。
悟の頬を一筋の涙が伝い、アスファルトに弾けた。
「……い……ちゃん……」
悟と向き合っていた男三人が異変に気付く。悟が小さい声で何かを言ったのが聞こえたらしい。からかい半分で「何やて?」と悟に一歩近付いた。
「……おじいちゃん! 助けて!」
三人のうちの一人が「お前じいさんと来てんのか? ほな、そのじいさんに弁償してもらうか。年金がっぽりもろてるやろうしな」下品な顔で言うと、残りの二人がそりゃいいなと手を叩いて笑い出した。
野次馬たちもざわつきを増す。
「おじいちゃん! ……おじいちゃん! 助けて!」
久しぶりに耳にする悟の声は掠れていた。だけど強く逞しい、よく通る声だった。英雄は「よくやった」と初めて悟を褒めてやりたい気分になった。
その瞬間とても六十歳を超えているとは思えない素早さで三人組の背後に回る。野次馬から「何やあのじいさん」と更にざわつく声が聞こえる。
三人組が背後に英雄の気配を感じたのか振り返る。その振り向く途中の隙を英雄は見逃さなかった。三人の顔面に強烈パンチを次々とお見舞いする。
三人組の背丈は、百八十前後はあろうかといった大男だが、英雄は百七十位の標準体型である。そんな三人組に対して一人で躊躇なく向かっていった。
むしろ顔には余裕の笑みさえも浮かんでいる。さっきまで溢れ出そうだった怒りの感情は薄れており、今は喜びで胸がいっぱいだった。感情が昂っているせいか、拳にもつい力が入る。
男たちは英雄のパンチを一発食らっただけでその場に倒れてしまった。喧嘩に慣れていないことが分かる。きっと今までも自分より明らかに弱いものにだけ、強さを見せつけるようなことをしていたのだろう。悟に対しての威圧的な態度とは裏腹に、情けなく大の字になって伸びている。いずれも意識はあるようだが、朦朧としているらしい。
三人とも「ごめんな……ひゃい」「ゆるしてぇ……」「いひゃい……」など、降参の言葉を口にしていた。
「何だ、一発で倒れるなんて情けねぇ野郎共だな」英雄は男三人の体格を見て、もう少し喧嘩を楽しめると踏んでいたのに、この有り様である。
悟はいつの間にかその場に座り込んでいて、英雄を見上げる形となっていた。エルは悟の膝に行儀よく収まっている。英雄が来てくれて安心したのか悟の瞳からは涙が零れていた。しゃくり上げながら英雄を見る。
「あー……」こういう時、どういう言葉を掛けるべきか、英雄には全く分からない。男三人に殴りかかった威勢は嘘のように萎んでしまい、頬を右手の人差し指で掻く。悟が何か言おうと立ち上がった時、英雄や悟を取り囲んでいた群衆が一斉に集まってきた。
「じいさん、凄いやないか!」
「初めて見る顔やけど、この辺と人と違うん?」
「そっちはお孫さんかいな?」
「ウチで一杯ごちそうさせてや! もちろんそっちの坊ちゃんも一緒や!」
「名前教えてぇな!」
「うわぁ、かあいらしい猫ちゃんもおるで!」
関西弁で称賛の言葉を口にする。きっとこの飲み屋街の常連客や働く人達なのだろう。一瞬にして英雄はスーパーヒーローとして迎え入れられた。
どうやら英雄の足元で倒れている三人組は以前から飲み屋街で傍若無人に振る舞う、所謂「悪質客」だったそうだ。
しかし、強面の見た目や大柄な体格を見て、面と向かって注意できる者はいなく、皆困っていたという。
結局これで三人組はしばらく大人しくなることは間違いなさそうだ。英雄は「そりゃ、良かったな」と適当に相槌を打っておいた。
「ホテルに戻るぞ」と英雄が悟に声を掛ける。悟はのろのろと立ち上がり英雄の横に付いた。エルは悟が抱っこする形になる。英雄は三人組をちらりと見た。野次馬の群衆の中で聞いた通り、三人組の内の一人のズボンが薄く汚れていた。
「おい、悟。こいつのズボンを猫が汚したのは本当か?」英雄に聞かれると悟は気まずそうに頷いた。なるほど、ズボンを汚したのは事実だったのか。
子供一人に大の男三人で詰め寄るやり方には不満が残るが、エルが悪さをしてしまったからこんな事態になってしまった。
英雄はため息をつき財布から一万円を抜き取った。そしてズボンが汚れている男のスーツのポケットに忍ばせた。クリーニング代として多すぎるが、そこはあまり気にしない。釣りはとっとけという意味である。半分意識はあるようだからすぐ気付くだろう。
「すまんな、うちの孫が迷惑掛けて」と半ば意識のない男達を見下ろしながら謝った。悟も恥ずかしそうに「ごめんなさい」と声に出して謝った。
英雄と悟は群衆の間をすり抜けるようにして歩いてビジネスホテルへと帰った。ただし、英雄の夜はまだ終わらない。ビジネスホテルに戻るととんでもない光景を目の当たりにすることになる。
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