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「ね、いいでしょ? こんな時こそ皆で助け合いましょうよ?」芳江はにこにこと愛想よく接しているが、瞳の奥が笑っていない。つまり英雄に拒否権はないのだ。英雄には外孫でも、そもそもこうなったのはあんたの娘のせいだろうがという威圧を感じた。「理不尽な」と思ったが、英雄自身もこれ以上反論しても無駄だと思った。今このタイミングで逸子のことを思い出したのもあるのかもしれない。罪滅ぼしといったら綺麗すぎる表現か、それよりもここは素直に従っておいた方が、英雄の株が多少上がるかもといった打算的な意味も含まれていた。
「……分かったよ。……紗季が戻るまでの間な」と英雄は芳江と目も合わさずに承諾した。それまで張りつめていた親族の空気が、英雄の一言でふっと和らいだ。
「ありがとう、英雄さん」と称賛の声がそこここで上がる。感謝の気持ちが飛び交う中で、英雄は心の中で舌打ちをしていた。明美さんのラウンジへ通うのは当分お預けか。周りから称賛の言葉に浸るよりもそんなことを考えていた。
「子供の迎えの時間が」「義母の様子を見に行かないと」と、皆この後の用事を口にしながら音羽家を後にした。忙しいアピールかよと英雄はまたしても心の中で毒付いた。
芳江からは学校の終業時刻に合わせて迎えに行くことと、英雄の家に泊まり込むため、悟の着替えなど荷物を一緒に運ぶようになど、細かな指示を受けた。ご丁寧に悟の学校の地図や悟の家から運び出す荷物のメモを渡された。
悟は母親の紗季が病院に運ばれたにも関わらず、今日もいつも通り学校に来ていた。担任の本田先生は、朝悟が教室にいるのを見て目を丸くしていた。「音羽君、病院に行かなくていいの?」と聞いてきた。悟はその問いに対してコクンと頷いただけだった。「……そう」と本田先生も悟にそれ以上何か言葉を発することはなかった。
しばらくは母親の病院に付き添うのが当然かもしれない。しかし悟は母親の病院に付き添ったところで何も意味がないと思っていた。悟は紗季に必要とされていないからだ。
悟の父親は二年前自殺で亡くなった。会社のパワハラが原因だった。それまでの悟の両親は仲睦まじく、ごく普通の幸せな家庭だった。
それが直也の会社のパワハラによりすべてが崩壊した。直也は紗季と悟を置いて逝ってしまった。直也が紗季に宛てた遺書には「ごめん」としか書かれていなかった。
紗季は自分を責めた。直也の力になれなかったと。毎日泣いて過ごしていた。紗季が泣くのを見るのは辛かった。だから悟はテストで百点を取ったり、家の手伝いをしたりすることで紗季の力になれればと思った。最初の頃の紗季は喜んでくれていた。泣き腫らした瞳で悟を見て、悟を強く抱きしめた。
「母さんには悟がいるから頑張らないとね」と穏やかに笑う日が少しずつ増えていった。しかし、ふとした瞬間に亡くなった直也を思い出しては、ダイニングテーブルに突っ伏して泣いていた。「躁」「鬱」を繰り返していた。客観的に見れば誰かが紗季を病院に連れて行くべきだったのに。紗季の精神状態は少しずつ確実に壊れていった。
母である紗季の様子がおかしいと思っていても、悟には相談できる大人が身近にいなかった。だから悟は「自分の努力が足りないからだ」と勉強も手伝いも気を抜かずに頑張った。
夏は汗だくになりながら、冬は手をあかぎれだらけにしながら。そして悟より、紗季の方が精神的に参って倒れてしまった。紗季が倒れた日、その場に居合わせたのは悟だった。その日、学校から帰ると、紗季がリビングで倒れていた。そこは直也が首を吊った真下だった。
悟は「あぁ、お母さんはこれでお父さんの所に行けるんだ」と、冷静に倒れる母の姿を眺めた。ぼんやりしていると、開け放した玄関のドアの前を、たまたま隣人が通りかかった。悟と紗季が住むマンションの部屋の隣には六十代の夫婦が住んでいる。世話好きの夫婦で、直也が生きていた時から悟を可愛がり、何かと気に掛けてくれていた。直也が亡くなった後も、紗季を「頑張りよ」と励まし続け、悟に対しても「困ったことがあったらいつでもおいで」と優しく接してくれていた。
そんな穏やかな夫婦が日中趣味のカルチャーセンターに通っており、夕方に帰宅した時に、部屋の前をタイミングよく通りかかったのだ。夫婦にいつもの優しい笑みはなく、妻の方は悟の眼を後ろから両手で塞ぎ「見たら駄目!」と制した。ぴくりとも動かない紗季を見て、既に亡くなっていると思ったのか、悟を庇うその手は震えていた。夫が携帯電話で救急車を呼んでくれた。
紗季がただの過労で倒れたと医師から聞かされた時、悟の気持ちは複雑だった。生きていてくれたことにほっとしたのも事実だが、母さんはこれで父さんに会えなくなってしまったと思った。悟がテストで百点を取るのも、家の手伝いを必死に頑張るのも、悟は正直疲れていた。
小さな心はもう粉々に壊れていた。
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