手のひらに、少しの幸せを

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 そんな悟の携帯電話が鳴ったのは昼休みが終わる少し前だった。学校での携帯電話は緊急時用としての持ち込みが許可されている。あくまでも緊急時用のため、授業中はもちろん、休み時間でも使用は禁止である。家庭からの着信があった場合のみ、着信画面を担任に見せて許可をもらってから電話することになっている。着信があったのはわずか五分ほど前。直也の母である芳江からだった。悟から見たら祖母にあたる。おばあちゃんが何の用だろうと悟は首を傾げた。担任の本田先生の所へ駆け寄り着信画面を見せる。「祖母から着信がありました」と告げると、本田は分かったと頷き、通話を許可した。  祖母は忙しそうに要点だけを悟に伝えた。よく意味が分からなかったが、とりあえず今日の放課後、紗季の方の父、悟の祖父の工藤英雄が学校まで迎えに行くから、当分は英雄の家で世話になるようにという内容だった。悟は電話の途中で質問をしたかったが、口を挟める余裕がなかった。もうどうでもいいやと思って悟は聞き分けの良い振りをした。  電話口では芳江が「悟ちゃんは本当にお利口さんね」と褒めてくれたが、悟自身は「ちゃん」付けされるのが嫌だったし、お利口さんでもなかったから芳江との電話も早く終わらせたかったのが本音である。つまりは面倒だった、何もかも。電話を切ると、悟は色のない瞳で窓からの景色を眺めた。そこには秋の晴れた空が広がっていた。  放課後、悟はどこで待っていたら良いのか分からず、ひとまず正門の柱に寄り掛かって祖父が来るのを待った。母である紗季の父、工藤英雄に会うのは久しぶりなので顔をよく覚えていない。会っても分かるだろうか。向こうは悟を覚えているだろうか。そのことが不安だった。しかしそんな不安はあっという間に消え去った。英雄の方から悟を見つけるなり「行くぞ」とそれだけ言うと、踵を返し、付いて来いと言わんばかりに大股で歩き出した。汚い軽自動車が学校の塀の角に停めてあった。英雄は不愛想な顔で運転席に乗り込むと、助手席にあったコンビニの袋やおにぎりのビニールテープやらを後ろの席に投げた。  コンビニの袋を避けると、いわゆる「大人の雑誌」と呼ばれる表紙が悟の目に入った。小五の悟でもどんな雑誌なのかは大体理解している。クラスメイトの中でも、中学生や高校生の兄がいる子なんかは、どんな内容なのか知っていると自慢さえしていた。悟は一人っ子だし、そういう活発なクラスメイトとの交流はあまりないので見たことはなかった。  表紙には明るい栗色のショートカットの女性が写っていて、胸を手で隠す仕草でこちらを見ていた。髪の毛が少し濡れているのが不思議だったが、それ以上は何も感じなかった。英雄がその大人の雑誌も後ろの座席にポイと放り投げた。悟が見ていても慌てる気配すらない。助手席のシートには物は無くなったが、何だか埃っぽい。うっすらと白い埃の筋が入っている。  悟が乗って良いものか考えていると、英雄が助手席を指差した。「乗れ」ということだろう。悟はランドセルを膝に抱えるようにして助手席に座った。車が発進すると、悟がいつも通う通学路を迷いなく辿り始めた。自分は今日から祖父の家に世話になると聞いていたはずだが……と少し不安を覚えた。悟にとって英雄は怖い印象しかない。無口だし、いつも怒ったような顔をしているし、それに何より母と仲が悪いのを子供心ながらに察知している。だからか悟は祖父との久しぶりの再会を喜ぶことができなかった。今もこのまま悟の家に向かおうとしているのはどうしてなのか。もしかしたら祖父の家で子供の世話をするのは嫌だと思っているのか、このまま普通に悟の家の前で降ろされるのか、そんなことをぐるぐると考えていると、悟の家の前に着いた。  七階建てのマンション。悟と紗季はここの六階に住んでいる。悟が英雄の顔をチラリと見ると、英雄は何も言わず車から降りて行った。悟も訳が分からず英雄に倣って降りた。ランドセルは背負うことなく両腕で抱えたままだ。防衛本能なのか、ランドセルを盾のようにして抱えている方が、悟自身も安心できた。英雄は何も言わず突っ立っている。数秒そうした後、英雄が痺れを切らしたのか、「突っ立ってんじゃねぇよ、さっさと行くぞ」と苛立った様子で悟に言った。何のことか分からず、恐怖を感じた悟は身をぎゅっと縮こませる。「お前んとこの部屋はどこだ」と、悟が怯える様子を見ても英雄の態度は変わらない。  オートロックのエントランスを抜けると、間接照明で灯されたモダンな雰囲気のホールが広がっている。こんな上等なとこに住んでるのかと英雄は少し驚いた。上等と言ってもこの近辺では割とよくあるマンションの造りであるが、英雄が住む場所は安普請のボロアパートなので、それに比べたら上等だと感じて当然であろう。  この辺に住んでいるのは知っていたが、何せ娘の紗季とは顔を合わせれば一触即発の雰囲気である。自宅になど呼ばれたことは一度もない。夫である直也は何とか二人の仲を取り持とうとしてくれたが、その努力も実ることなくこの世を去った。英雄は人の良さそうな直也の顔を思い出す。しかし直也との思い出も無いに等しい。懸命に父娘の間に立ってくれてはいたが、英雄に対しては明らかに作り笑顔だった。立ち位置もやや紗季寄りだったので、きっと英雄の性格の悪さを嫌というほど聞かされてきたのだろう。  それでも英雄は別に何とも思わなかった。逆にそこで直也が英雄の肩を持つことがあっても気味が悪い。散々紗季に嫌われているので、今更娘婿に嫌われたところで何ともない。  ぼんやりと直也のことを思い出していると、エレベーターが六階に着いた。悟が慣れた足取りで自分の家に向かう。フロアには全部で五室あり、悟の家は角から二番目だった。倒れた紗季を目撃した老夫婦は隣の角部屋に住んでいるのだろう。悟が鍵を慎重に開ける。どうしてそんなにそっと開けるのか、英雄はすぐその理由を知ることになる。悟の視線、靴のつま先には灰色の猫が顔を覗かせていた。英雄の場所からは人懐こそうな顔が見えた。 「エル、ダメだよ」と悟がしゃがんで、エルと呼んだその猫を部屋の奥へと手で促した。エルはぴょんと小さく跳ねて玄関の奥へと戻っていった。  よく考えたら英雄は今日初めて悟の声を聞いた。赤ん坊だった頃から口数少ないのは知っていたが、小学五年生になってもそれは変わらないようだ。車の中でもほとんど何も喋らなかった。英雄のことを恐れているのか、紗季のことがショックでさらに口数が減ったのか、理由はどっちでも良い。英雄は煩い子供は嫌いだった。それに比べたら手が掛からなさそうだし、紗季が退院するまでの間だと思えば何とか割り切ってやっていけそうだと、少しだけ気持ちが楽になった。そのせいか、英雄はわずかだがやんわりと「着替えとか荷物まとめろ」と悟に言った。悟にとってはそれでも英雄の物言いは威圧的で怖く見えただろうが。悟の目が少し見開かれたので「あぁ、だから家に帰ってきたのか」と、家に帰ってきた理由が納得できたのかもしれない。悟はコクンと頷き、自分の部屋に入っていった。英雄も後に続く。悟の靴は丁寧に脱ぎ揃えられていたが、英雄は揃えることはしない。  靴底に付いていた泥汚れが玄関に少し散ったが気にも留めない。悟は手際よく着替えや学校で使う教科書をスポーツバッグに詰めていく。本を読むのが好きなのか、教科書以外の絵本をバッグに入れる様子を部屋の入り口から仁王立ちで眺めていた。急に悟の手がピタリと止まった。何かを思い出したのか、英雄の横を通り過ぎ、リビングとほぼ続き間になっている和室へと入った。
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