手のひらに、少しの幸せを

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 和室に何かあるのかと英雄の視線は悟の方へ向けられた。そこには簡素な造りの仏壇セットがあった。直也の写真が飾ってある。きちんと手入れもされている。悟は写真の正面に正座し手を合わせた。小声で「お父さん、ただいま」と言っていた。毎日の習慣なのだろう、しばらくの黙とう。ピンと張りつめた空気がしばらく流れる。猫のエルもいつの間にいたのだろうか。悟の隣で大人しく座っていた。しっぽをゆっくりゆらゆらさせてリラックスしている。  悟がゆっくりと目を開けると直也の写真を手に持った。一般的な写真サイズで、木目調のフレームに収まっている。悟はその写真立てを手に立ち上がった。英雄と目が合う。 「……あの」悟が何を言いたいのか英雄は分かっていた。父の写真も持っていきたいのだろう。学校から帰った時直也にただいまを言うのが日課の悟には、着替えや学校の教科書と同じくらい大切だ。英雄に駄目だと言う権利はない。そもそも必要な荷物をまとめろと指示をしたのは、他でもない英雄自身だ。英雄は小さくため息をついた。 「……持っていきたきゃ持っていけ」英雄がぶっきらぼうに言うと、悟は写真を大事そうにスポーツバッグに収めた。フレームの前面はプラスチックではなくガラスなのだろう。綺麗にアイロン掛けされたハンカチで丁寧に包むのも忘れなかった。英雄が何もせずぼうっと突っ立っていると、猫のエルが足元にすり寄ってきた。  猫は警戒心が強いと聞くが、どうやらこのエルとやらは警戒心が非常に薄いらしい。英雄は子供が嫌いなのと同じく動物も嫌いだった。可愛いと思ったことなど一度もない。  チッと舌打ちをして猫に圧を掛けるが動じない。クリっとした丸い目で英雄を興味深そうに見ている。「おじさんだぁれ?」とでも無邪気に聞いているかのようだ。  英雄は猫の目線を無視した。すると悟がエルに駆け寄り、頭をすっと撫でた。エルは気持ちよさそうに目を細めてじっとしている。「もっと撫でて」と猫の声が聞こえてきそうなくらいに。 「ごめんな。エルは連れていけないんだ。でも毎日様子は見に来るから……いいこにしてるんだよ」と悟はエルに声を掛けた。  エルは悟の話が分かっているのだろうか。ちょっと悲しげな顔をしていた。連れて行ってもらえると思っていたようだ。  悟とエルの二人きりの世界に英雄は容赦なく割り込んだ。「おい、今何て言った?毎日様子見に来るだと?」悟は今のエルとのやり取りの何がいけなかったのか分かっていない。  分かっていないからこそ怯えた表情を英雄に向けた。「お前は当分俺の家から学校まで通わなきゃならないんだ。分かるか?」英雄に聞かれて悟は黙って頷いた。 「俺の家とお前の家は学校を挟んで正反対だ。学校からこのマンションまで行って、そこからまた俺の家まで帰ろうと思ったらガキの足なら一時間以上はかかるぞ」  悟の顔色がさっと青ざめる。下校時の距離までは考えていなかったようだ。今英雄が説明した通り、学校から悟のマンションと英雄の家は真逆なので、学校帰りにマンションに寄って行ったら帰りの時間はとうに日が暮れてしまうだろう。もちろん英雄には毎日車で送り迎えをするという気配りもない。英雄自身仕事もあるから当然といえば当然である。  今日は初日だから荷物もあるだろうし、道も覚えてもらわなければならないから迎えに来ただけのこと。明日から悟は一人で登下校しなければならない。英雄は苛立ちを隠さずに説明した。 「……分かっただろ。猫は邪魔だ。置いてけ」英雄が面倒くさそうに悟に命令した。すると悟が弾かれたように反抗した。 「ダメだよ! 置いていくなんて! 死んじゃったらどうするの?!」これまで消え入りそうな声で話していた悟が、今日初めてまともに声を発した気がする。しかも強めに。 「あ? 知るか、そんなの」しかし英雄も譲らない。所詮子供の大声だ。この程度で怯むような英雄ではない。 「じゃあどうするんだよ! 大人だったら何とかしてよ!!」ここは悟も譲らない。この性格は母親譲りか。母親譲りということは英雄譲りということにもなる。 「だから知るかつってんだろ?! うるせぇな。だからガキも動物も嫌いなんだよ!」英雄がお構いなしに本音をぶちまける。 「……じゃあ、いいよ。僕ここでエルと一緒にお母さんの帰り待つから……!」悟はぷいっとそっぽを向いてしまった。エルが困ったような表情で悟に「にゃあ」と話しかける。 「ガキと猫だけで生活できるわけねぇだろ! 何言ってんだ! 馬鹿か!」英雄の声が大きくなる。ついに子供相手に本気で怒りだした。 「それならエルも一緒に連れてってよ!」名前を呼ばれたエルが驚いた顔で英雄と悟の顔を交互に見た。何だ、この猫は。本当に人間の言葉が分かっているのか。  悟の突拍子もない提案に英雄は開いた口が塞がらない。何を言い出すのか予想がつかないところも母親譲りだ。英雄の口が「駄目だ」の「駄」の形で一瞬止まった。  もしもここで連れて行くのを拒否したら悟は本当に臍を曲げてしまい、英雄の所に行くのを全力で拒否するだろう。勝手にしろと言いたいところだが、さすがに小学五年生の悟と猫をここに置いていくわけにはいかない。万が一のことがあれば親戚中から非難が集中するのも目に見えている。英雄は頭を右手でガシガシと掻いた。  ため息をつき「勝手にしろ……。俺は一切面倒は見ないからな」と呟いた。「明日俺は朝早いんだ。さっさと猫に必要な物もまとめろ。俺は手伝わんぞ」と悟に背を向けた。  立っているのが疲れてきたので、英雄はリビングにあるソファにどっかと腰掛けた。亡くなった直也も、入院中の紗季も煙草は吸わないので、この家には灰皿がない。  英雄は煙草を吸えないことにイライラしてきた。さっき声を掛けてからまだ三分と経っていないが「まだか」と悟を急かす。さっきのやり取りで緊張が解けたのか、悟はもう英雄の威圧的な声に怯えることはなかった。黙々と荷物をまとめている。一緒に行けることになったエルは病院に連れて行く時の専用かごにすっぽり収まっていた。  物事が解決して安心したのかウトウトしている。「このくそ猫が……」英雄はボソッと猫に悪態をついた。エルは今の言葉が聴こえたのか、耳をぴくっと小刻みに動かし、英雄の方をちらと見たと思うと、あくびをして眠る体制に入ってしまった。英雄のアパートは動物禁止だったか、でも「勝手にしろ」と言ってしまった以上仕方がない。見たところ、しつけもされているようだし問題ないだろうと英雄は勝手に判断した。  悟のマンションに来てから小一時間。荷物は大きなスポーツバッグ二つでまとまった。それとエル。荷物がまとまったなら長居をする必要などない。芳江から悟の必要な物リストを貰っていたのを思い出したが、悟がしっかりと一人で荷物をまとめていたので不要となった。英雄は「行くぞ、戸締り忘れんな」とさっさと玄関に向かい、無造作に放られた靴を履いた。悟の荷物とエルを持つ気遣いは英雄には無い。
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