手のひらに、少しの幸せを

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 マンションの前に停めた汚い軽自動車に再び二人で乗り込む。行きと違うのは猫のエルが一緒なのと、悟のスポーツバッグが二つ後部座席に乗っていることだ。  車が動き出し、英雄は自分がトラックドライバーであること、宿泊を伴うため晩飯代は置いていくから好きな物を食べろと言った。悟は口を挟まず英雄の言うことに相槌を打つだけだった。 「あの…おじいちゃん」英雄が一通り話し終えたタイミングで口を開いた。「おじいちゃん」と呼ばれるのに慣れていない。年寄り扱いされたことに苛ついたが、事実英雄は悟の祖父なのだから、いちいち目くじらを立てるのは止めておこう。英雄は軽くため息をつき「何だ」と面倒くさそうに返した。 「じいちゃん家に行く前に……母さんの病院に行きたいんだ」 「……何か用事でもあるのか?」  芳江からは悟は紗季の病院に行っていないと聞いていた。「よっぽどショックなのね。かわいそうに」とオロオロしていた。  正直紗季に会うのは面倒だった。恐らく世話焼きの芳江か、もしくはその周囲の親族が既に紗季に報告をしていることもあり得るが、顔くらい出しておくべきか。  それに悟の前で親子の仲違いを見せても仕方がない。英雄は「行きゃいいんだろ」と病院目指して車を走らせた。  入院患者への面会時間は十四時からとなっていたが、今は既に十六時を回っており、病院内は外来患者の他に、見舞客でざわついていた。  車椅子に座った老女をゆっくりと押しているのは娘だろうか。松葉杖を両手に廊下の端をゆっくりと進む若者もいる。職場の同僚の見舞いなのか、紙袋を両手に携えたスーツ姿の男性グループも見られた。英雄本人は至って健康である。病院になどほとんど通ったこともなく、最後に病院に来たのはいつだったかも思い出せない。  ただはっきりしているのは、見舞客としてなら、亡くなった妻の逸子以来である。そのせいか病院の勝手がよく分からず、結局は悟が先導してくれる形となった。  悟が「母の病室を探している」と手際よく看護師に聞いてくれたお陰である。とはいえ、英雄自身は悟や看護師に礼を言うこともなく、ずかずかと案内通りに進んでいった。紗季が入院している部屋は四人部屋だが、現在は紗季以外の入院患者はいない。たまたま入院患者が少ない時期なのかもしれないが、英雄にとってはどうでも良かった。とにかく消毒薬の臭いがする病院から早く離れたかった。 「言いたいこと言ったらさっさと帰るからな」と悟には釘を刺した。悟は聞こえているのかいないのか、英雄の指図に何の反応も示さなかった。  病室の入り口のプレートがそのままベッドの位置を示していた。「音羽紗季」の名前は左上に書かれていたので、病室を入って左の一番奥、窓際ということになる。  悟が「お母さん」と呼んで病室に入った。英雄も後に続く。折り合いの悪い娘と病室で顔を合わせるなんて居心地が悪すぎる。さっさと帰ろうと英雄は心に決めていた。 「……悟」  久しぶりに会う娘の紗季は顔色がそこまで悪くなかった。悟を見て少し微笑む。何だ、別にわざわざ足を運ぶ必要もなかったじゃないかと思ったほどだ。 「……お母さん、僕、明日からおじいちゃんちから学校に通うから」 「……そう」紗季は英雄をちらりと見た。「こんな男に任せて大丈夫か」という表情だった。悪態を付ける程元気ならば、悟の頼みとはいえ来なきゃよかったと英雄は心底後悔した。紗季に聞こえるようにため息をつく。病室の空気が一瞬で凍り付いた。悟も何となく察したのか「じゃあ、それだけ言いに来たから……」と紗季から数歩後ろに下がって離れた。 「父さんがいなければ」と言った紗季は、あの日と同じ顔で英雄を睨みつけている。英雄はその表情に苛立ちを覚え「言いたいことあんなら言えばいいだろ」と言った。 「……別に」紗季が英雄の顔を見ずに呟く。 「別に、じゃねぇだろ。お前んとこのガキをこっちは引き取るんだ。頭下げることくらいできねぇのか」 「……は? 私は別に頼んでないけど。お義母さんから頼まれただけでしょ?」 「屁理屈ばっかり言いやがって。そんだけの元気があるならさっさと退院してガキ引き取りに来い。迷惑なんだよ」 「うるさいな。言われなくてもそうするわよ。こっちは父さんに頼む気なんてなかったのに」  何だ、この可愛げのなさは、誰に似たんだ、と言いかけたが、負けん気の強さは明らかに英雄似なので、その言葉を吞み込んだ。チッと舌打ちだけして、悟に「もう行くぞ」とだけ言った。 「もう来なくていいから」紗季が英雄を睨みながら言う。悟は英雄の後ろで泣きそうな顔で母を見つめていた。 「はっ。頼まれたって来るもんか。お前ばっかりのうのうと生きやがって」 「……うるさい! 私だって母さんや直也と代われるものなら代わりたかったわよ!」 代われるものなら。その言葉はつまり、逸子や直也に代わって自分が死んでも良かったと認めている。悟の耳にもしっかりと聴こえていた。悟が青ざめた顔で俯く。紗季は息が上がり、顔が赤く、髪を振り乱した状態で英雄を睨む。しかし、そのすぐ後ろに悟がいるのを思い出す。紗季が何か言うよりも早く悟は病室を出て行った。
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