手のひらに、少しの幸せを

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 英雄は不機嫌な様子で軽自動車に乗り込む。悟もワンテンポ遅れて乗り込んだ。運転もつい荒くなる。英雄は自宅近くのコンビニに立ち寄って夕食を調達することにした。悟に栄養満点の食事を作ろうなんて思いやりは当然ながら無い。「好きなもん選べ」と英雄は悟に不愛想に告げた。悟は梅のおにぎりと玉子のサンドイッチを選んだ。 「それだけで足りるのか?」と聞いたが悟は声に出さずコクンと頷いただけだった。英雄はカップラーメンと鶏五目のおにぎり、それとビール二缶とレンジでチンするだけの餃子を購入した。  英雄の家は木造二階建てのアパートである。元々持っていた家は、紗季が大人になって家を出た時に売却してしまった。鉄の錆びた階段を上がって一番奥の二〇八号室が英雄の住む城だ。城と言っても悟が住むマンションの造りとは雲泥の差がある。だが英雄はこのアパートで十分満足していた。英雄はトラックを運転しているか、飲み屋街に出るかでほとんど家にはいない。英雄にとって家とは風呂に入って寝るだけの場所である。だから逸子との思い出が詰まった戸建ても躊躇なく売りに出した。その金は飲み屋で消えた。  今の家賃はちょうど四万円。トラック運転手であるため、収入はそこそこあるが、引っ越しをしようとは思っていない。引っ越す金があるなら飲み屋で使いたい気持ちの方が大きい。部屋の鍵を開ける。猫の額ほどの玄関を上がるとすぐ台所がある。キッチンというより台所と呼ぶ方が相応しい。それほどまでに古い造りだった。台所には摺りガラスの扉が付いており、六畳と四畳半の和室が続く、うなぎの寝床と呼ばれる間取りである。英雄は奥の四畳半で布団を敷いて寝ている。万年床となっていて、掛け布団は英雄が起き出したままの形をしていた。六畳の部屋にはテレビと木製のテーブル、満杯になった竹製のごみ箱、あちこちにはティッシュのごみや大人の雑誌が無造作に散らばっていた。  悟の寝る場所はどうするか。英雄は家に入ってから気が付いた。面倒くさそうに頭を掻きながら押入れを開ける。何年前に買ったのか分からない客用布団が畳まれているのを見つけた。これ幸いにと布団を引っ張り出す。  埃っぽく、それでいて湿気のこもった嫌な匂いがツンとした。だが英雄自身が寝るわけでもない。しかも悟の母が退院するまでの間だけだ。悟が文句を言うことがあれば蹴り飛ばすまでだ。英雄は布団を投げるように引っ張り出すと「自分で敷け」とだけ言った。悟が連れてきたエルが出してくれとばかりににゃあにゃあ鳴いた。 「出したきゃ出せ。見ての通りぼろ家だがな」英雄の許可が出ると悟が嬉しそうにエルのかごの蓋を開けた。エルはきょとんとした顔で周りを見渡した。  落ち着かない様子だったが、ぐるりと英雄の部屋を一周すると、ぼろぼろになった畳の上で寝そべった。あまり興味がないようだ。猫にとっては寝られれば何でも良いらしい。  英雄がテーブルにあった灰皿を手前に寄せて煙草に火を付ける。「おい」と悟を呼ぶ。悟は返事をせず無表情で英雄の方を見た。 「明日は朝早くから仕事だ。トラックの運転手をしている。大阪まで行くんだが、明日は大阪に泊まってから戻ってくるから、こっちに帰ってくるのは明後日の夜になる」  悟は頷く。その様子を見て話を理解したと捉えた英雄は話を続けた。「晩飯は金を置いていくから、好きなもん買って食え。火は危ねぇから使用禁止だ」 その話を聞いて悟はさらに頷く。「猫の飯は持ってきてんのか?」英雄の問いに悟はスポーツバッグから猫缶をまとめて出した。やはり持ってきているようだ。なかなか準備が良い。 「足んないもんがあったらすぐ言え。こんなぼろ家でも金は持ってる」悟がコクンと頷いた。病院の帰りから何も話そうとしない。英雄と紗季のやり取りがショックだったのかもしれない。腹が減ったら話し掛けてくるだろうと、英雄は放っておくことにした。テレビのリモコンを手に取り、ニュースチャンネルを付ける。この時間はスポーツの特集をしている。  十九時を回る頃、英雄は空腹を感じ、晩飯の支度を始めようと台所に向かった。悟が何か言ってくるかと思ったが、一言も発することなくおにぎりとサンドイッチを平らげた。その瞳は冬の曇天のようにくすんだ色をしていた。そんな悟を見ても英雄は一切気に留めなかった。却って静かで助かると思ったくらいだった。
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