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厄介な子供と猫が増えた以外は英雄の生活は変わらない、そう思っていたのは英雄本人だけだった。
悟が英雄の家に来た翌日の朝、英雄はいつも通りトラック運転手の仕事に出掛けた。戻ってくるのは翌日の夕方過ぎ。英雄は千円札を三枚テーブルに置いて、悟に何でも買うように言った。晩飯代として、また猫に必要な物があれば買うようにと、仕事に行く前に声を掛けたが悟の返事は無かった。英雄は難しい年頃だと思ったが、ぎゃーぎゃー煩い子供よりマシだと、英雄はこの時の悟の様子を少しも気に掛けることはしなかった。
翌日、英雄が配送の仕事を終えて事務所で報告日誌を書いていると、英雄の携帯電話が鳴った。悟の通う学校からだった。
悟の担任で本田と名乗る教師は、英雄に対して学校に来てほしいと言ったが、英雄は面倒だと思い、「話なら電話にしてくれ」と怒り気味で伝えた。こうすれば大抵相手は英雄の言うことを聞いてくれる。今回もそうだった。携帯電話の向こうから相手が怯えている様子が伝わってくる。
「……あ、あの、音羽君のことなんですけど、昨日から様子がおかしいんです」
は?様子がおかしい?風邪でもひいたのかと最初は思った。英雄は黙ったまま、担任の次の言葉を待った。
「音羽君、一切口を利かないんです。こちらが何を言っても」
何だ、それは。風邪をひいて声が出せないだけではないのかと英雄はぶっきらぼうに言った。担任は英雄の言葉を遮るように違いますと強めに言った。
「風邪ではありません。保健室で熱も計りました。とにかくこちらの声掛けに何の反応もしなくて……」
「は? それで何なんだよ」
「……ですから、音羽君のお母様も今とてもお辛い状況ですし、おじいさまの方からも何があったのか聞いてあげてください。ご家族の方でしたら何か話すかもしれません」
担任がやや苛立った様子で告げた。お前は悟の祖父だろうが。何を呑気に構えているとでも言いたげに。とにかく早く帰って悟の状況を見て何とかしろということらしい。面倒だったから英雄は分かったよと言って一方的に電話を切った。
切る直前に「ちょっと……」とまだ何か言いたげだったが、担任の説教をこれ以上聞きたくなかった。
英雄が家に帰ると悟は清潔とは言い難い畳の上で眠っていた。悟の腹の辺りには猫のエルがうずくまって一緒に気持ちよさそうに寝息を立てていた。見たところ悟の健康状態に問題は無さそうである。顔色も悪くないように思う。ただこれは英雄の見解であって、実際はどうなのか分からない。ひとまず寝ているのだから起きたら話を聞けばいいと、英雄は悟を寝かせておくことにした。すると英雄の気配を感じ取ったのか、エルがぱちっと瞳を開けた。
「にゃあ」と鳴いたかと思うと、その場で伸びをした。その流れで悟も瞳を開けた。ゆっくりと起き上がる。前にいる英雄を見ても顔色を変えることはなかった。
英雄は寝ぼけ半分の悟に矢継ぎ早に質問した。「おい、風邪でもひいたか? そうでないなら喋れない理由でもあるのか? 病院行くか?」と。
悟は英雄のやや威圧的な態度を見ても動じることはなかった。ゆっくりと首を横に振る。体調はやはり悪くないようだ。では何で急に言葉を発しなくなったのか。考えられるとすればストレスか。父が自殺し、母まで倒れて、決して仲が良好とはいえない祖父の自宅に預けられている。英雄が悟の立場なら何とも思わなさそうなものだが、最近の子供はメンタルが弱いという話を職場でよく聞いていた。職場の同僚も、悟のような歳の子を持つ、父親であり、祖父だったからだ。
「何でもないならちゃんと学校行け。俺は怠け者は大っ嫌いだ」
悟はそれでも言葉を発することなく目の前の英雄を見るだけだった。
翌日、英雄は仕事が休みだが、身体がどうしても朝になると起きてしまう。英雄は食パンを自分で焼き、インスタントコーヒーを淹れて飲んだ。
朝の情報番組を見ようとテレビのリモコンに手を伸ばす。英雄が毎朝欠かさず見ている情報番組のお天気キャスターを見るためである。謙虚な雰囲気の中にも華やかさがあって可愛い。英雄はデレデレしながら天気予報を見た。お天気キャスターの女性が「おはようございま~す♪」と爽やかに挨拶をするタイミングで、テレビの音を大きくした。
すると、その音にびっくりしたのかまずはエルが飛び起きた。続けて悟も起き出した。この時間に起きれば学校には間に合う。英雄は悟の分のトーストも焼いた。
コーヒーは飲まないだろうから牛乳かと思ったが、それくらいは自分でやるべきだと英雄は「牛乳なら冷蔵庫にある」と台所の古びた冷蔵庫を指さした。
布団から出てくると思ったが、悟は上半身だけ起こし、また布団の中に入ってしまった。エルも再びに悟の布団に潜り込んだ。二人ともまた寝るつもりらしい。
叩き起こすべきか迷い、英雄は放置することにした。悟に構いたくないという面倒さが強く働いた。怠け者は嫌いだと昨日は言い切ったが、そもそも英雄は一時的に悟を預かっているだけで、そこまで面倒見る必要はない。悟が食べると思って焼いたトーストは英雄が全部食べた。この日は昼から雨だとお天気キャスターが言っていたので、英雄は家から一歩も出ずにゴロゴロ過ごした。
さらに翌日、英雄は配送の仕事があるため、昨日とほぼ同じ時間に起きて、仕事に行く準備をした。
今日も悟は学校に行かないつもりなのだろうかと、英雄は着替えながら悟が寝ている布団を横目で見た。
「おい、そろそろ起きろ」と英雄が声を掛ける。
「俺は仕事に行くぞ。お前も学校行きたくねぇなら行かなくていい。そこで寝てろ」と突き放した言い方をした。金は置いてくぞ、腹減ったら好きなもん食べろと言いながら財布を開けた。
すると悟は布団からのろのろと起き、英雄の正面に立った。
「何だ、学校行く気になったか?」と英雄は聞いた。悟は首を横に振った。
「あ? じゃあ何だ?」と英雄は怪訝そうに悟の顔を見た。悟も英雄の顔をじっと見つめて、英雄の服の袖を引っ張った。「何だ、言わなきゃ分かんねぇだろが」英雄は次第にイライラしてきた。悟は足元にすり寄ってきたエルを右手で抱えて、左手で英雄の袖をさらに強く引っ張った。英雄はある一つの考えに至り、その考えを口にした。
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