手のひらに、少しの幸せを

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 その後は、紗季と悟が英雄のアパートに行くこともあれば、英雄が紗季と悟のマンションに行くこともあった。紗季の状態は安定しているようで、前のように精神状態に波が生じることも少なくなっていった。ただ紗季が英雄のアパートを訪れると決まって「汚い部屋ね」と遠慮なく英雄のだらしなさを指摘した。勝気な性格を英雄から譲り受けたのは相変わらずのようで「うるせぇな」と英雄も憎まれ口を叩く。お互い険悪な雰囲気になることはあったが、それでも以前のような刺々しい雰囲気は無くなっていた。  英雄が何かの拍子に「母さんの葬式の晩に毛布を投げただろ?」と紗季に聞いたが、紗季は「投げてない」と首を横に振った。聞くところによると、酔ってそのまま寝てしまった英雄は寝言で何度も「逸子」と妻の名前を呼びながら泣いていたという。それを見かねた紗季が、生前に逸子が愛用していた毛布を掛けてあげたのだという。朝くしゃくしゃになっていたのは単に英雄の寝相のせいだということが分かった。結局のところ、英雄も紗季も、見えないところでお互いを思いやっていた。それがお互いの勘違いで捩れてしまっていたが、長い年月を掛けてやっと繋がることができた。  冬休みになると悟が英雄のアパートに一人で泊まりに来た。 「宿題、教えてよ」と言われるが、小学五年生の算数すらちんぷんかんぷんである。がっかりする悟に対し「人間、頭じゃねぇ、心だ。心」と英雄は自分の左胸を威勢よく叩く。悟は「宿題の方が大事だよ」とひねくれたことを言ってみせる。正月の三が日は英雄の仕事も休みだったので、紗季のマンションに泊まった。年末ぎりぎりまで働いていた紗季のために、英雄は立派なお節を取り寄せた。エルが大きな伊勢海老を見ると、顔を輝かせてお重に近付いてきたので、悟が自分の伊勢海老を少しだけエルに食べさせてあげていた。  せめて何か手作りの物を、と紗季は雑煮を振る舞ってくれた。  一口啜ると、どこかで食べたことがある懐かしい味がした。  生前、元気だった時に逸子が正月に作ってくれていた雑煮と同じ味だった。英雄は懐かしさのあまり泣きそうになったが、雑煮を流し込んで涙を我慢した。  外は快晴。換気をしようと英雄は「窓開けるぞ」と言って、少しだけ窓を開けた。冬の凛とした空気が頬を撫でていく。逸子の香りがしたのは気のせいか。英雄は外に向かって伸びをする。 「飯食ったら、逸子と直也君の墓参り行くか」と言った。紗季も悟も笑顔で頷く。一通り腹を満たしたエルはストーブの前で気持ちよさそうに寝息を立てていた。  なぁ、逸子。  少しだけど、手のひらに収まるくらいの小さなものだけど、俺は幸せを手に入れたよ。  お前の所にいつか行ったら、たくさん話聞かせてやるから。  だから、もう少しだけ、そこで見ていてくれないか。  自分勝手でどうしようもうない男だけど……逸子が見たかった景色を俺に見せてくれ。    完
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