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冬来たりなば
きっかけはほんの些細なことだ。
食事中に電話がかかってきたとか、それが急ぎの電話で席を立たなければならなかったこととか、日曜日の読み聞かせ会に急遽出なければならなくなったとか、その日がたまたま今日で──青桐の誕生日だったとか。
***
ミノリ屋に着いたときには、もう雪が降りそうな天気だった。
「こんにちは」
ガラスのドアを開けると、暖かな空気に体が包まれる。冷えて強張っていた肌がふわっと暖まって、朔はほっと息をした。
気がついたレジの女の子がこんにちは、と笑った。
「オーナー奥ですよー」
「そうですか、ありがとう」
レジ前を通って店舗奥にある従業員用のドアをくぐった。しんと冷えた廊下の奥から、ストーブの微かな匂いがする。事務所のドアをノックすると、どうぞ、と堂島の声がした。
「失礼します」
「ああ、藤本くん、悪いねえ急なこと頼んじゃって」
レトロな達磨ストーブのまえに立っていた堂島が顔を上げた。
ストーブの上にはコーヒーポットが乗っている。いい匂いがしていた。
「いえ、全然…」
「予定とかなかったの?」
「はい」
一瞬言葉に詰まりそうになったが、どうにか笑顔で朔は頷いた。
「そう? それならいいんだけどねえ、いやあ、こっちもバタバタしちゃって」
「そうですよね、すみません松田がご迷惑を…」
頭を下げた朔に、堂島はいやいや、と手を振った。
「奥さんがインフルエンザなら仕方ないよ。藤本くんが謝ることでもないし、公通くんももう来るんじゃないかな」
堂島がそう言ったとき、廊下のほうからバタバタと足音が聞こえてきた。
「あーほら」
堂島が肩を揺すって笑う。
「すみませんっ堂島さんっ、遅くなりました!」
詫びの言葉ととともに事務所のドアが勢いよく開き、朔の上司である公通が飛び込んできた。
事の起こりは今朝、朔のもとに掛かってきた一本の電話だった。
『はい、もしもし?』
会社で支給されている携帯が鳴り、驚いて朔は遅い朝食を食べる手を止めて、リビングに置いてあった携帯を取った。
『あっ、藤本! よかったああ、出てくれてありがとう!』
『え? おはようございます松田さん、どうしました?』
松田は朔の会社の先輩だ。共働きの妻と共に育児休暇中であったが、今月から一足早く会社に復帰していた。
電話の向こうでよかったよかったと繰り返す松田に、ふと、朔は壁の時計を見る。
あの、と声を遮った。
『先輩…今日、ミノリ屋の朗読会ですよね? 時間大丈夫ですか?』
ほんの少しだけ潜めて言えば、松田が声を張り上げていった。
『ああーふじもとおお…っ、ほんと、一生の頼み、聞いて!』
そうして言われたのは、朝起きてみると松田の妻が四十度の高熱を出し、朝一番に駆け込んだ病院でインフルエンザと診断されたとのことだった。まだ一歳にもならない子供と高熱の妻を抱えて、松田は半ばパニックに陥って朔に連絡をしてきたのだった。
松田の話に耳を傾けながら、うんうん、と朔は相槌を打った。
『悪いんだけど、今日俺の代わりに行ってもらえねえかな…? 代わりの奴見つからなくて』
日曜日の午前中だ。
誰も捕まらないのも無理はなさそうだった。
朔はちらりと横を見てから言った。
『…分かりました。あの、チーフと堂島さんにはもう連絡したんですか?』
あっ、と松田が声を上げ、忘れていたと呟いた。
『じゃあ先輩はそっち、連絡してください。俺は今から向かうので。開始は十五時で合ってますよね?』
十五時からの開会なら、そのまえに何度か読み込んで本番に備えておきたい。着替えや準備もあるし、何より今回は松田が復帰して最初の読み聞かせ会で、朔は自分が中心に進めている仕事もあって全く関わっていなかったのだ。早目に行って把握しておかないと。上司の公通が来てくれればどうにかなるが、来ない可能性だってある──最悪事後報告と言うことになりかねない。それに。
確か昨日まで大阪に出張じゃなかったっけ?
つまりもう出ないと間に合わないということだ。
『ああ、うん、十五時…ほんと悪い、ごめんな? マジで恩に着るよ』
『いえ、奥さんお大事にして下さい』
申し訳なさそうな松田に明るく言って通話を切った。
ため息をひとつ吐いて振り返ると、目を見開いた青桐が、固まったような表情で朔を見ていた。
はあ、と朔は小さくため息を吐いた。
事務所を借りて今日の題目である本に目を通しているが、まるで頭に入らない。
まずかったよなあ…
今日は大事な日だったのに。
「……はあ」
大判の絵本を手の中で何度も捲っては閉じるを繰り返す。
身を入れないと失敗する。それは分かっているのだが、出掛けに喧嘩のようになってしまったことが、朔の胸をちくちくと鈍く刺していた。
でもこれは仕事だから。
どんなに言い訳しても多分結果は同じだっただろう。
事務所のドアがノックされ、公通が顔を出した。
「藤本、会場の準備は出来てるから、一回下見して?」
「あ、──はい」
気持ちを切り替えないと。
朔は本を手に立ち上がった。
***
うわ、面倒くさい。
なんなんだろうなあこいつ。
「あのさあ、言っちゃ悪いんだけど、ほんとに帰れよ」
安西が言うと、不貞腐れた顔のまま青桐がちらりと顔を上げた。
その目に、成長しないな、と安西はため息を落とす。
「来てもいいっつったけどさあ、藤本同伴のときに限るの、あんた単体で誰が出入り許可したよ? せめてその辛気臭い顔引っ込めてから出直して来い」
藤本と喧嘩でもしたのか、青桐は不機嫌そのものだった。
二週間ほど前に由生子と朔を交えて再会を果たした安西と青桐だったが、個人的に会って話をするような間柄ではない。連絡先など知らないし、顔を見ればお互いに苛つくだけだ。
なのになぜだか知らないが、安西が店に立っている今日、青桐はふらりとやって来た。
やって来て、注文意外一言も口を利かずに座ってるだけ。
なんだこいつ。
安西はぶつぶつ零しながらも青桐のまえに注文されたそれを置いた。
「ほら、食べて消えろ」
「……」
シナモンをたっぷり振りかけたフレンチトースト、日曜日の昼限定で出している安西のレシピだ。この喫茶店の店主に一度食べさせたら、いたく気に入ってくれた。それ以来限定メニューとして常連客には認知されていた。
まさか青桐がこれを選ぶとは思ってなかったが。
「せんせえ、ヒナもこれ食べたい」
「はいはい」
「マキと半分こしてい?」
「いいよ」
カウンターの端の定位置に座るのは、安西の元教え子ふたりだ。いつもふたりでやって来る。対のように綺麗でかわいい格好をしているが、マキと言われたほうは男だ。この店に来るときだけ彼は自分を着飾り、心を解放していた。
ヒナがつつ、と反対側の端に座る青桐に身を寄せる仕草をする。そっと顔を覗き込んで、顔を赤らめた。
「うっわあ…すっごい綺麗な顔の男の人だねえ、モデル? せんせえの知り合い?」
安西は作る手を止めないまま言った。
「同じ高校だったってだけだよ」
ふうん、とヒナは頷いた。
席に戻り、マキにぴったりと寄り添うようにくっつく。相変わらず仲が良くていいことだ。
視界の端で青桐が優雅な手つきでナイフとフォークを手に取り、厚切りのフレンチトーストを綺麗に切り分けていく。無駄のない身のこなしに、ああそうだったと、安西は思った。
そういえばこいつは育ちだけはよかったのだ。
複雑な家庭事情は由生子から聞かされて知っていた。幼少期の青桐がどんな目にあっていたのかも、それが青桐から何を奪っていったのかも。
奪われるということがどういうことなのか、安西もよく知っている。
自分たちはどこか似ている。
姿も形も違うのに。
だから見ていると苛々する。
青桐がフレンチトーストをひと口食べた。
「………甘い」
なんだその感想。
「そりゃフレンチトーストだから」
「甘くて美味い」
「………そりゃあどうも」
くっそ。
美味いと言われて多少なりとも動揺してしまった自分を安西は呪った。
あー苛々する。
「はいどうぞ」
ヒナとマキのフレンチトーストにシナモンと蜂蜜を振りかけ、ふたりのまえに置いた。
わあ、とふたりが歓声を上げる。
「せんせえアイスティーもふたつ!」
「はーい」
仲良く分け合うふたりを微笑ましく見てから、安西は青桐に近づいた。
「美味いんなら美味そうに食べてくれる?」
青桐は難しい顔をして黙々と食べ続けている。
ふう、と安西は青桐を見下ろしてため息をついた。
何なんだか。
「……なあ」
皿に目を落としたまま青桐が言った。
「なに?」
「これって、どうやって作るわけ?」
「……は?」
何言ってんだこいつ。
じっと見ていると、青桐が顔を上げた。
目が合う。
縋るような目で見られて不覚にも安西は息を詰めた。
「どうやってって……、え? は? あんたが作んの?」
まさか、と思っていると、朔が、とぽつりと聞こえた。
「これが美味いって言ってたから」
「……ああ、そう…」
だから?
作ってやるのか?
おまえが?
それを藤本が食べる?
どんな罰ゲームだ。
頭の中を色々と訊きたいことが駆け巡る。だが、それをどうにか押さえつけて安西は言った。
「じゃあ…レシピ、書いてやろうか…?」
訝し気に問えば、こく、と子供のようにな仕草で青桐が頷いた。
出掛けになんて喧嘩するんじゃなかった。
あんなことを言うつもりもなかったのに。
『なんで…仕事行くの? 今から?』
『ごめん、他に誰もいないから。夕方には戻るから』
困ったような顔の朔に、苛立ちだけが募った。
こんな顔をさせたいわけじゃない。
そうじゃないのに。
『ほんとにごめん』
『仕事なんだろ。もういいから行けば』
自分の誕生日なんて今まで何の興味もなかった。いい思い出などひとつだってない。生まれた日なんてどうでもよくて、でも、朔が──
あのときと同じ笑顔でお祝いしようと言ってくれたから、すごく楽しみにしていたのだ。
祝ってもらえるのは、これで二度目だったから。
『青桐、なあ、帰ったら──』
『だからどうでもいいって』
バタバタと慌ただし気に支度をする朔が、気を遣ったように言うのも癇に障った。苛立ち紛れに言い返して仕事部屋に逃げ込んだ。このまま一緒にいたら閉じ込めてしまいそうだ。朔の気持ちなどお構いなしに振る舞いそうになる自分が怖い。
『あの…、じゃあ、行ってくるから』
ドアの外で朔が言った。青桐は返事をしなかった。
やがて玄関が開き、閉まる音がして──家の中が静まり返る。
しんとした静けさ。リトが寂し気に鳴いている。
子供みたいに癇癪をおこして、どうしようもない。そんな自分がひどく情けなくて、青桐はしばらく部屋の中で蹲っていた。
ドアをかりかりとリトが引っ掻いている。
「なんだよおまえ」
青桐はドアを開け、足下にじゃれつくリトを抱き上げた。
慰めでもするかのようにリトが柔らかな身体を青桐の首筋に摺り寄せる。温かな匂い。青桐もリトの身体に鼻先を埋めた。寂しさが湧いてくる。
リトが小さな声で鳴いた。
そうして不意に青桐は、先日話していたときの朔の言葉を思い出したのだ。
先週の日曜日の午後、遅い昼食、半分夢の中にいるようなふわふわとした朔の声。起こしにいった腕の中で。
『花ちゃんが作るフレンチトースト、すごく美味しいんだよ』
笑って送り出せばよかった。
「……」
店を出て、青桐は人の流れに逆らうように歩く。
コートのポケットに手を入れる。中には安西に貰ったレシピが入っていて、かさりと乾いた音を立てた。
自己嫌悪で零れたため息が白く空気に溶けていく。
風が吹き、枯れ葉が舞う。年々短くなる秋は、気配さえももう希薄だ。
秋の匂いは寂しい記憶を思い出させる。
クリスマス一色の街並み。
雪が降りそうだなと、ふと思った。
***
クリスマスのお土産を手に持った子供たちに手を振って見送る。
お疲れさま、と言う声に振り向いて、朔はほっと息を吐いた。
「藤本、ほんと悪かったな、休日に」
「いえ全然。チーフこそ出張明けで大変でしたね」
「え、いやまあ、俺は管理職だからさ、こういうのは全然いいのよ」
会場を片付けながら公通は笑った。結局彼は読み聞かせ会が終わるまでミノリ屋にいたのだ。
子供たちが使った小さな椅子を重ねて奥の倉庫に運んでいく。
何往復かしてすべてを運び終えたとき、ふたりとも、と堂島の声がした。振り返れば、事務所のドアから顔だけを出して手招きしている。
「お疲れさま、お茶淹れたから入って」
「はい」
ありがとうございます、と言ってふたりは事務所の中に入った。ストーブの暖かな匂いに混じって、コーヒーのいい香りがする。
「うわ、美味そうですね堂島さん」
公通が嬉しそうな声を上げた。後からついて入った朔は、公通の視線を辿って、テーブルの上に目を落とした。
そこには人数分のコーヒーとケーキが用意されていた。
「さあどうぞどうぞ、甘い物でも食べて疲れ取ってねえ。ほんとに今日は急なことでお疲れさまでした」
いえいえ、とソファに座りながら公通が笑って頭を下げた。朔もその隣に座り堂島に礼を述べる。
あ、と朔は言った。
「これ、チーズケーキですか?」
「そうなんだよ。藤本くん、チーズケーキ好き?」
はい、と朔は頷いた。
「もしかして、わざわざ買いに行かれたんですか?」
朔の言葉に、カップを持ち上げた堂島が笑って手を振った。
「いやいや、これね試食でたくさん頂いたんだよ。ウチの店の、ほら表の貸しスペースあるでしょ、あそこにね今度入るチーズケーキ屋さんから」
「へえ、チーズケーキ専門店ですか」
「そうみたいだねえ。でも冬だけ。夏はまたなんか違うらしいけどね」
さあ食べて、と言われて朔と公通はフォークを手に取った。柔らかなケーキの先端に立て、切り取って口に運ぶ。
「──ん! 美味いですね」
「ほんと、美味しいです」
「そりゃよかった」
にこりと笑って堂島もケーキを口に入れた。
本当に美味しい。
ケーキを食べ、コーヒーを飲んで三人で今日のことや他愛のない話をしながらも、朔の意識は別のところに向かっていく。
昔一度だけ、青桐の誕生日を祝った日。
高校二年の冬。ちょうど冬休みに入る前だった。終業式の帰りにいつものようにふたりで寄り道をした。青桐の手に握られた紙袋には学校で貰ったプレゼントがぎっしりと詰め込まれていた。
それを見てはじめて、その日が青桐の誕生日だと知ったのだ。
『せっかくだからお祝いしようか』
その年の夏に行ったアイスクリーム専門店が冬限定でチーズケーキを出していた。一度ふたりで食べて美味しくて、青桐もそれを気に入ったみたいだったから…
そこに行こうと言い出したのは自分のほうだった。
あのとき食べたチーズケーキにどこか似た味だと思う。
今ごろ、青桐はどうしているんだろう。
「……」
あの、と朔は切り出した。
「堂島さん、このケーキ──お店の名前、なんて言うんですか?」
「ん? ああとねえ、『オーク』だったかなあ、オランダ語で『また』とか、そう言う意味だって聞いたけどねえ」
はあ、と公通が感心した声を上げた。
「また来てね、のまたですか」
「多分そうなんじゃないかなあ。作ってるのは若い子でねえ」
あの店とは違う名前に、朔は内心で苦笑した。同じ店かもしれないなんてそんな偶然がそうそうあるわけはない。あの町のあのアイスクリーム店は割と有名な店だったから、きっと今もまだあの場所にあるはずだ。
懐かしいな。
「気に入ったの? 藤本くん」
知らず知らず考えに沈んでいた朔は、慌てて顔を上げた。
「ああ、いえ、あの、昔食べたことのあるチーズケーキに味が似てたので、もしかしてって思ったんですけど、さすがに違ってました」
「ああそうなの」
「まあそりゃそうだなあ」
「ですよね」
苦笑いをすると堂島も公通も笑った。
家の中でひとり、青桐は待っているんだろうか。
コーヒーを飲もうとしていた堂島が、ああそうだ、と言った。
「よかったら青木先生にお土産で持って行くかい? たくさんあるんだよ。公通くんもどう?」
「えっ、いいんですか!」
身を乗り出した公通に、にこりと堂島は笑った。
彼には甘い物に目がない妻と七歳になる双子の女の子がいる。休日に急に丸一日家を空けたのなら、さぞかし肩身が狭かっただろう。
公通の目は輝いていた。
「うん、いいのいいの。そのかわりしっかりお店を宣伝しておいてよ」
勿論ですよ、と公通が胸を張り、つられるように朔も笑った。
***
陽の落ちた夕暮れの空はもう真っ暗だった。
電車を降り、改札を抜けると、ちらちらと白いものが降っていた。
雪だ。
枯れ葉の積もる道に雪が落ちていく。
季節が秋に巡るたび、朔はほんの少しの寂しさを憶えていた。
懐かしい記憶も、悲しい思いもある。
短い秋の名残りが白く変わっていく。
「……ただいま」
玄関を開けると、家の中は暖かかった。
青桐がいるのだと思いほっと安堵するが、同時に嫌な具合に緊張してしまう。
まだ怒ってるだろうか。
ちゃんと謝らないと。
まだ仕事部屋にいるのかもしれないと、リビングに入らずに廊下を曲がろうとして、朔は立ち止まった。
何だろうこれ。
なにか…甘い匂いがする。
匂いに誘われるように、朔はリビングのドアを開けた。
「ただい、ま……」
足を踏み入れた途端、体が甘い匂いに包み込まれる。リトが駆け寄ってきた。
「リト」
がたん、とキッチンのほうで音がした。
目を向けると、青桐が固まったようにコンロのまえに立ち尽くしていて…
「…え?」
ぐちゃぐちゃに散らかったシンク回り。
洗い物の山、床に零れた白い液体は牛乳だろうか、なにかいろんなものが混然となっていて、朔は目を丸くした。
「ど、したの…青桐」
「──」
「青桐?」
さっと視線を下に落とされ近づいてみれば、手元のフライパンの中には綺麗な焼き色が付いた黄金色のものが音を立てていた。
…これって。
「フレンチトースト?」
コンロの横には焼き上がったフレンチトーストが皿の上に積み重ねられている。
「凄いな…これ全部、青桐が作ったんだ? 」
黙ったままの青桐と目を合わせようと朔は顔を覗き込んだ。
「…朔が、美味いって言ってたから」
「うん」
「花に、聞きに行った」
「…そう」
コンロの火を止め、青桐はぎこちない手つきで焼き上がったフレンチトーストをフライパンから皿に移した。
蜂蜜とメイプルシロップと、シナモン、零れた牛乳、砂糖、割った卵の殻、青桐の来ている部屋着のスウェットは、慣れない料理の格闘を物語るかのようにあちこちが汚れていた。
青桐が蜂蜜をかけるのを、朔は横で見ていた。
とろりとした金色の蜂蜜が落ちていく。
「…今朝、ごめん」
朔は首を振った。
「俺も、約束だったのに」
ごめん、と横を見上げると、くしゃくしゃの顔をした青桐がじっと朔を見下ろしていた。頬に汚れをつけ、ゆらゆらと揺れる目をしている姿は、まるで迷子のように頼りなかった。
震える唇で青桐が言った。
「…触ってもいい?」
「いいよ」
苦笑しながら頷くと、縋るようにきつく抱き締められた。
衝撃でたたらを踏みそうになった体を引き寄せられる。
朔は手に持っていたケーキの箱を、落とさないようにそっとフレンチトーストの皿の横に置いた。
「ごめん、朔、…」
「大丈夫、大丈夫だよ」
青桐が首筋に擦り寄った。鼻先が触れ、わずかに肌が濡れた感触に、朔はその背中を撫でた。
「今日はごめん。明日は休みになったから」
「…ん」
足下にリトの気配を感じた。
「誕生日おめでとう、青桐」
少しの間のあと、うん、と青桐が頷いた。
蜂蜜の味がする。
甘い、甘くて、溶ける。
「あ、…っ、ん、」
どろどろに溶かされる。
なにもかもがなくなって、境目が見えなくなる。
「朔、…」
催促をされ、朔は今日何度目か分からない言葉を口にした。
「…き、すき、い…っ、も、…き」
「…うん」
口づける合間に、その最中に、何度も何度も繰り返した。
舌を絡め合って、言えない言葉を青桐の中に送り込む。
「ん、ん、う…っ」
「朔、さく」
ぐちゃぐちゃになったシーツの上にもがく体を縫いとめられる。絡めた指先が熱くて、どうにかなりそうだと朔は思った。
「あ、やだ、っあ、あ、んっ、」
抱えられた脚を担ぎ上げられ、繋がった角度が変わった。感じる場所を強く押されて、朔は背を仰け反らせた。逃げる腰を引き戻される。
「だめ…もっと、こっち見て朔」
うっすらと目を開けば、青桐がまっすぐに朔を見下ろしていた。
何かを堪えるかのような目に、ひく、と朔の胸が震えた。
どうしたんだろう。
指先を伸ばすと、手首を掴まれ、頬に押し当てられた。
「も…閉じ込めたい…っ」
泣き出す寸前の顔で青桐が言った。
「もう、俺、自分が嫌で…、」
どこにも行かないで。
ずっと一緒にいて。
「ごめん、ごめん朔、こんな…こんなの、どうかして…っ、」
「青桐」
「っ…俺を、嫌いにならないで」
ぽたぽたと朔の頬に涙が落ちる。
息を詰めていた朔は、ふっと、頬を緩めた。
朔は笑った。
「なんで?」
そんなふうに思うのだろう。
由也、と名前を呼ぶ。
「…生まれてきてくれてありがとうって思ってるよ」
見開いた青桐の目から涙が零れた。
嫌いになんてならない。
こんなに好きなのに。
朔のほうから首を伸ばして唇を合わせた。
口づけながら好き、と告げる。
「起きたら、ケーキ…食べようよ」
結局貰ったチーズケーキは箱に入ったまま、冷蔵庫の中だ。
フレンチトーストを食べるのが精いっぱいで、ベッドになだれ込んでしまったから。
散らかったままのキッチン。
食べたままのダイニングテーブル。
山のような洗い物。
「…うん」
暗い窓の外を白い雪が落ちていく。
しんしんと降り積もる雪が、軋むベッドの音や、ふたりの呼吸を消していく。秋の匂いに混じる、嫌な記憶を塗り替えるように。
きっと明日は外に出れない。
朝起きたら、片付けて、お茶を淹れて──
もう一度お祝いしよう。
ふたりで閉じ籠って、なんにもしないで。
「……あ」
きつく抱き締める温かな体温の中で、互いに昇りつめていく。
訪れた冬の夜、やがて朔の意識は雪のように、ふわりと溶けていった。
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