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「浩成君?」
「あ……ごめん。それを言われるのはちょと辛いな。そこだけはどんなことがあっても疑わないでほしかった」
そう言って浩成はぎゅっと唇を噛む。いつも笑顔でいる浩成の見たことのない辛そうな表情に楓真はハッとした。
言ってから浩成を深く傷つけてしまったことに気がついた。
記憶が無くともこれまでの日々を思えば浩成の自分への態度は恋人に対するそれと変わりなく、愛されているのは十分に伝わっている。だからこそ忘れられてしまった辛い気持ちを隠しながら懸命に寄り添ってくれる浩成に対して、一番言ってはいけないことを口にしてしまったのだとわかる。
何もわからない中で不安や苛立ちを全て受け止めてくれた浩成は、楓真に対して一度だって酷い言葉を吐いたり辛い思いをさせたことはない。それなのに自分は酷く傷つけるようなことを言ってしまったのだと気が付き言葉に詰まった。
今更後悔しても手遅れだった。一度口にしてしまった言葉は取り消すことはできない。
「ごちそうさま……今日は俺、もう寝るわ。おやすみ」
浩成はスッと立ち上がると食べ終えた食器をキッチンに下げ、楓真と目を合わすことなく自室へ入ってしまった。
浩成が喜んでくれると自分も嬉しい。優しくしてもらえると嬉しい。してもらってばかりでなく自分も浩成の役に立ちたい。これが自分が忘れてしまった恋愛感情なのかどうかはわからないけど、それでもここ一ヶ月の間一緒に生活をしてきた楓真にとって浩成はもう知らない赤の他人などではなかった。
楓真は悲しそうな浩成の顔を見て、居ても立っても居られない気持ちになり、思わずドアを開けていた。
「ごめん。考えなしだった。浩成君の気持ちを思ったら、あれは言っちゃいけないことだった」
「いいよ。しょうがないし……大丈夫。わかってる」
浩成の自室と言っても、この部屋は使われていなかった空き部屋だ。見知らぬ他人だと思っている楓真への気遣いから、浩成はこの部屋に布団を持ち込み、別々で寝ている。
「なあ、俺は一緒に寝てもいいよ」
本来なら主寝室となる楓真の部屋で二人で寝ていたはず。恋人同士だったのなら、そういった愛を確かめ合う行為だってしていたはずだ。自分の記憶がないばかりに、浩成は普段から我慢してくれているのを知っていた。楓真にとってその行為の記憶が全くないからピンとこないが、添い寝くらいなら問題ないと思ってそう言った。
「だめだよ。俺のこと思い出してないんだろ?」
「……それでもいい。浩成君が辛い顔するの見たくない」
時折楓真の頬に手を添え優しい表情を見せることがある浩成。
それなら少しだけでも触れ合えるスキンシップをとれれば、浩成の寂しい気持ちや辛い気持ちが和らぐだろう。そう思ってのことだった。
「添い寝、くらいならさ、いいんじゃない?」
「楓真、気持ちは嬉しいけど、だめだ……簡単に言わないでくれ。部屋に戻れ……俺はお前に手を出さない自信がない」
良かれと思って言ったこと──
それでも浩成の表情は解れるどころか強張ったままで、せっかく近付いた心の隙間がまた開いてしまったように感じた。
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