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午前八時。
事務所のドアを開けると、すでにビアトリスは自分の席についている。いつものことだ。
「社長、チィーッス」
私を見もせずに、かすれた声でそう言う。ビアトリスが見ているのは、広げた両手の先の自分の爪だ。発光ダイオードを仕込んだかのように、七色にグラデーションしながら輝いている。
正確な年齢は知らない。二十歳前後に見える。紫色に染めたショートボブ。片袖のないジャケットからのぞく小麦色の腕には、何の意味なのか、彼女自身の名前を入れ墨にして刻んでいる。
「社長、風呂入ってます?」
受付の席にリラックスした姿勢でこしかけたまま、掌を裏返したり、指を曲げたりもどしたりしながらそんなことを言う。
「シャワーは浴びてるぞ」
「なんか臭いっすよ……ああ、加齢臭か」
「そんなわけあるか。まだそんな歳じゃねえよ」
そこでビアトリスは初めて顔をあげる。
デスクから身をのりだし、預言者めいた森厳さで、
「人間、いつまでも若くはないんすよ」
と言った。
「おまえに言われたかねえよ」
そう返すと、意味が通じたのかどうか、ただ、ニヤリと笑った。
「今日は、クライアントと会ってくるからな」
「外で会うんですか? フェイストゥフェイスで」
「そうだ。自前の電磁暗室でなければできない話らしい」
「ふーん、殺されないでくださいよ」
「心配するな。俺を殺して得する奴なんかいないさ」
ハエほどのサイズのドローンがどこにでも入り込んで映像を盗み撮れる、空気の振動を読み取ることで、窓ガラスごしに数キロ先からでも室内の会話の内容を盗聴できる、そうした時代に、プライバシーを保つのは難しい。インターネットごしのやりとりが、必ずどこかに足跡を残すのは言うまでもない。だから、盗聴を不可能にする電磁暗室の需要はどこにでもあって、様々な用途に使われている。
この事務所も暗室化は可能なのだが、この未知のクライアントは、私を全面的に信頼してはいないらしい。
漏れてはならない秘密があるのだ。
だから、私のような私立探偵に仕事を依頼してきたのだ。
依頼の概要はすでに聞かされていた。
ファビオラ=アンテローニ。
二十年前に別れた恋人の行方を、探し出してほしいというのだ。
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