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『いまどこにいるの?』
『うちのマンションから飛び降りるところだよ』
『たまたま近くを通りかかったから、近所のカフェにでも行かない?』
重さ、心のまんなかで生まれた憂鬱な気持ちに重力が引っかかり、踏みだした一歩が固まったみたいになる。『たまたまって』彼女の堪えるような笑い方が高い鮮度で再生されて、それからすぐに消えてしまった。
上手に彼女の自殺を止める手段がわからなかった。世の中には様々な事柄に模範解答が作られているけど、「とりあえず止める」という自殺に対する定石は、柚希にとって不適切であるような気がする。かといってだらだらと彼女の自殺を引き延ばしている自分の行動が正しいとは思えない。
「私、そろそろ本当に終わろうと思う」
「え」
アイスコーヒーがテーブルに水たまりを作り、柚希がグラスを手に取った拍子に、ぽたり、そこから落ちた一滴が水面に映っていた天井を軽く揺らした。世界が歪んでいるみたいだと、真っ白になりかけた頭の片隅でそんなことを考えていた。
「じゅうぶん頑張ったと思うよ、私」
「でも、リストは」
「もういいかな。達成できなさそうなものもあるし」
柚希がそう言ってこちらをじっと見つめてくるから、僕は彼女が「好きな人と付き合う」という項目のことを言っていると気づいた。何か気の利いたことを言いたいのに、喉の奥が麻痺したみたいに固まっている。だって柚希の「付き合って」に頷いたら彼女が自殺に大きく近づいてしまうからこれまで断っていたのに、リストを放棄するなんてあんまりだと思う。
「ねえ、自殺を止める行為って自分勝手だと思わない?」
心臓が針でつつかれたように痛んだ。彼女を眺めていた視線が汗をかいて水浸しになったアイスコーヒーに落っこちて、すぐに自分が責められた子どもみたいになっていることに気づき、慌てて顔を上げる。
「そう、かな」
「だって、生きているのが苦しいから自殺しようとしてるのに、それを止めて『あとは勝手に生きろ』って、無責任にも程があると思う」
「たしかに」、思わず心の深い部分に肯定的な言葉が浮かび、そのまま口を経由して空気へ溶け込んでいった。死んでしまったら終わりなんだよ。そういう一般的な言葉を思いついたが、それは口に出さなかった。死んでしまう前に終わりを迎えてしまっていることがたしかに存在している。僕は彼女を否定することができなかった。
「だからいまから、私は死のうと思う」
自分にできるのは彼女の側にいてやることだけなのだろうか。果たして自分は何もできずに彼女の自殺をただ見ていることしかできないのだろうか。大人になって一人暮らしでもしていれば彼女を救いだす手段がいくらかあったかもしれない。自分では何もできないこの身分が憎くて、疎ましかった。柚希が死んでしまったら、僕はこの先どうやって生きていけばいいのだろう。「でもさ」、逃げ遅れたみたいに、口から勝手に言葉が零れだした。
「どうしたの?」
「でも、自殺する側も勝手なんじゃないかと思う」
柚希がわずかに首を傾ける。彼女がいない世界を上手く生きていける気がしなかった。
「その人を大切に思っているのに自殺されたら、残されたほうはどうやって生きていけばいいの。自殺する側の気持ちを考えてって言うなら、残された側の気持ちも考えてよ」
勝手なのはやっぱり自分のほうだと思った。苦しんでる側に分があるはずなのに、楽になることを制してこっちの気持ちも考えろなんて、自分勝手にも程がある。柚希は黙って僕の話を聞いたあと、「それは君が私に対して思ってること?」、戯けて笑うみたいに言った。
「そう」
「うん、そっかあ」
うん、うん。柚希は何度も頷いたあと、「じゃあ」、大きく息を吸い込んだ。彼女の前に広がる水気を紙ナプキンで拭き取ろうとしたが、三枚使っても水たまりはその面積を少し減らしただけだった。
「妥協案として、せめてリストだけでもこなそうと思うよ」
五枚目でようやく消えた水たまりが、代わりに丸められた五枚の紙としてテーブルの隅に転がっている。ふと視線を落とした拍子に自分のグラスも大きな水たまりを作っているのが見えて、まだまだ先は長そうだなと思った。
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