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「今、どこに居る?」
携帯電話の受話器の向こうで、親父が言う。今日はこれで五度目だ。「仕事中だ」と通話を終わらせても、すぐにまた掛かってくる。最近、このやりとりを繰り返している。
小さな自動車部品工場の事務所で、俺は深く溜息を吐いた。
八十歳を過ぎた親父が、アルツハイマー型認知症になってしまった。医者には、症状の進行を遅らせる薬はあるが、根本的な治療はないと言われた。
一人で下請けの石材屋を切り盛りしていた親父だ。年をとっても、長年の肉体労働のお陰か、足腰は強い。ただ、ぶっきら棒で口下手傾向があり、家族以外の人物に世話になる事を苦手としていた。
おふくろは早くに亡くなっている。一人息子で独身の俺は、親父と二人暮らしだ。
だが、俺も若くはない。親父の世話を一人で請け負うのが難しい時もある。
老眼で見えにくくなった目で、携帯電話を睨む。
目の前に、上司が立っていた。
「秋山さん。また、親父さん?」
「あ、すみません。掛けてくるなと言ってるんですが」
「大変だよねえ、ボケた家族が居ると」
一見、同情のように聞こえる言葉に、愛想笑いで返す。気弱な性格のせいで、言い返す事が出来ない。
上司は、眉根を寄せた。
「苦労は分かるけどね。でも、こうも仕事中に電話掛かってきてたらさ。手は止まるし、他の従業員の目もあるしね」
そこまで言われ、辺りを見渡す。言葉通り、同僚達が此方を見ていた。
「ご迷惑をお掛けしてます。本当にすみません」
俺は深く頭を下げた。
「いや、俺はいいんだよ。ただね、会社の暗黙のルールがあるでしょ。風紀を乱さないというか」
「はい」
「だからさ、電源切ったら? そうしたら、もう掛かってこないでしょ」
「それが、難しくて」
上司はあからさまに不機嫌な顔をした。俺は俯く事しか出来なかった。
携帯電話の電源を切った事は、一度だけある。しかし、電話が通じない事に、親父はパニックを起こしてしまったのだ。
親父は、常に俺の居場所を確認しようとする。寂しいのか、病のせいなのかは分からない。だが、昔から持たせていた携帯電話を使い、俺に掛けてくる回数は増えていた。
「秋山さんね」
名を呼ばれ、「はい」と返す。
「暫く休む? うちの会社、介護休業が認められてるし。その間、親父さんをいいようにしなよ」
そう言う上司の眼差しは、無機質だった。
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