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第11話「対話の中で……」
翌朝。起床すると、掘り返したワインボトルを整理しているヴィルが目に入った。
「話がある」
声をかけると、作業の手を止めてくるりと振り返る。
「何すか?」
「今後のことについてだ」
私がテーブルに向かうと、ヴィルは床に置いていたランプを持ち、隣に立った。
テーブルの隅には、畳んでおいた地図がある。ランプの灯りが届く位置に広げ、特定の箇所を指し示した。
「……現在地がここだ。エルザスの少し東辺りだな」
逃げ隠れを続けていれば、どうしても位置感覚や方向感覚に異変が出てくるし、気付かず危険な場所に足を踏み入れてしまう可能性も上がる。
それを防ぐため、定期的に地図を開き、忘れないように印をつけていた。
「アレですよね。エルザスらへんのが廃墟とか多いんすよね」
「エルザスは土地も肥沃で、生活しやすい。……だからこそ……いや、この話はやめておくか」
ヴィルの問いに答えようとして、口を噤む。
土地が肥沃で資源がある、国境の土地。……この地方が、かつての戦争で苛烈な争いの舞台となったのも、それが原因だ。
そして……そのせいで、ヴィルは両親を失った。盗賊として、奪わなければ生きられない過酷な生を余儀なくされたのだ。
「……西に向かうとフルール・ド・コルボという町がある」
「ふるーる? 聞き覚えの無い響きっすね」
「フランス語だ。フランス領だった時代の地名がまだ使われている。おそらくは、曰くのある地名なのだろうな」
「ほーん……?」
私の説明に時折疑問を挟みつつも、ヴィルは静かに耳を傾けてくれる。
彼は、知らないことを自ら学ぶ意欲を持っている。……それがどれほど尊いものか、私は痛いほど思い知っている。
「……ここからは、貴様には不愉快な話になるかもしれない」
……だからこそ、心苦しい。
これから先、私の語ることは、彼の傷を抉ることになるかもしれないのだから。
「おう? 別にいいっすよ。大事なことなんでしょ?」
ヴィルはきょとんと目を丸くし、続きを促してくれる。
どうにか言葉を選び、話を続けた。
「フルール・ド・コルボは、条件としては悪くない。……ただ、フランスに近付きすぎることは避けたい。かの国は教会の権威が強まるうえ、我々ドイツ人に対する印象も悪かろう」
「了解っす」
ヴィルは、特に気にしていない様子で頷いた。どうやら杞憂……だったのだろうか。
腕を組み、地図に視線を落とす。考えねばならないことは、他にも山ほどある。
「……しかし、ドイツ方面は……ヘッセンの方に近付けば近付くほど、顔見知りが多い」
「助けてもらうのは厳しそうです?」
「……」
ヴィルの言葉には、首を横に振るしかなかった。
「誰が『敵』になったかわからん以上は、厳しかろう」
私はもはや、ヒトではない。かつての知人がどれほど味方をしてくれるのか……残念ながら、信ずるに足ると確信できる相手はいない。
信じられるとするならばきょうだい達だろうが、私が吸血鬼と化した時点で苦労させてしまっているはずだ。……これ以上、迷惑をかけるわけにはいかない。
「うへぇ……人間かどうかって、そんな大事なんすか」
ヴィルが呆れたようにぼやいた。
「大事、なのだろうな。……神は、自らの姿に似せて人を作ったとされている」
「でも、神父様も見てくれは一緒ですよ? ちょっと血飲むだけで」
ヴィルはいとも簡単に、そう言ってくれる。
彼は、私が「怪物」であろうがなんであろうが、愛するつもりでいる……らしい。
「……ちょっと、か」
……だが、分かっている。
ヒトの世は、それでは済まないのだと。
「……血を啜るから何だと言うのだ。人が、もっとも人を殺すではないか」
私の言葉に、ヴィルは少しだけ不安そうに眉根を寄せた。
「オレのことっすか」
すかさず「違う」と否定し、説明を続けた。
確かに、ヴィルは人を殺した。けれど、私は彼個人の咎を責め立てたい訳ではない。
「貴様でなくとも、兵役はある。また戦争が起これば、純朴な市民でさえも人を殺すだろう」
司教様の演説が脳裏に浮かぶ。
弟子として救貧院の慰問に付き添った際、傷痍軍人と思しき利用者を見ることは決して珍しくなかった。
古傷が化膿して死んでいった者も、数人いたことを覚えている。
「『国民』を殺せば大罪だが、隣国の人間を殺すのは手柄になる。……そういった情勢になることを、私の師は憂いておられた」
ハインリッヒ司教様は、正しいお方だった。
……いいや。「正しすぎる」お方だった。
見るからに危うい生き様を、信念の元に貫き通し、その果てに……
「えー……。みんな、オレのことは散々人殺しって罵るのに?」
ヴィルの不満げな声が聞こえる。
……その通りだ。
帝国成立時、私は幼かったが、当時の熱狂ぶりは祖父から幾度となく聞いている。その祖父の処刑も熱狂のうちに行われたと、兄から聞いた。
人々は間接的な「人殺し」を持て囃すくせをして、身近な「人殺し」を恐れる。そんな人間どもが、我々吸血鬼を怪物と謗り、排除すべき異端と吠えるのだ。
「自ら……いや、『帝国』に危害が及ばぬよう、軍備によって国力を上げ、国民全ての力で統率の取れた軍事組織を作り上げる。……そういう時代なのだ、今は」
苛立つ心をどうにか抑え、言葉を続けた。
「国のためを謳い、戯れに血を流すことは是で、祖父が殺しもせず血を啜ったことは非だと言うのか? ……ふざけた話だ」
指先でテーブルを叩き、荒れた心をどうにか鎮めようとする。
今の私の力では、力を込めすぎるとテーブルを破壊しかねない。
祖父もヒトの世界で生きるために、力を抑えていたことを覚えている。加減を間違えてはならない。私の力は、誰かを殺めるために存在するわけではないのだ。
……例えどれほど憎くとも、どれほど飢えていたとしても、望んで殺めてはならない……。
「教会も、そんな感じなんすか」
ヴィルの問いに、沈みかけた思考が切り替えられた。
「……教会は……そう、だな。帝国相手には長らく抵抗している。かの鉄血宰相でさえ、弾圧を諦めたほどだ」
「あー。だから、神父様は教会が好きなんですね」
ヴィルの選んだ語彙は単純でいて、私の中に忘れかけていた「何か」を呼び起こすには充分だった。
渦巻いていた憎悪は質の違う「何か」に姿を変え、過ぎ去りし日々の残滓が、暗く澱んだ思考に一筋の光を灯す。
「そういう、わけでは……ないが……」
失われた日々だ。
もう、戻らない、取り返しのつかない過去だ。
……だが、私にとっては……
何よりも大切な、原点だった。
「……希望を抱いていた、部分は……まあ、ある」
……私は異形と化し、追われる身となった。
教会は私を殺すために、現在も刺客を送り続けている。
今更初心を思い出したところで、現実は変わらない。
今や、帝国のみならず、教会ですら私の「敵」なのだ。
「何となくわかりました。『吸血鬼』になっちまった神父様は教会から逃げなきゃで、だからって教会と仲悪い帝国の方行くのもあんまり……って感じなんすね」
ヴィルは要点をしっかりと理解しているらしく、私の言ったことを簡潔にまとめて繰り返した。
「相変わらず理解が早いな。結構なことだ」
私が返答すると、ヴィルは何やらぱっと表情を明るくさせ、妙な食い付きを見せてくる。
「お? 今、褒めてくれました?」
「……褒め言葉でなければ何だというのだ」
「マジか!? よっしゃあ!」
やけに嬉しそうに身を乗り出してくるので、わずかに後ずさる。
いったい、どうしたと言うのだ……?
「キスしていいっすか」
何がなにやらよくわからないが、突然盛り出したのだけはわかる。
「……調子に乗るな」
怪我をさせないように気を付け、軽く頭を叩いておいた。
「いっそ、南行っちゃいます?」
……が、ヴィルは懲りることなく私の隣に寄り添い、地図を指差す。
少々距離感が近すぎるように思うが……まあ、特に困るわけでもない。黙っておくか。
「南は教会の権威が更に強い。バチカンが近付くからな」
「ありゃあ、マジすか……じゃあ……北?」
「馴染みのない地域ではあるが、情勢を思えば悪くはない。ただ、気候が厳しくはなるが……」
地図を睨み、知恵を絞り出す。
……どうにか、最善の道筋を考えなくてはならない。
「この一帯はおそらく見張られている。どこを目指すにしろ、鉄道か何かで長距離の移動を考えるべきか……」
「おっ、オレ鉄道乗ったことないんすよ! どんな感じです?」
「……遊びではないのだぞ?」
ヴィルの呑気な声にため息をつき、眉間を押さえる。
……状況が状況だというのに、あまりに緊張感が無さすぎる。今がどういった事態なのか、本当にわかっているのか? こいつは……。
「しかし……鉄道を使うのならば、人目にはつくか……」
頭を捻っていると、寒さに思わず身震いしてしまう。
……と、背後から人肌に包まれたのを感じた。
「……なんだ」
顔を顰めて問いかけると、ヴィルは楽しげに答えた。
「あっためてます。そのまま続きどうぞ」
……。……ああ、そうか。そういうことか。
ヴィルはヴィルなりに、私を気遣ってくれている。
思い詰めている私を、少しでも癒そうとしてくれているのだ。
「……。少し休む」
「それもアリっすね。ゆっくりしてください」
たくましい腕を見つめる。
ヴィルの体温は冷えた身体を包み込み、心地よい温もりを与えてくれる。
彼のそばは居心地がよく、傷付いた魂が間違いなく癒されていくのを感じる。……だからこそ……
だからこそ、心苦しい。
この関係が、この温もりが、罪深いことに変わりはないのだから。
「以前、怪力を気にしていたな」
そう切り出したのは、照れ隠しのためだろうか。
「ん? もしかして痛いとか……?」
「いや……貴様が私に触れる時、痛みを感じた覚えはほとんどない」
そっとヴィルの腕に触れ、言葉を続ける。
「純粋な腕力の強さ……というよりは、特定の状況において、力を一か所に集中できるのだろう。おそらくは後天的に身につけた……いわば、技術だ」
「……技術?」
私は、間近でヴィルの姿を見てきた。
そして、自らも意図せずとはいえ「力」を得た。
だからこそ、気付いたことがある。
「貴様は『力』そのものを原因と考えていたようだが……それでは解決にならない。そもそも、問題の根本が違うのだ」
もし……問題が身に付けた技術を行使するタイミングにあるのならば。
力そのものを制御しようという意識では、彼の苦悩は解決できない。
「できる限り、力を込めてみるがいい」
「えっ、でも……」
私の提案に、ヴィルは怯えるように息を飲んだ。
「知っているだろう。私の肉体はもう、ヒトではない」
理解している。彼とてもう、誰かを殺したいわけではない。怖がるのも当然のことだ。
「案ずるな。貴様の力では、私は壊れない」
だが、私はもはや、ヒトではない。
今の私はヒトの血を啜り、自らの傷を癒す異形だ。
……そして……彼の自責の念を知りながら、良いように利用する人でなしだ。
「……うぃっす」
ヴィルはありったけの力を込め、私を抱き締める。
焦っているのか、鼓動の音が激しく高鳴る。
顔が見えない位置で助かった。さすがに至近距離で鼓動を聞いていると、こちらも妙な気分に……
……い、いや、何を考えているのだ私は。今は、そんなことを考えている場合ではなかろうに。
「……やはりな」
ともかくだ。もうひとつ、試すべきことがある。私の考えが正しければ、それで原因が掴めるはずだ。
浅黒い腕に私の指を這わせ、折れない程度に力を込めた。
「いっ!?」
ヴィルの短い悲鳴が聞こえる。その瞬間、力が迸った。
骨が軋むほどの衝撃が、私の身体を襲う。
「ぐっ……」
「大丈夫っすか!?」
思わず声を漏らすと、焦った声が聞こえる。
少々苦しくはあったが、片腕で絞められただけだ。大したことはない。
「……怪力とは、こういうことだ」
手を離し、ヴィルの、掴んだ方の腕を指し示した。
血色の良い腕には、真っ赤な手形がくっきりと浮かび上がっている。
「済まない、強く掴みすぎたな」
赤くなった痕を撫でる。折れないように気を配ったとはいえ、痛い思いをさせてしまった。痣にならなければ良いのだが……。
……しかし、これではっきりした。
確かにヴィルの身体能力は平均以上に高くはあるだろうが、普段から常軌を逸した力を出す訳では無い。
おそらくは自らの命に危険が及んだ際、本能が無意識に力を特定の箇所に集中させ、防衛行動を取るのだろう。結果、本来の腕力から大きく逸脱するほどの力を発揮できる……と。
「神父様。……そんなに、オレのこと見ててくれてたんすね」
「な……っ!」
ヴィルは声音に明らかな熱情を宿し、私に頬擦りをする。
……さすがに、その反応は予想外だった。
「い、いや、貴様を導くのは聖職者としての責務であったし、現在も共同生活において必要だからと……おい、聞いているのか」
私の釈明をかき消すように、荒い吐息が耳元で聞こえる。
待て。なぜだ。何をどうすればこの状況で興奮するのだ……!?
「好きです、神父様。抱いていいっすか」
「やめ……っ、乳首をまさぐるな! ……あっ、き、傷痕はやめろ……! そこは……んッ」
「振り払わないならイイってことっすね。抱きます」
「ま、まだ準備が……ぁあっ」
「上着は汚さないように脱がすんで!」
「……ッ、せめて私が脱ぐのを待て……! 盛りのついた犬か貴様は!」
「えっ、自分で脱いでくれるんすか」
「……あっ」
うっかり墓穴を掘ってしまったと気付き、もう押し黙るしかなかった。
唇に口付けられ、ボタンに無骨な手がかけられる。
別に、期待をしているわけではない。断じて、そういう訳ではないが……
牡の本能を宿した瞳に魅入られ、心臓が高鳴る。
激しい苦悩も、痛みに満ちた記憶も、全て快楽に溶かして忘れ去ってしまいたくなる。
「考えるの疲れたんで、気持ちいいコトしましょ」
ヴィルが舌なめずりをし、私の腹部に手を這わせる。傷のある腹筋をなぞられ、理性が淫らな欲求に塗りつぶされていく。
やがて、私は縋るように彼の背に手を回した。
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