これはアルバムにしまう写真

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東京有楽町にあるマルイをご存知だろうか。有楽町駅の改札を抜けるとまん前にあるショッピングビルだ。 一応紳士フロアもあるものの、ほとんど女性向けの洋服と雑貨の店舗が入っている。 東京在住時の私の勤め先だったのだが、私が働いて店舗も化粧品を扱うショップだった。 そんな店舗構成のせいで、従業員ももちろん女性が多い。 こんな風に女性従業員の多い接客業に勤めた経験があれば分かるかもしれないが、お昼休みの化粧直しは女の戦闘準備である。 歯磨きは入念に。接客業は歯が命なのだ。 マルイの従業員専用フロアにはずらりと10台以上の洗面台が並んでいる。背面がガラス張りで有楽町と銀座の街並みが見え、天気のいい日は最高の見晴らし。マルイのお隣東京交通会館の1番上にある東京會舘が、ゆっくりとレストラン自体が一回転しながら営業していると知った時から、歯を磨きながら回っていることを何とか目視しようと試みるのが私の日課だった。 しかし、そんな和やかな歯磨きタイムはせいぜい週に一回程度。 大体の場合、急いで歯を磨き終え、すぐさま化粧ポーチを開く。お昼休みの時間は限られているのだ。 最小限かつ最低限の労力で売り場の強いライトに耐えられる顔を作らないとならない。私は化粧品売り場で働いていたので尚更に化粧に手は抜けなかった。 崩れ始めたファンデーションを塗り直し、乱れた髪を直す。 あと5分でお昼休みが終わると言うのに、化粧直しが終わらない。 あぁちょっと待ってよ、口紅だけ塗らせて〜!と、往生際は悪い。 こういう時に限って口紅が見つからない。探すのが焦ったいので化粧ポーチをひっくり返す。 その日つけてきたのは、当時気に入っていたパープルピンクのような色の口紅。「ジレンマ」というその子は、可愛いけれど色っぽさも出してくれて、ジレンマが多い女子そのもののような感じが気に入っていた理由だった。 ポキリ。 音が鳴ったかと思うくらい鮮やかに、ジレンマが折れた。 口紅が折れるということなんてあるのか。不良品なのか。 考える間もなくお昼休みの終了が迫るから、私は急いでポーチのファスナーを閉めた。 下駄の鼻緒が切れると縁起が悪いというけれど、口紅が折れたら縁起が悪いという迷信も鼻緒の現代版として作ったら良さそうではないか。 なんて、売り場に急ぎながらぼんやりと思う。 不吉な予感なんて言ったら仰々しいが、前触れの様に感じていた。 口紅が折れた夏のある日。 1ヶ月後に、幼馴染と旅行に行く約束を控えていた。 幼馴染の彼は、小学校から高校までずっと一緒だった。 幼稚園から中学校までがエスカレーターの学校に通っているので、長年一緒にいるという分類でいうと幼馴染はもっといるのだが、継続して仲が良かったのは彼くらいだ。 幼馴染の男の子というと、少女漫画や恋愛ドラマを連想するのは私だけではないはずだ。 カッコよくて部活動のエースでモテるのが定番の設定だが、私の幼馴染もまさにそのタイプ。 小学校の時はクラスの半分が彼を好きだった。当然と言っては何だが、その半分に私も入っていた。 残念ながら淡くほんのりとした恋で終わったが、ずっと仲良しだった。 どうして彼を好きだったのだろう。 小学生の恋なんだから考えても意味がないけれど、考えてみる。 友達が好きだったから気になった?分かりやすいかっこよさに惹かれた? …やはり考えるだけ無駄そうである。 しかし彼が言ってくれた言葉で、1つとても私が大切にしているものがある。 小学校の道徳の時間。 先生は班になってくださいと言った。 運のいいことにその時、私と彼は同じ班だった。 プリントが配られ、そこに班の人のいいと思うことを書く。そんな授業だった気がする。 私は彼にどんなことを書いたのか。実は覚えていない。 ただ彼が私に書いてくれたことはよく覚えている。 「いつも笑顔なこと」 衝撃だった。 私はいつも笑顔だったのか。意識したこともなかった。その授業があった日の帰り道、こっそり顔に触れてみた。口元の筋肉が笑顔で固まっていた。 私は、そこでアッと気づく。 私はいつの間にか、楽しくなくても笑えるようになっていたのだと。 誰かが笑っていないだけで気になってしまう。常に周りを気にしないと不安になる。 おそらく無意識のうちの作り笑顔だが、その時の私はそれに気づいてもあまり落ち込まなかった。 私の笑顔を誰かが見ててくれた。好きな人が気づいてくれた。そして褒めてくれたことが嬉しかった。 何でもないただのA4のプリントをしばらく捨てずに持っておいた。 そんな彼が久々に連絡をくれたのは、20歳の冬。成人式の少しあとだった。 幼い頃から作り笑顔が絶えないくらい、周りに気を使ってしまう私は、学生時代は常に疎外感を感じていた。 もちろん表向きは大得意の作り笑顔でそつなく乗り切っていたが、久しぶりに同級生が一堂に会する場にいくなんて、まっぴらごめんである。 成人式はサボった。地元にすら帰らなかった。 見かけないから死んだかと思って心配になった。 バカなことを言うもんだ。けれど私はそんな無邪気さな彼が好きなのだ。 ともかく、そんなわけないでしょ、元気だよと返すと、彼は私に会いたがった。 もちろん会うことにした。予定を合わせて、1週間後には会っていた。 小学生の時から野球をしていた彼は、高校も野球の推薦で入れるくらいの腕前だった。 正直、私には野球のことはサッパリだが、ずっとそばで見ているので、彼にとって野球がどれほど大事かは知っていた。 大学でも続けているらしい。 私たちが会ったのは冬だったので、野球はオフシーズン。彼も少し暇していたのだろう。冬の間に3回会った。 俺、昔お前のこと好きだったんだよ。 同級生に再開するとよく言われる言葉ランキングがあれば、かなり上位に入るのではないだろうか。だいたい同級生に大人になってから会いたがる理由なんて、昔好きだったからとか気になっていたからとかに決まっているものだ。 けれど、私は意外に思っていた。 純粋で単純で馬鹿なんだけど、優しい。 そんな彼は少し恋愛に疎いイメージだった。 もちろんモテたので彼女が切れることはなかったが、どこか何となくで付き合っているようにも見えていた。 そんな彼が明確に好きだという気持ちを示すのに意外さを感じた。 小学生の時から結構長い間好きだったよ。 やだ両思いじゃん。 軽い気持ちで笑うと、彼の方も驚いていた。 俺のこと好きだったの? え、うん、まあ。 私だけじゃない。特別なことじゃないからと、私はぼんやりと頷いた。 その時に両思いって知ってたらどうしてた? 小学生なんだからどうもなるわけないでしょ。 面白みもなく当たり前の回答をする。 そうだよなと頷く彼の横顔は、言葉とは裏腹に少し納得していないみたいに見えた。 3回目に会った時、季節外れのイルミネーションを見ながら、彼は野球を続けるか迷うとこぼした。 どうせ野球枠で就職するんだと言っていたけれど、どこかヤケみたいだった。 親は好きなことをしてもいいと言ってくれているけれど、野球がなくなったら自分はどうなるのか。 相談に乗るのに慣れているはずの私だったが、何も言えなかった。 東京の乾燥した空気に紛れ込ませるように、好きなことしてもいいと思うよと渇いた声を出した。 その時の気持ちを俗っぽく言うなら寂しさだった。 彼は知らない間にずいぶん大人になっていたらしかった。 その日の最後に彼が好きだと言った。 私はそっかと言って、返事をしなかった。出来なかった。 彼といるのは楽しいからもう少し考えてみようと思ったのもあるが、もっと今の彼を知らなくてはというのが大きかった。 今度はいつ会おっかと、作り笑顔で彼を見上げた。 彼への気持ちがよく分からないからグレーだと私が言うと、彼は私への気持ちはピンクだと言った。 グレーと言ったら、普通は白か黒かの話をしているわけなのに、ピンクとは。 ズレているところが可愛いなと、私は彼の中に昔を見出せたのが嬉しくて微笑んだ。 ズレているのは私だということには後から気づいた。 恋は白か黒つけるものじゃない。 彼の方がよっぽど的確だったことに気づいたのは、ずうっと後で。 時が過ぎ、夏になる頃、私たちは旅行に行くことにした。 もちろん告白の返事はまだしていない。 旅行に行こうと言ったのは彼だと思う。付き合っていないのに旅行に行くことがいいか悪いかは知らないが、ハッキリ返事をしない私と行ってもいいと彼が言うならと、私は誘いにのった。 グレーな気持ちが少しでもはっきりしてくれるかもしれないと思っていた。 行き先は箱根。 私の仕事と彼の部活の合間を縫って、一泊2日でほとんど泊まることが目的のような日程だったが、私は楽しみだった。 もともと旅行が好きだったし、箱根には行ったことがない。 有楽町駅から出発し、東海道線で1時間以上揺られる。17時終わりの人たちが乗り合わせたせいか、少しだけ混んでいた。 目の前に座る中年の男女のおしゃべりが聞くともなしに耳に入る。 僕の学校は海がすぐ近くで、よく放課後は海に行ったなと男性が楽しそうに思い出話を話していた。女性も興味深そうに聞いている。 幼馴染じゃなければ、きっと私もその男性のように、自分の学生時代を話して聞かせたかもしれない。 だけど、私たちは近くにいすぎた。もはや彼に話して聞かせる私のことなんて何もないと思っていた。 彼は甘いものが苦手でジェットコースターとお化けが怖い。小学六年生までサンタさんを信じていて、赤色が好き。 そうやって彼のことをたくさん知っているから、私ものこと知ってもらっている気になっていた。だけど、きっと彼は私のことをよく知らない。 彼が私についてよく知っているといえば、私がいつも笑顔だということだ。 18時頃に待ち合わせた駅から宿の最寄りまでさらに電車を乗り換える。 小さな列車で2両しかない上に、乗客は私たちだけ。 いくら夏といえど、19時を過ぎればすっかり暗い。 鬱蒼とした森の中を進んでいるらしいがそれも定かではなかった。 私は特に何も見えないけれど、窓の外をわくわくと覗いた。夜に小さな列車に乗って暗い森を進むなんて、まるで冒険みたいだと思ったのだ。 進んで、進んでどこにつくのだろう。2人でいることを忘れて目を輝かせた。 ふと、彼が見ていることに気がついて、私は慌てて向き直った。どうしたの?と笑いかければ、いつもヘラヘラとしている彼が、どこで覚えてきたのか複雑そうな表情でううんと首を振る。それからいつも通り、適当に会話をした。 最寄駅に着いたけど、宿まではそこから歩いて行かないといけなかった。 道がわからない。 携帯で調べながら進み始めたが、歩道のない坂道を登っていく。両側が林で街灯が少ない。 地図では正しい方向に進んでいると出ているが、夜の19時過ぎに箱根でやることとしては、もっとも間違っているような気がして、私たちは笑いながら進んだ。 小学生の頃、週に一回部活動が休みの火曜日は、なぜか彼と帰る決まりがあった。2人ではないけれど、男女数人で。 当時彼が好きだったから、一緒に帰れて嬉しかったが、それ以上に楽しくて仕方なかった。 小学生の帰り道というのは、冒険である。あの道通ってみよう、あそこに寄り道しよう。普段は大人びて澄ましていた私にとってそんな小さな冒険は楽しくて心に残っている。 その時の気持ちを思い出した。彼もだろう。 大丈夫。私たちはまだ一緒にいれるんだと思った。 そこまで高くないがとても雰囲気のいい小さな旅館に着く。 夜ご飯は途中で済ませたので、さっさと温泉に入ることにした。 夏休みが始まる前の平日だったからか、宿泊客はほぼ居ない。温泉も女湯は貸切だった。 露天風呂は石造りで小さいが1人で入るのだから問題はない。何より、真上に上り始めた月が綺麗に見える。 上せやすいのですぐにお湯からはあがったが、月を見てると、柄にもなくとても感動した。 綺麗、綺麗とじっと見つめる。その時から文章を書くのが好きだったから、今すぐ何かを書きたいと思った。 1人旅ならな、と思わず考える。静かな箱根の夜を書き物に使えたら最高なのに。 彼が待ってるだろうから、私は月から目を背けた。 夜を書き物に使えるはずもなく、20を過ぎたばかりの男女がひとつ同じ部屋に居たら、することは決まっていた。 目が覚めると、早朝だった。 カーテンを閉めるのを忘れていて、朝日がこっそりと部屋に降り注ぐのを、私は見つけて徐に起き上がった。 バルコニーがついた部屋なので外に出てみる。 昨夜は遅くに着いたので、外が何も見えなかったが、朝日のおかげで今朝はよく見える。 私が20年間で見た朝日の中で一番綺麗だった。 東京から離れた東北の田舎の出身だが、自然の景色に感動するのはこれが初めてだった。 ふわふわと茂るたくさんの木、うっすらとかかるミルク色のモヤ、金色としか言いようのない朝日。 見えてるものが全てなんて嘘で。 音がないのに音楽が流れるような、嗅げもしないのに香るような、つまり私は景色を感じていた。 振り向くと、彼は寝ている。 この景色を見せてあげたらきっと綺麗だと言うだろうけど、私は彼を起こさないことにした。 彼がいつの間にか成長していたと私は寂しがったけど、私の方こそ成長していた。 私が好きなのは小学生の頃の彼で、彼が好きなのはいつも笑顔「だった」私。 彼のことは好きだけれど、あの時以上に好きになることはない。 お互い、思い出の写真の中の相手が好きだった。 昔からずっとジレンマを抱えていた。 そうしなくちゃいけない自分と、思うがままにいたい自分。 笑わないといけない、笑いたくない。 子供らしくしないと、子供っぽくてイヤ。 大きくなってからもずっと、ずっと。 思いっきり笑いたい、お利口にしていないと。 大人っぽくしないと、大人になんてなりたくない。 ポキリと折れた口紅は、私が抱え続けた葛藤だった。折ろうとしたわけではないけれど、自然と折れてくれた。 私にはもうジレンマは似合わない。 箱根から帰ってきてすぐに、私は一目惚れをした。すごく素敵な人に出会ってしまった。 だから彼に答えていなかった告白の返事を送った。 なぜか、私が何を書いて彼がどう返してきたのかはまったく覚えていない。 そして、私の旅行は終わった。
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