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第壱話 不動心
序幕
惡魔と呼ばれ、嗟嘆と呼ばれたる
全世界を欺く古き蛇
かの巨大なる龍は、倒されたり
龍に従う天使らは、龍ともども
黄泉へと投げ落とされたり
(約翰の黙示録第十二章九節)
壱
私の瞳は、微かに翠かかった碧色をしている。
花浅葱と云う。
夏の大穹の色だ。
頭髪は白金色の直毛。
眉骨と鼻根は高く、鼻筋はスッキリと細い。
序でに付け加えると、肌の色は淡く、白に近いときている。
即ち――。
烏克蘭や白露西亜と云った欧羅巴の東部地域に多く見られる貌立ちをしている。
其れ故であろう――。
此処、月城國を東へ西へと移り住む都度、先ずは挨拶代わりと云わんばかりに容姿を話題にされることが、幼い頃からの常だった。
初等科学校、湯屋は云うに及ばず、芝居見物や寺参り、あるいは花見の一席で屡々、好奇に駆られた視線を向けられる。
其の多くは好意的で、
「いやァ、可愛らしィ娘ォやわァ……」
と、惚れ惚れとした口振りの称揚を受ける事に成るのだが、中には――
「毛唐が来よった!」
「異人やないかァ!」
「夷狄やでェ!」
と辺りに響き渡る大きな声で――手垢にまみれた語彙を持ち出しては――囃し立てる男の子もいた。
全く、子供っぽいと云ったらない。
こんな幼稚窮まる『通過儀礼』など、流石に惻隠の徳が涵養され、また男女別学になる中等科学校では経験すまい。
そう、踏んでいたのだが――。
奇しくも満十四歳の『誕生日』を迎えた今日、私の目算は脆くも崩れさった。
転入早々、『ムシケラ』呼ばわりされたのである。
弐
「目ェが青いから葵ゆうねんなァ? 髪の色からコガネちゃんって付けはったら可愛いらしかったのにィ……。そや、うち、あんたのことコガネムシって呼んだはるわァ」
月城國は、二十四の郷から成る。
その一つ、『葛城』と呼ばれる、コガネムシならぬ大和蝮がそこら中を這っていそうな草深い地に在る、女子中等科学校の前期二年生として転入した、初日の事であった。
「へ? コガネ……ムシ?」
異形を論うあからさまな侮蔑の言葉を唐突に投げかけられた私は、
「葵ちゃんの髪ィ、トウモロコシのオヒゲさんみたいやなァ?」
と、初等科一年のときに級友より繁々と評されたことを、不意に思い出した。
***
憤懣遣る方無しと云った風情の私から、この一件を帰宅するなり聞かされた士郎さんは、「ガハハ」と豪快に哄笑するや、
「葵の髪は、阿弥陀さんの御光みたいやないかァ? 壮麗やで?」
と、武利天語を交えながら、小指と薬指に固いタコがある左掌で私の小さな頭をポンポンっと叩いてくれた。
「気にしんと、云わせといたらええ、葵。こないなときこそ、不動心やねんで?」
『不動心』とは、何事にも動じない、揺るぎない心を意味する。
撃剣に励む者が求道する高尚なる精神の有り様を、たった六歳の子供に説き聞かせる士郎さんと、それを神妙なる面持ちで正座して聞く金髪碧眼の私を、薫子さんは、女雛を想わせる切れ長の瞳に笑みを湛えながら、黙って傍で見ていてくださった……。
幼い頃の我が家のいち風景である。
***
――そや、不動心
私は、「不動心、不動心」と心の中で唱えながら、『遠山の目付』でもって、発言の主を観察する。
相手は、瑠璃色の光沢が美しい豪奢な平縮緬の小袖に明るい梅重の行灯袴と云った出で立ちの、何処かお嬢様然とした気品――と云うよりは、気位の高さ――が、全身から滲み出ている、大人びた貌立ちの令嬢であった。
艶やかな黒髪を束ねる元結いの色は、深縹。
其の色から後期課程の六年生、即ち、私より四学年上の最上級生であると知れる。
私は、此の底意地の悪い女官のような先輩を『縮緬式部』と心の中で呼ぶことにした。
さて――目下、下校の折である。
寄宿生でも下宿生でもない私は、これから茶畑が広がる丘を越え、橅の森を抜け、『天使庁』が用意してくれた官舎に帰るべく二十三丁(約二・五キロメートル)の野道を歩かねば為らない。
「葵。真っ直ぐ帰宅するのですよ」
と、薫子さんから厳命されてもおり、斯様な些事に費やす時間など、微塵子の毛ほども持ち合わせて居ない。
よって、眼前の見目麗しい狼藉者に対しては、一礼の後に無視を決め込み、早々に退散するのが最善かと思われた。
三十六計逃げるに如かずである。
「柏木葵です。宜しうお頼申しますゥ」
至って優雅に名乗った私は、挙措を改めると立礼する。
角度は、十五度。
目線は、相手から外さない。
撃剣の礼法で云う処の『相互の礼』である。
然し――。
どうやら縮緬式部は、最初から私がどう振る舞おうと、因縁を付ける腹積もりでいたらしい。
「なんやのン、その目ェ?」
私より四寸ほども高い、五尺六寸(約一六八センチメートル)は在るかと思われる彼女は、芝居掛かった忿怒の形相で私を睨みつけるや、長い左腕を伸ばし、私の胸元の三角折布をむんずと掴んだ。
「あんたァ? 下級生のクセに、うちに喧嘩売ったはんのンかァ?」
相手の胸元を掴む――この行為は、此処、月城國は云うに及ばず、『連邦』の多くの構成國において暴行罪が適用される。
随分と大胆な、天下独歩のお嬢様である
――はあ? なんやのン、この人?
つい先日まで、私が國府で通っていたのは、『精励・博愛・貞淑』を校訓とする基督教系のそれはそれは穏やかな学校であった。
故に、ペルリ提督も真っ青の『砲艦外交』に突如曝された私は、驚懼疑惑の四戒の一つにまんまと陥り、驚き、呆れ、暫し思考が停止しかける。
――あかん、あかん、不動心
と、心の内で唱えながら『遠山の目付』――遠くの山を観るように事象の全体を捉えると云う撃剣の基本技――を私は、続けた。
「どうせあんたのおかあちゃんが、異人相手に、犬みたいに尻尾ふって出来はった子ォなんやろ? はっ! 気色悪ゥ! 月城撫子の恥やわァ!」
そう云い放つ彼女の右肩に、緊張が走った。
私は、其の『起こり頭』を見逃さない。
殴りかかるつもりなのだ。
――ふん、しゃあない
私は、身にかかる火の粉を避けるべく、加えて、薫子さんを云われない妄言でもって侮辱した代償を払わせるべく、彼女を『排除』することにした。
此の破廉恥窮まる言ノ葉を見逃すことは、私の『武士道』が許さない。
そう。
金髪碧眼の私の武士道が――。
私は、縮緬式部の左手首を右掌で、左肘を左掌で同時に強く握ると、右脇を締めながら腰を時計回りに鋭く回転させた。
同時に、腕を捻る。
「へっ?」
縮緬式部は、私に左腕を捻られたまま、仰け反るようにして体を崩す。
透かさず私は、左脚の脹ら脛で、彼女の両脚を鋭く刈った。
柔で云う『大外刈り』に似た刈り技であるが、片手を取られている為、刈られた側は『受身』を甚だとり難い。
即ち――。
より危険な、技である。
私が修めた流派では、この刈り方を『朱雷』と呼ぶ。
脚を刈られた縮緬式部は、勢い良く校庭に仰向けに倒れこんだ。
此処で後頭部が地面に直撃しないよう配慮することを、私は、忘れない。
怪我をさせる事が、目的では無いのだ。
「きゃっ!」
脚を鮮やかに刈られ、尻、続いて背中を強か打った縮緬式部は、短い悲鳴を上げたものの、仰向けの姿勢から苦しそうに上体をあげると、私に向かって尚も憎々しげに鋭い視線と言葉を投げ放って来た。
「この売女の子! 天狗娘!」
衆人環視のもと刈り倒された事によって激噴の情が爆発したのか、その口舌は狂気の血飛沫に塗れ、どす黒い。
――こらァ、あかんわ……
私の鼻梁は確かに細く整っているが、「天狗の娘」と呼ばれる程ではない。
寧ろ、『毛唐』、『夷狄』と罵るべきと思われたが、其の事を指摘してみても埒が明かない。
幼稚な罵倒に辟易しつつも、此のお嬢様は全く状況を理解していないと知り、私は、やや落胆する。
私が、腕を引かなかったら、後頭部から雷の如く地に激突し、其の綺麗な貌を朱に染めていたかも知れないと云うのに――。
――何で此処まで云われなあかんねン?
――うちに何ぞ恨みでも在るンかいな?
そんな疑問の数々が、泡の如く浮かび、弾けるが、恨みを買うにしても本日が初めての登校日である。
お嬢様とは、当然ながら初対面。
面識など微塵も無い。
即ち――、
――訳わっからへン
私は、一つ嘆息する。
潮時であった。
「朋友相信シ、恭倹己レヲ持シ、博愛衆ニ及ホシ」
私が、朗々と諳んじたのは、日の神様の御神裔にして、此の豊葦原をしらす万世一系の現人神たる天子様より、連邦四千万臣民の道徳心練成の為に下賜された聖勅の一節である。
朋友とは信義をもって交わり、周囲の人に対しては恭しく接し、自分自身は慎みを深くし、博く仁愛の心を周りに及ぼすことが大切ですよ……と云ったほどの意味である。
私から縮緬式部先輩へ贈る、細やかな皮肉であった。
「うちの事、コガネムシでも、天狗でも、トウモロコシのヒゲでも、毛唐でも、夷狄でも何でもお好きなよう呼んでくれはって結構です」
やおら鞄を広い上げ、ポンポンと埃を払う。
「せやけど、うちは捨て子です。ホンマの両親は、貌も名前もよォ知らしません。こないな髪と目ェの私を拾ってくれはった養父母には、感謝の気持ちしかあらしません。せやから……母への暴言は、絶対に許さしません。次に侮辱しはったら……」
私は、ここで一旦言葉を溜める。
そして冷然と言い放った。
「頭かち割るェ? 覚えときィ」
私は、未だ校庭に尻を付いたままの縮緬式部に向かって三十度の立礼をし、ゆっくりと歩き出した。
行く手に広がる、金緑に輝く新芽が芽吹いた茶畑と橅の森から、鶯の囀りが一つ、二つと聞こえて来る。
見上げれば、花浅葱――私の瞳と同じ色の立夏の空が、広がっていた。
参
月城國には、『天使』と呼ばれる職業が在る。
原義は、天津神の末裔たる天子様の使者・使用人・奉公人と云ったほどの意味であり、此処から転じて、公に奉じる役人を指す言葉として広く用いられていた。
士郎さんは、月州三郡二十四郷の治安維持の任に奉じる――平安の昔には、検非違使と呼ばれた――『非違天使』の職に就いていた。
お江戸で云う処の、警察官と検察官の役割を担っていると、いつか習った事があったが、お江戸どころか畿内の近隣諸國たる山城や大和にも行った事が無い私にとっては、なんのことだかサッパリである。
然し、憧れる。
一日の公務を終え、ご帰宅される士郎さんは、眩しいくらいに荘厳であった。
さて、そんな士郎さんの位階は、三十五歳にして義天使。
二階級下の智天使でもって定年を迎える方も大勢いらっしゃると聞くから、尋常ならざる速さで昇進されていることが覗える。
此れは、畿内の諸國を見渡してもほんの数名しか存在しない、『撃剣柒段』の段位を有する剣の達人であることが、やはり大いに関係しているに違いない――と、私は、常々思っていた。
その疑問を尋ねてみたことがある。
私が、『財団法人連邦撃剣連盟』から『撃剣弐段』の免状を授与された日だから、十三歳に成って間もない皐月の頃――。
今から丁度、一年前のことであった。
私は、新緑が眩しい橅の森を抜けながら、その夜の会話を想起する――。
***
「はァ? 月州は、法治國家やねンでェ? 御維新から早や四半世紀――今や、連邦は東亜随一の文明國や。剣の巧拙で役人の出世が決まってたまるかいな? そない物騒な國、六畿八道六十九カ國中探したかて、あらへんわい」
士郎さんは、一笑のもとに私の問いをバッサリと斬り捨てた。
「へ? そやったら士郎さん、どないして義天使さんにまで昇進しはったん?」
私は、一驚に喫すると同時に、大いに惑う。
非道の限りを尽くす暴戻なる賊どもをバッタバッタと誅戮し、栄達の階段をトントントーンと駆け上がった――と金剛石より固く信じていたのだ。
それを口にするや、
「葵、バッタバッタにトントントーンって……お前の頭ン中、戦國か? ええかァ? 捕った首級の数で偉なる仕組みと違うねんでェ? 『敵は、天使庁にあり!』とか云うて総監の椅子狙たりとか、よおしィひんで?」
士郎さんは、私を呆れ貌で見つめながら、美濃國から出た英傑の事績に譬えてチカライッパイ揶揄すると、不意に、表情を改めた。
「あんなァ、葵――。確かになァ、乃公はァ、若い時分、剣の腕ェ買われて、『天使抜刀隊』云う仰々しい名前の部署で、腐れ外道ども、それこそバッタバッタと取り締まる仕事、就いてたことあんねャ……。あんときは、しんどい現場ようけ続きはってなァ……褒章金もろたこともあったし、三途の川ァ、渡りかけたこともあった」
士郎さんから、そんな昔話を聞くのは、初めての事であった。
「三途の川……って、ええっ……?」
私は、思いがけず絶句する。
士郎さんの中段の構えは、次元が違う。
普通の技倆では、踏み込みようが無い。
仮に踏み込んだら、文字通り瞬殺される。
其の士郎さんが死線を彷徨ったとなると、凄まじい修羅場であったこと疑いない――。
「傷は浅かったンやけどなァ、其所から黴菌入り込みよったらしねン」
士郎さんは、他人事みたいに語り出した。
背にも胸にも腹にも、そんな傷跡は見たことが無い私は、「ええっ?」と短く叫ぶ。
「其れが元で、心ノ臓やら肺やら、みるみるうちに、あかんようなってしもてなァ。気ィついたときには――云うても、意識あらへんねんけどなァ――危篤状態やったらしィわ。薫子さんには、ほんまに心配かけよった。ああ、葵。そないな貌しィな? 全部、済んだ話やねンで?」
士郎さんは、眩しそうに目を細めた。
私の白金色の髪が、恰も日輪の光でもあるかのように。
「葵に云いたいのンはなァ、そないな斬った張ったと世渡りとは、全くの別物やァ云うことや――身も蓋もあらへン云い方しよるとやなァ、須く、学問。平たく云うたら、勉強やなァ」
「勉強?」
修羅場から一転、意外な状況で聞く『最も身近な言葉』に、私は、花浅葱の瞳を丸くする。
「せや、勉強――。そやなァ、譬えば……連邦憲法」
東亜初の近代憲法が施行されたのは数年前、明慈二十三年(基督歴一八九〇年)の事である。
「連邦臣民は、和を以て貴しと為し、忤ふること無きを宗とする?」
私は、偶々其の日の授業で習った許りの条文の一つを諳んじてみせた。
周囲からは、多分に『撃剣馬鹿』と視られている――其の評価は正鵠を得ている――私で在ったが、学業成績自体は、けっして悪くは無い。
いや、寧ろ頗る良い。
初等科以来、成績は、甲、乙、丙、丁、戊の五段階評価で、全て甲である。
不思議なことに、私は、教科書でも地図でも年表でも、一度眺めれは全て覚えてしまうし、先生のお話も一度聞いたことは、難解な聖勅はもとより、お江戸の治安維持機構の名称と云った蛇足まで決して忘れない。
きっと神様が、異形の捨て子を憐れみ、人様より少々上等な記憶力を授けて下さったのだろう。
「おお、流石やなァ。その憲法に始まり、この月城の天使法、刑法、神祇法……そこらへんをな、試験の度に問われる。法の番人として当然やな? せやけど此れがやなァ、子供の時分なら未だしも、三十路半ばの大酒飲みには、正直、しんどい。ほんま、葵が羨ましい」
そう云うと、士郎さんは、ニッと笑うや酒杯をぐびりと干した。
「此の昇進試験、通らへんかったらなァ、義天使はおろか、智天使にかて上がられへん。これが、現実やァ」
非違天使には、総監以下、愛・忠・勇・仁・義・礼・智・信の位階が厳に定められている。
儒教の思想がその背後にあるのは明白だが、天使総監の次に高い位階を『愛』としている辺り、発案された方は、意外にも基督教への造詣が深かったのかも知れない。
「うはァ……天使さんって勉強漬けやねンなァ……せやけど、士郎さん、撃剣柒段やンか? なんか、こう、ほら? そこら辺、配慮とか、忖度とか……あらへんかったのン?」
『撃剣原理主義』とでも云うべき心理状態――いや、此れは既に信仰か――にどっぷりと、骨の髄まで、徹底的に浸っている私は、剣の技倆が世の中の尺度では無いとする士郎さんの言質に納得がいかず、前のめり気味に食い下がる。
「お前、忖度って……あんなァ」
此の口さがない娘は、いったい何処でそんな言葉覚えやがった? と云わんばかりに、士郎さんは、細く整った鼻に小皺を寄せ、又もや呆れ貌を浮かべる。
「昇進試験では、特段考慮せん云うたはったで? 剣の方は、給金とは別に技倆手当貰たはるしなァ……。位階昇進は、職務遂行能力の『考課』の結果が全てや。ある意味、至極真っ当で公平な競争社会、云うことやなァ」
其の清々しいまでの断言ぶりに、私は、士郎さんは、足腰が強いのだと、改めて思った。
激務の合間に時間を作り、私に稽古を付け、そして、恐らくは私が寝ている時間に凄まじい量の法律関係の書類と向き合う――。
その粘り腰は、幼い頃からの剣の修練で培った克己の心が支えているに違いない、と撃剣原理主義が、またもや懲りずに頭を擡げる。
しかし、其所まで凄まじい努力をして、昇進に臨む理由は、何なのだろう。
士郎さんは、長い睫毛で縁取られた二重の瞳で私を暫し見つめると、私の内なる疑問を察したのか、言葉を続けた。
「門閥や家格は一切関係のォて、努力した者が、相応に身を立てることが出来る。その逆もまた真――。葵、今の世の中、矛盾は、ぎょうさん在るし、義憤に駆られることも、ようけ在る。せやけどなァ……この仕組みだけは、有難いこっちゃァと、乃公は思てるのンやァ」
士郎さんは、過ぎし日の光陰を追うかのように、宙の一点を見つめた。
士郎さんが、月城守の近習を代々勤める柏木家に生を受けたのは、御維新の十年前、安正五年(基督暦一八五八年)の事だと云う。
此の年は、西洋列強と旧幕府との間で条約が、相次いで締結された年でもある。
即ち、旧体制下で武門の家に生まれ、教育を受けると共に、旧い社会が自らを清算して近代國家へと変わり行く様を目撃した――そして、翻弄された――最後の世代であった。
「乃公には、此の仕組みを引き継ぎ、あわよくば、より良いモノに変えて、あとの世代へ伝える義務がある……。それが、新しい世の士分の責任や。それが、乃公の武士道や。その為には、偉ァなって、自分の意見通せるよう成らなァあかん……。考えてみィな、葵? 文明開けし世ォ云うたかて、未だ女は、男の道具、従属物やろ? そんなん、おもろない。そないな狭い了見、変えてかなァあかん。そない思てるのンやァ――どや? ちょっとかっこええやろ?」
照れ隠しなのか、士郎さんは、戯けた口調で、余計なひと言を添えた。
恐らくは、言葉に節度が足りない――とは、大いに自覚している――私が、
「また大酒飲みが、大風呂敷、広げたはるわァ」
などと韻を踏みつつ混ぜっ返すことを期待しての発言だと思われたが、思春期真っ只中の私は、新時代にあって――様々な特権を失ったにも関わらず――尚も武士としての立ち位置を模索し、向き合おうとする士郎さんの清冽な姿に感じ入ってしまい、
「うん、めっちゃ、かっこええ……」
と素直な心情を発露したきり、言葉が出ない。
――あかん、此処は突っ込むとこやった!
俄に黙り込んでしまわれた士郎さんの前で、「やってもうた」と逡巡していると――。
鰹節に茗荷と生姜をたっぷり乗せた木綿豆腐、海老芋とお揚げさんの炊いたん、水茄子の塩揉みなどを載せた盆を手に持った薫子さんが、居間に立ち現れた。
「はい。お待たせしました」
厨で機を覗っていたとしか思えない、正に絶妙なる頃合い、間合いを見計らっての登場であった。
譬えばこんなとき――細やかな気働きをさり気なく熟す薫子さんに、私は、天壌に通じる無窮を見る。
「おおきにィ、こらまた美味そうやないか」
やれ助かった、と云わんばかりに、士郎さんは照れたような笑みを浮かべるや、早速箸をつけて好物の水茄子をポーンと口に入れた。
「何のお話しですか? ケンポーとか、ブシドーとか、聞こえて来ましたけど?」
普段は黙って、刻に笑いを堪えながら、士郎さんと私の撃剣漫談を聞いている薫子さんであったが、その日は、箱膳に肴の鉢を据えると、涼やかな声音で会話に加わって来た。
娘時代をお江戸で過ごしたと云う薫子さんは、美しい帝國標準語を操る。
「ええと……天使さんって、めっちゃ大変やねんなァ、云う話しててン。連邦憲法とか、法律をなァ、ぎょうさん覚えなァあかんのンやって……。うち、剣の腕さえあれば偉ァなれる思てたから、びっくりやわァ。ほら? 武士道で云わはる克己心? それがなきゃ、迚も務まらへンお仕事やねんなァ……って、話てたとこやのン」
要約しつつも、士郎さんの秘めたる武士道への言及を避けたのは、『武士の情け』であることは云うまでもない。
「あら、克己心――葵、当節、中々聞かない言葉ですよ?」
薫子さんは、そう云うとクスリと笑った。
年齢は、士郎さんの三つ下の筈であったが、そんな表情をすると随分と幼く見える。
「葵ったら、どんどん難しい言葉、覚えて行くのね……。士郎さん、此の間なんか此の子、ケンシンイチニョって、寝ながらブツブツ呟いて――」
「え? 嘘? ホンマに?」
薫子さんの告白を、私は頓狂な声で遮る。
「薫子さん、剣心一如か? 寝ても、覚めても、云うやっちゃなァ……葵の方が、乃公より余程勉強熱心やないかァ?」
二人は、お互いのことを下の名に「さん」を付けて呼び合う。お互いを最大の理解者として、尊重しあっているのだ。
譬えばこんなとき――心中に広がる甘酸っぱい細波と共に、誰かと斯様な信頼関係を築く事とは、私は生涯無縁であろうと云う諦めにも似た感慨を抱く。
金髪碧眼の私を相手に真に心を開く者など二人の育ての親以外、存在する筈もない。
そして更に突き詰めて――漠とした思いに、私は、囚われるのだ。
私は、何の為に生まれ、この先、何の為に生きて行けば良いのだろうか、と。
「でも、克己心――本当に……葵の云う通りね」
薫子さんは、小さく何度か肯く。
「葵――。一年で一番寒さが厳しい寒の時分に、特に『寒九』の日には、わが家ではユキウサギを作るでしょう?」
ユキウサギとは、南天の翠色の葉を耳に、赤くて丸い実を目に見立てて雪団子に刺してこさえた兎のことである。
「昔の武家ではね、そんな寒い日に敢えて火鉢も無い部屋で、お裁縫やら手習いやらをわざと普段より刻をかけて、子供らにさせたものなのですよ」
薫子さんは、然る旗本家のお生まれである。
「燈籠に降り積もった、穢れのない雪を、日の出と共にお庭から取って来てね、それを硯に溶かして墨をするの……。筆のあやには心の乱れが直ぐ現れるでしょう? 耳も指先も千切れるくらいの寒さに耐えながらね、ひと筆、ひと筆に心を込める……こうして己を練り、克己の心を鍛えたものなんですよ。其れが、云わば『女子の武士道』ね」
娘時代を懐かしむように語るその貌は、観音様のように壮麗である。
「女の子も、切腹の仕方とかァ、習わはったのン? 薫子さん?」
女子の武士道と聞き、思わずそんな問いを発してしまう撃剣馬鹿の私である。
「女の子はね、お腹ではなくて、懐刀でこう――」
薫子さんは、頸元を刺すような動作をしてみせた。
「辱めを受けたとき、或いは、身を賭して何事かを為すとき――そんなときの為にね、幼い頃から作法を仕込まれたわ。当時はね、女子の嗜みとして……」
薫子さんの瞳は、一瞬、遠くを見るような眼差しになった。
「文明開けし当節には、もう必要ないことですよ……。葵、あなたには、剣の修練で培った強い心がある。その心を信じて、いろんなことに挑みなさい。きっとその先には、いろんな壁が立ちはだかることでしょうね。でも、大丈夫。あなたが信じた道を、突き進みなさい。あなたなら、どんな壁だって斬り開ける。だって士郎さんの娘、天使の娘なんですから」
薫子さんは、私の中に澱のように沈殿している、
・諦め
・引け目
・迷い
と云った感情を千里眼でもって見透かしたのか、右掌で作った手刀で力強く――そう、力強く――空を斬った。
「柏木葵 撃剣弐段 右授与する」
薫子さんは、私の膝から厚い奉書紙に書かれた免状を手に取ると、其の文言を読み上げ、何時までも嬉しそうに眺めていた。
***
森を抜けると一気に視界が開け、眼下に広大な湖が広がった。
花浅葱の空を映した水面は、立夏の陽に燦めき、僅かに湿り気を帯びた沢風が、私の頰を優しく撫上げる。
不意に、薫子さんの貌を早く見たくなり、その凛とした声音を早く聞きたくなり、私は、堅香子が咲きみだれる野道を一気に駆け下りた。
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