第壱話 不動心

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第壱話 不動心

序幕  惡魔(devil)と呼ばれ、嗟嘆(Satan)と呼ばれたる  全世界を(あざむ)古き蛇(the old serpent)  かの巨大なる龍(The great dragon)は、倒されたり  龍に従う天使ら(angels)は、龍ともども  黄泉(the earth)へと投げ落とされたり (約翰(ヨハネ)の黙示録第十二章九節) 壱  私の瞳は、(かす)かに(みどり)かかった(あお)色をしている。  花浅葱(セルリアンブルー)と云う。  夏の大穹(おおぞら)の色だ。  頭髪は白金色(プラチナブロンド)の直毛。  眉骨(まゆぼね)鼻根(びこん)は高く、鼻筋はスッキリと細い。  (つい)でに付け加えると、肌の色は淡く、白に近いときている。  即ち――。  烏克蘭(ウクライナ)白露西亜(ベラルーシ)と云った欧羅巴(ヨーロッパ)の東部地域に多く見られる貌立ちをしている。  ()(ゆえ)であろう――。  此処(ここ)月城國(つきしろのくに)を東へ西へと移り住む都度、先ずは挨拶(あいさつ)代わりと云わんばかりに容姿を話題にされることが、幼い頃からの常だった。  初等科学校(しょとうかがっこう)、湯屋は云うに及ばず、芝居見物や寺参り、あるいは花見の一席で屡々(しばしば)好奇(こうき)に駆られた視線を向けられる。  其の多くは好意的で、 「いやァ、可愛(かい)らしィ()ォやわァ……」  と、惚れ惚れとした口振りの称揚(しょうよう)を受ける事に成るのだが、中には―― 「毛唐(ケトウ)が来よった!」 「異人(イジン)やないかァ!」 「夷狄(イテキ)やでェ!」  と辺りに響き渡る大きな声で――手垢にまみれた語彙(ごい)を持ち出しては――(はや)し立てる男の子もいた。  全く、子供(ガキ)っぽいと云ったらない。  こんな幼稚(きわ)まる『通過儀礼』など、流石(さすが)惻隠(そくいん)の徳が涵養(かんよう)され、また男女別学になる中等科学校では経験すまい。  そう、踏んでいたのだが――。  奇しくも満十四歳の『誕生日』を迎えた今日、私の目算(もくさん)(もろ)くも崩れさった。  転入早々、『ムシケラ』呼ばわりされたのである。 弐 「目ェが青いから(アオイ)ゆうねんなァ? 髪の色からコガネちゃんって付けはったら可愛()いらしかったのにィ……。そや、うち、あんたのことコガネムシって呼んだはるわァ」  月城國(つきしろのくに)は、二十四の(さと)から成る。  その一つ、『葛城(かつらぎ)』と呼ばれる、コガネムシならぬ大和蝮(ヤマトマムシ)がそこら中を()っていそうな草深い地に在る、女子中等科学校の前期二年生として転入した、初日の事であった。 「へ? コガネ……ムシ?」  異形(いぎょう)(あげつら)うあからさまな侮蔑(ぶべつ)の言葉を唐突(とうとつ)に投げかけられた私は、 「葵ちゃんの髪ィ、トウモロコシのオヒゲさんみたいやなァ?」  と、初等科一年のときに級友より繁々(しげしげ)と評されたことを、不意に思い出した。 ***  憤懣(ふんまん)()(かた)()しと云った風情(ふぜい)の私から、この一件を帰宅するなり聞かされた士郎さんは、「ガハハ」と豪快に哄笑(こうしょう)するや、 「葵の髪は、阿弥陀(あみだ)さんの御光(みひかり)みたいやないかァ? 壮麗(グレイスフル)やで?」  と、武利天語(ブリティッシュ)を交えながら、小指と薬指に固いタコがある左掌で私の小さな頭をポンポンっと叩いてくれた。 「気にしんと、云わせといたらええ、葵。こないなときこそ、不動心(ふどうしん)やねんで?」  『不動心』とは、何事にも動じない、揺るぎない心を意味する。  撃剣(げっけん)に励む者が求道(きゅうどう)する高尚なる精神の有り様を、たった六歳の子供に説き聞かせる士郎さんと、それを神妙なる面持ちで正座して聞く金髪碧眼(きんぱつへきがん)の私を、薫子(かおるこ)さんは、女雛(めびな)を想わせる切れ長の瞳に笑みを(たた)えながら、黙って傍で見ていてくださった……。  幼い頃の我が家のいち風景である。 *** ――そや、不動心   私は、「不動心、不動心」と心の中で唱えながら、『遠山(えんざん)目付(めつけ)』でもって、発言の(ぬし)を観察する。  相手は、瑠璃(るり)色の光沢が美しい豪奢(ごうしゃ)平縮緬(ひらちりめん)の小袖に明るい梅重(うめかさね)行灯袴(あんどんはかま)と云った()で立ちの、何処(どこ)かお嬢様然とした気品――と云うよりは、気位(きぐらい)の高さ――が、全身から(にじ)み出ている、大人びた貌立(かおだ)ちの令嬢であった。  (つや)やかな黒髪を束ねる元結いの色は、深縹(こきはなだ)。  其の色から後期課程の六年生、即ち、私より四学年上の最上級生であると知れる。  私は、此の底意地の悪い女官のような先輩を『縮緬式部(チリメンシキブ)』と心の中で呼ぶことにした。  さて――目下、下校の折である。  寄宿生(きしゅくせい)でも下宿生(げしゅくせい)でもない私は、これから茶畑が広がる丘を越え、(ブナ)の森を抜け、『天使庁』が用意してくれた官舎に帰るべく二十三丁(約二・五キロメートル)の野道を歩かねば為らない。 「葵。真っ直ぐ帰宅するのですよ」  と、薫子さんから厳命されてもおり、斯様(かよう)些事(さじ)(つい)やす時間など、微塵子(ミジンコ)の毛ほども持ち合わせて居ない。  よって、眼前の見目麗(みめうるわ)しい狼藉者(ろうぜきもの)に対しては、一礼の後に無視を決め込み、早々に退散するのが最善かと思われた。  三十六計逃げるに()かずである。 「柏木(かしわぎ)(あおい)です。宜しうお頼申しますゥ」  至って優雅(グレイスフル)に名乗った私は、挙措(きょそ)を改めると立礼する。  角度は、十五度。  目線は、相手から外さない。  撃剣の礼法で云う処の『相互の礼』である。  (しか)し――。  どうやら縮緬式部は、最初から私がどう振る舞おうと、因縁(いんねん)を付ける腹積(はらづ)もりでいたらしい。 「なんやのン、その目ェ?」  私より四寸ほども高い、五尺六寸(約一六八センチメートル)は在るかと思われる彼女は、芝居掛かった忿怒(ふんぬ)の形相で私を(にら)みつけるや、長い左腕を伸ばし、私の胸元の三角折布(スカーフ)をむんずと掴んだ。 「あんたァ? 下級生のクセに、うちに喧嘩(けんか)売ったはんのンかァ?」  相手の胸元を掴む――この行為は、此処、月城國(つきしろのくに)は云うに及ばず、『連邦』の多くの構成國において暴行罪が適用される。  随分と大胆な、天下独歩(てんかどっぽ)のお嬢様である ――はあ? なんやのン、この人?  つい先日まで、私が國府(こくふ)で通っていたのは、『精励(せいれい)博愛(はくあい)貞淑(ていしゅく)』を校訓(むね)とする基督(キリスト)教系のそれはそれは穏やかな学校であった。  故に、ペルリ提督(ていとく)も真っ青の『砲艦外交(ほうかんがいこう)』に突如(さら)された私は、驚懼疑惑(きょうくぎわく)四戒(しかい)の一つにまんまと(おちい)り、驚き、呆れ、(しば)し思考が停止しかける。 ――あかん、あかん、不動心  と、心の内で唱えながら『遠山の目付』――遠くの山を観るように事象の全体を捉えると云う撃剣の基本技――を私は、続けた。 「どうせあんたのおかあちゃんが、異人相手に、(ワンコロ)みたいに尻尾ふって出来はった子ォなんやろ? はっ! 気色悪ゥ! 月城撫子(つきしろなでしこ)の恥やわァ!」  そう云い放つ彼女の右肩に、緊張が走った。  私は、其の『起こり(がしら)』を見逃さない。  殴りかかるつもりなのだ。   ――ふん、しゃあない  私は、身にかかる火の粉を避けるべく、加えて、薫子さんを云われない妄言でもって侮辱(ぶじょく)した代償を払わせるべく、彼女を『排除』することにした。  此の破廉恥(はれんち)(きわ)まる言ノ葉を見逃すことは、私の『武士道』が許さない。  そう。  金髪碧眼(きんぱつへきがん)の私の武士道が――。  私は、縮緬式部の左手首を右掌で、左肘を左掌で同時に強く握ると、右脇を締めながら腰を時計回りに鋭く回転させた。  同時に、腕を捻る。 「へっ?」  縮緬式部は、私に左腕を捻られたまま、()け反るようにして体を崩す。  ()かさず私は、左脚の(ふく)(はぎ)で、彼女の両脚を鋭く刈った。  (やわら)で云う『大外刈(おおそとが)り』に似た刈り技であるが、片手を取られている為、刈られた側は『受身』を(はなは)だとり難い。  即ち――。  より()()な、技である。  私が修めた流派では、この刈り方を『朱雷(アケイカヅチ)』と呼ぶ。    脚を刈られた縮緬式部は、勢い良く校庭に仰向けに倒れこんだ。  此処で後頭部が地面に直撃しないよう配慮することを、私は、忘れない。  怪我をさせる事が、目的では無いのだ。 「きゃっ!」  脚を鮮やかに刈られ、尻、続いて背中を(したた)か打った縮緬式部は、短い悲鳴を上げたものの、仰向(あおむ)けの姿勢から苦しそうに上体をあげると、私に向かって尚も憎々しげに鋭い視線と言葉を投げ放って来た。 「この売女(ばいた)の子! 天狗娘(てんぐむすめ)!」  衆人環視のもと刈り倒された事によって激噴(げきふん)の情が爆発したのか、その口舌(こうぜつ)は狂気の血飛沫(ちしぶき)(まみ)れ、どす黒い。 ――こらァ、あかんわ……  私の鼻梁は確かに細く整っているが、「天狗の娘」と呼ばれる程ではない。  (むし)ろ、『毛唐(けとう)』、『夷狄(いてき)』と(ののし)るべきと思われたが、其の事を指摘してみても(らち)が明かない。  幼稚な罵倒(ばとう)辟易(へきえき)しつつも、此のお嬢様は全く状況を理解していないと知り、私は、やや落胆する。  私が、腕を引かなかったら、後頭部から雷の如く地に激突し、其の綺麗(きれえ)な貌を朱に染めていたかも知れないと云うのに――。 ――何で此処まで云われなあかんねン? ――うちに何ぞ(うら)みでも在るンかいな?  そんな疑問の数々が、泡の如く浮かび、弾けるが、恨みを買うにしても本日が初めての登校日である。  お嬢様とは、当然ながら初対面。  面識など微塵(みじん)も無い。  即ち――、 ――訳わっからへン  私は、一つ嘆息(たんそく)する。  潮時(しおどき)であった。 「朋友(ほうゆう)相信(あいしん)シ、恭倹(きょうけん)己レヲ持シ、博愛(はくあい)衆ニ及ホシ」  私が、朗々と(そら)んじたのは、日の神様の御神裔(ごしんしょう)にして、此の豊葦原(とよあしはら)をしらす万世一系(ばんせいっけい)現人神(あらひとがみ)たる天子様より、連邦四千万臣民(しんみん)の道徳心練成の為に下賜(かし)された聖勅(セイチョク)の一節である。  朋友とは信義をもって交わり、周囲の人に対しては(うやうや)しく接し、自分自身は(つつし)みを深くし、(ひろ)く仁愛の心を周りに及ぼすことが大切ですよ……と云ったほどの意味である。  私から縮緬式部先輩へ贈る、(ささ)やかな皮肉であった。 「うちの事、コガネムシでも、天狗でも、トウモロコシのヒゲでも、毛唐でも、夷狄でも何でもお好きなよう呼んでくれはって結構です」  やおら鞄を広い上げ、ポンポンと(ほこり)を払う。 「せやけど、うちは捨て子です。ホンマの両親は、貌も名前もよォ知らしません。こないな髪と目ェの私を拾ってくれはった養父母には、感謝の気持ちしかあらしません。せやから……母への暴言は、絶対に許さしません。次に侮辱(ぶじょく)しはったら……」  私は、ここで一旦言葉を()める。  そして冷然と言い放った。 「(どたま)かち割るェ? 覚えときィ」  私は、未だ校庭に尻を付いたままの縮緬式部に向かって三十度の立礼をし、ゆっくりと歩き出した。  行く手に広がる、金緑(かなみどり)に輝く新芽が芽吹いた茶畑と(ブナ)の森から、(ウグイス)(さえず)りが一つ、二つと聞こえて来る。  見上げれば、花浅葱(セルリアンブルー)――私の瞳と同じ色の立夏の空が、広がっていた。 参  月城國(つきしろのくに)には、『天使』と呼ばれる職業が在る。  原義は、天津神(あまつかみ)末裔(まつえい)たる天子様の使者・使用人・奉公人と云ったほどの意味であり、此処から転じて、公に奉じる役人を指す言葉として広く用いられていた。  士郎さんは、月州(げっしゅう)三郡二十四郷の治安維持の任に奉じる――平安の昔には、検非違使(けびいし)と呼ばれた――『非違天使(ひいてんし)』の職に就いていた。  お江戸で云う処の、警察官と検察官の役割を担っていると、いつか習った事があったが、お江戸どころか畿内の近隣諸國たる山城(やましろ)大和(やまと)にも行った事が無い私にとっては、なんのことだかサッパリである。  (しか)し、(あこが)れる。  一日の公務を終え、ご帰宅される士郎さんは、眩しいくらいに荘厳(グレイスフル)であった。  さて、そんな士郎さんの位階は、三十五歳にして義天使(ギテンシ)。  二階級下の智天使(チテンシ)でもって定年を迎える(かた)も大勢いらっしゃると聞くから、尋常ならざる速さで昇進されていることが(うかが)える。  此れは、畿内の諸國を見渡してもほんの数名しか存在しない、『撃剣(しち)段』の段位を有する剣の達人であることが、やはり大いに関係しているに違いない――と、私は、常々思っていた。  その疑問を尋ねてみたことがある。  私が、『財団法人連邦撃剣連盟』から『撃剣()段』の免状を授与された日だから、十三歳に成って間もない皐月(さつき)の頃――。  今から丁度、一年前のことであった。  私は、新緑が眩しい(ブナ)の森を抜けながら、その夜の会話を想起する――。 *** 「はァ? 月州は、法治國家(ほうちこっか)やねンでェ? 御維新(ごいっしん)から早や四半世紀――今や、連邦は東亜(とうあ)随一の文明國や。剣の巧拙(こうせつ)で役人の出世が決まってたまるかいな? そない物騒な國、六畿八道六十九カ國中探したかて、あらへんわい」  士郎さんは、一笑のもとに私の問いをバッサリと斬り捨てた。 「へ? そやったら士郎さん、どないして義天使さんにまで昇進しはったん?」  私は、一驚(いっきょう)に喫すると同時に、大いに惑う。  非道(ひどう)の限りを尽くす暴戻(ぼうれい)なる賊どもをバッタバッタと誅戮(ちゅうりく)し、栄達の階段をトントントーンと駆け上がった――と金剛石(ダイヤモンド)より固く信じていたのだ。  それを口にするや、 「葵、バッタバッタにトントントーンって……お前の頭ン中、戦國か? ええかァ? 捕った首級(くび)の数で(えら)なる仕組みと(ちゃ)うねんでェ? 『敵は、天使庁にあり!』とか云うて総監の椅子(ねろ)たりとか、よおしィひんで?」  士郎さんは、私を呆れ貌で見つめながら、美濃國(みののくに)から出た英傑の事績に(たと)えてチカライッパイ揶揄(やゆ)すると、不意に、表情を改めた。 「あんなァ、葵――。確かになァ、乃公(おれ)はァ、若い時分、剣の腕ェ買われて、『天使抜刀隊(てんしばっとうたい)』云う仰々(ぎょうぎょう)しい名前の部署で、(くさ)外道(げどう)ども、それこそバッタバッタと取り締まる仕事、就いてたことあんねャ……。あんときは、しんどい現場(ヤマ)ようけ続きはってなァ……褒章(ほうしょう)金もろたこともあったし、三途の川ァ、渡りかけたこともあった」  士郎さんから、そんな昔話を聞くのは、初めての事であった。 「三途の川……って、ええっ……?」  私は、思いがけず絶句する。  士郎さんの中段の構えは、次元が違う。  普通の技倆(うで)では、踏み込みようが無い。  仮に踏み込んだら、文字通り瞬殺される。  其の士郎さんが死線を彷徨(さまよ)ったとなると、凄まじい修羅場であったこと疑いない――。 「傷は浅かったンやけどなァ、其所(そっ)から黴菌(ばいきん)入り込みよったらしねン」  士郎さんは、他人事みたいに語り出した。  背にも胸にも腹にも、そんな傷跡は見たことが無い私は、「ええっ?」と短く叫ぶ。 「其れが元で、心ノ臓やら肺やら、みるみるうちに、あかんようなってしもてなァ。気ィついたときには――云うても、意識あらへんねんけどなァ――危篤(きとく)状態やったらしィわ。薫子(かおるこ)さんには、ほんまに心配かけよった。ああ、葵。そないな貌しィな? 全部(ぜェーんぶ)、済んだ話やねンで?」  士郎さんは、眩しそうに目を細めた。  私の白金色の髪が、(あたか)も日輪の光でもあるかのように。 「葵に云いたいのンはなァ、そないな斬った張ったと世渡りとは、全くの別物(べつもん)やァ云うことや――身も蓋もあらへン云い方しよるとやなァ、(すべから)く、学問。平たく云うたら、勉強やなァ」 「勉強?」  修羅場から一転、意外な状況で聞く『最も身近な言葉』に、私は、花浅葱(はなあさぎ)の瞳を丸くする。 「せや、勉強――。そやなァ、(たと)えば……連邦憲法」  東亜(とうあ)初の近代憲法が施行されたのは数年前、明慈二十三年(基督(キリスト)歴一八九〇年)の事である。 「連邦臣民は、(やわらぎ)(もっ)(たっと)しと()し、(さか)ふること無きを(むね)とする?」  私は、偶々(たまたま)其の日の授業で習った(ばか)りの条文の一つを(そら)んじてみせた。  周囲からは、多分に『撃剣馬鹿』と視られている――其の評価は正鵠(せいこく)を得ている――私で在ったが、学業成績自体は、けっして悪くは無い。  いや、(むし)(すこぶ)る良い。  初等科以来、成績は、甲、乙、丙、丁、戊の五段階評価で、全て甲である。  不思議なことに、私は、教科書でも地図でも年表でも、一度(なが)めれは全て覚えてしまうし、先生のお話も一度聞いたことは、難解な聖勅(セイチョク)はもとより、お江戸の治安維持機構の名称と云った蛇足まで決して忘れない。  きっと神様が、異形(いぎょう)の捨て子を憐れみ、人様より少々上等な記憶力を授けて下さったのだろう。 「おお、流石(さすが)やなァ。その憲法に始まり、この月城(つきしろ)の天使法、刑法、神祇(じんぎ)法……そこらへんをな、試験の度に問われる。法の番人として当然やな? せやけど此れがやなァ、子供(ガキ)の時分なら()だしも、三十路(みそじ)半ばの大酒飲みには、正直、しんどい。ほんま、葵が(うらや)ましい」  そう云うと、士郎さんは、ニッと笑うや酒杯をぐびりと干した。 「此の昇進試験、通らへんかったらなァ、義天使(ギテンシ)はおろか、智天使(チテンシ)にかて上がられへん。これが、現実やァ」  非違天使には、総監以下、愛・忠・勇・仁・義・礼・智・信の位階が厳に定められている。  儒教の思想がその背後にあるのは明白だが、天使総監の次に高い位階を『愛』としている辺り、発案された方は、意外にも基督(キリスト)教への造詣(ぞうけい)が深かったのかも知れない。 「うはァ……天使さんって勉強漬けやねンなァ……せやけど、士郎さん、撃剣(しち)段やンか? なんか、こう、ほら? そこら辺、配慮とか、忖度(そんたく)とか……あらへんかったのン?」  『撃剣原理主義』とでも云うべき心理状態――いや、此れは既に信仰か――にどっぷりと、骨の(ずい)まで、徹底的に(つか)っている私は、剣の技倆(うで)が世の中の尺度では無いとする士郎さんの言質(げんち)に納得がいかず、前のめり気味に食い下がる。 「お前、忖度って……あんなァ」  此の口さがない娘は、いったい何処でそんな言葉覚えやがった? と云わんばかりに、士郎さんは、細く整った鼻に小皺を寄せ、又もや呆れ貌を浮かべる。 「昇進試験では、特段考慮せん云うたはったで? 剣の方は、給金とは別に技倆手当(もろ)たはるしなァ……。位階昇進は、職務遂行能力の『考課』の結果が全てや。ある意味、至極真っ当で公平な競争社会、云うことやなァ」  其の清々しいまでの断言ぶりに、私は、士郎さんは、足腰が強いのだと、改めて思った。  激務の合間に時間を作り、私に稽古を付け、そして、恐らくは私が寝ている時間に凄まじい量の法律関係の書類と向き合う――。  その粘り腰は、幼い頃からの剣の修練で培った克己(こっき)の心が支えているに違いない、と撃剣原理主義が、またもや()りずに頭を(もた)げる。  しかし、其所(そこ)まで凄まじい努力をして、昇進に(のぞ)む理由は、何なのだろう。  士郎さんは、長い睫毛で縁取られた二重の瞳で私を(しば)し見つめると、私の内なる疑問を察したのか、言葉を続けた。 「門閥(もんばつ)や家格は一切関係のォて、努力した(もん)が、相応に身を立てることが出来る。その逆もまた真――。葵、今の世の中、矛盾は、ぎょうさん在るし、義憤(ぎふん)に駆られることも、ようけ在る。せやけどなァ……この仕組みだけは、有難いこっちゃァと、乃公(おれ)は思てるのンやァ」  士郎さんは、過ぎし日の光陰(こういん)を追うかのように、宙の一点を見つめた。  士郎さんが、月城守(つきしろのかみ)の近習を代々勤める柏木家に生を受けたのは、御維新(ごいっしん)の十年前、安正五年(基督(キリスト)暦一八五八年)の事だと云う。  此の年は、西洋列強と旧幕府との間で条約が、相次いで締結された年でもある。  即ち、旧体制下で武門の家に生まれ、教育を受けると共に、旧い社会が自らを清算して近代國家へと変わり行く様を目撃した――そして、翻弄(ほんろう)された――最後の世代であった。 「乃公(おれ)には、此の仕組みを引き継ぎ、あわよくば、より良いモノに変えて、あとの世代へ伝える義務がある……。それが、新しい世の士分の責任や。それが、乃公の武士道や。その為には、(えら)ァなって、自分の意見通せるよう成らなァあかん……。考えてみィな、葵? 文明開けし世ォ云うたかて、(いま)だ女は、男の道具、従属物やろ? そんなん、おもろない。そないな狭い了見、変えてかなァあかん。そない思てるのンやァ――どや? ちょっとかっこええやろ?」  照れ隠しなのか、士郎さんは、(おど)けた口調で、余計なひと言を添えた。  恐らくは、言葉に節度が足りない――とは、大いに自覚している――私が、 「また大酒飲みが、大風呂敷(おおふろしき)、広げたはるわァ」 などと韻を踏みつつ混ぜっ返すことを期待しての発言だと思われたが、思春期真っ只中の私は、新時代にあって――様々な特権を失ったにも関わらず――尚も武士(サムライ)としての立ち位置を模索(もさく)し、向き合おうとする士郎さんの清冽な姿に感じ入ってしまい、 「うん、めっちゃ、かっこええ……」  と素直な心情を発露したきり、言葉が出ない。 ――あかん、此処は突っ込むとこやった!  (にわか)に黙り込んでしまわれた士郎さんの前で、「やってもうた」と逡巡(しゅんじゅん)していると――。  鰹節に茗荷(ミョウガ)生姜(ショウガ)をたっぷり乗せた木綿豆腐、海老芋とお揚げさんの炊いたん、水茄子の塩()みなどを載せた盆を手に持った薫子さんが、居間に立ち現れた。 「はい。お待たせしました」  (くりや)で機を(うかが)っていたとしか思えない、(まさ)に絶妙なる頃合い、間合いを見計らっての登場であった。  (たと)えばこんなとき――細やかな気働きをさり気なく(こな)す薫子さんに、私は、天壌(てんじょう)に通じる無窮(むきゅう)を見る。 「おおきにィ、こらまた美味(うま)そうやないか」  やれ助かった、と云わんばかりに、士郎さんは照れたような笑みを浮かべるや、早速箸をつけて好物の水茄子をポーンと口に入れた。 「何のお話しですか? ケンポーとか、ブシドーとか、聞こえて来ましたけど?」  普段は黙って、(とき)に笑いを(こら)えながら、士郎さんと私の撃剣漫談を聞いている薫子さんであったが、その日は、箱膳に(さかな)の鉢を据えると、涼やかな声音で会話に加わって来た。  娘時代をお江戸で過ごしたと云う薫子さんは、美しい帝國標準語を操る。 「ええと……天使さんって、めっちゃ大変やねんなァ、云う話しててン。連邦憲法とか、法律をなァ、ぎょうさん覚えなァあかんのンやって……。うち、剣の腕さえあれば(えら)ァなれる思てたから、びっくりやわァ。ほら? 武士道で云わはる克己心(こっきしん)? それがなきゃ、(とて)も務まらへンお仕事やねんなァ……って、話てたとこやのン」  要約しつつも、士郎さんの秘めたる武士道への言及を避けたのは、『武士の情け』であることは云うまでもない。 「あら、克己心――葵、当節、中々聞かない言葉ですよ?」  薫子さんは、そう云うとクスリと笑った。  年齢は、士郎さんの三つ下の筈であったが、そんな表情をすると随分と幼く見える。 「葵ったら、どんどん難しい言葉、覚えて行くのね……。士郎さん、此の間なんか此の子、ケンシンイチニョって、寝ながらブツブツ呟いて――」 「え? 嘘? ホンマに?」  薫子さんの告白を、私は頓狂(とんきょう)な声で(さえぎ)る。 「薫子さん、剣心一如か? 寝ても、覚めても、云うやっちゃなァ……葵の方が、乃公(おれ)より余程(よっぽど)勉強熱心やないかァ?」  二人は、お互いのことを下の名に「さん」を付けて呼び合う。お互いを最大の理解者として、尊重しあっているのだ。  (たと)えばこんなとき――心中に広がる甘酸っぱい細波(さざなみ)と共に、誰かと斯様(かよう)な信頼関係を築く事とは、私は生涯無縁であろうと云う諦めにも似た感慨を抱く。  金髪碧眼の私を相手に真に心を開く者など二人の育ての親以外、存在する筈もない。  そして更に突き詰めて――(ばく)とした思いに、私は、囚われるのだ。  私は、何の為に生まれ、この先、何の為に生きて行けば良いのだろうか、と。 「でも、克己心――本当に……葵の云う通りね」  薫子さんは、小さく何度か肯く。 「葵――。一年で一番寒さが厳しい(かん)の時分に、特に『寒九(かんく)』の日には、わが家ではユキウサギを作るでしょう?」  ユキウサギとは、南天の翠色の葉を耳に、赤くて丸い実を目に見立てて雪団子に刺してこさえた兎のことである。 「昔の武家ではね、そんな寒い日に敢えて火鉢(ひばち)も無い部屋で、お裁縫(さいほう)やら手習いやらをわざと普段より刻をかけて、子供らにさせたものなのですよ」  薫子さんは、()る旗本家のお生まれである。   「燈籠(とうろう)に降り積もった、(けが)れのない雪を、日の出と共にお庭から取って来てね、それを(すずり)に溶かして墨をするの……。筆のあやには心の乱れが直ぐ現れるでしょう? 耳も指先も千切れるくらいの寒さに耐えながらね、ひと筆、ひと筆に心を込める……こうして己を練り、克己の心を鍛えたものなんですよ。其れが、云わば『女子の武士道』ね」  娘時代を懐かしむように語るその貌は、観音様のように壮麗(グレイスフル)である。 「女の子も、切腹(せっぷく)の仕方とかァ、習わはったのン? 薫子さん?」  女子の武士道と聞き、思わずそんな問いを発してしまう撃剣馬鹿の私である。 「女の子はね、お腹ではなくて、懐刀(ふところかたな)でこう――」  薫子さんは、頸元を刺すような動作をしてみせた。 「(はずかし)めを受けたとき、或いは、身を賭して何事かを為すとき――そんなときの為にね、幼い頃から作法を仕込まれたわ。当時はね、女子の(たしな)みとして……」  薫子さんの瞳は、一瞬、遠くを見るような眼差しになった。   「文明開けし当節には、もう必要ないことですよ……。葵、あなたには、剣の修練で培った強い心がある。その心を信じて、いろんなことに挑みなさい。きっとその先には、いろんな壁が立ちはだかることでしょうね。でも、大丈夫。あなたが信じた道を、突き進みなさい。あなたなら、どんな壁だって斬り開ける。だって士郎さんの娘、天使の娘なんですから」  薫子さんは、私の中に澱のように沈殿している、  ・諦め  ・引け目  ・迷い と云った感情を千里眼でもって見透かしたのか、右掌で作った手刀で力強く――そう、力強く――空を斬った。 「柏木(かしわぎ)葵 撃剣弐段 右授与する」  薫子さんは、私の膝から厚い奉書紙に書かれた免状を手に取ると、其の文言を読み上げ、何時(いつ)までも嬉しそうに眺めていた。 ***  森を抜けると一気に視界が開け、眼下に広大な湖が広がった。  花浅葱(セルリアンブルー)の空を映した水面(みなも)は、立夏の陽に(きら)めき、(わず)かに湿り気を帯びた沢風(たくふう)が、私の頰を優しく(なで)上げる。  不意に、薫子さんの貌を早く見たくなり、その凛とした声音を早く聞きたくなり、私は、堅香子(カタクリ)が咲きみだれる野道を一気に駆け下りた。
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