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第弐話 南天の文
壱
「俯仰天地に愧ぬ」と全身全霊で誓うことが出来るとは云え――転入初日に朱雷を放ち最上級生を刈り倒した事は、どう控え目に表現しても『事件』に違いなく――明日、登校早々に指導室に呼び出され質問攻めに遭う事は、必至と思われた。
――悪目立ち、してしもたやろかァ?
自らの行為を省みながら、私は、『事件』に伴って生じたドロリとした胸の痞えを持て余す。
――けったいな御嬢様やったなァ……
縮緬式部との戯れで荒みきった心を薫子さんとのお喋りで癒そう。
斯様に決意し門を潜った私であったのだが――意外にも官舎は、無人であった。
――買い物でも、行かはったんやろか?
今日は、私の十四歳の誕生日――即ち、士郎さんと薫子さんに拾われた日から太陽暦で十四周年を迎えた日――である。
今夜は街に出て三人で食事をしようと話をしていたから、夕餉の買い出しとは思えない。
「新任科長とその家族――。貌と名前覚えて貰てた方が、何かとやりやすいこともあんねャ。せやからまァ、公務の一環ちゅうことやなァ。葵、またぞろお前の可愛らしい貌、ジロジロ見て来はる連中居たはるかも知らへんねンけどォ……堪忍やでェ? その代わり云うたらなんやけどなァ、牛鍋でも鰻でも、何でも葵の好きなもんご馳走したはるさかいになァ」
とは、昨夜の士郎さんの弁であった。
――薫子さん、どないしはったンやろ?
肩透かしを喰らった心持ちで見上げる我が家は、転居二日目と云うこともあり、なんだか他人行儀な貌で私の前に無言で立ちはだかっている。
屋敷は、馬牛車専用の路帯が整備された広い通り沿いに建ち、直ぐ斜向かいに士郎さんの新たな職場である『月城國非違天使葛城屯署』の赤煉瓦造りの大きな建物が見える。
「薫子さーん、帰りましたー」
今一度、帰宅の挨拶を述べた私は、無人の家に上がると紺地に三本の白線が配われた水兵襟が可愛らしい上衣と、幾重も襞が入った膝上丈の洋袴を脱ぎ、固く絞った濡れ手拭いで体の汗を拭いてから洗濯したての白衣と花浅葱の馬乗袴に着替えた。
私は、本赤樫で造られた愛刀を手に縁側から百坪ほどの広さがある庭へと出る。
――苗でも買いに行かはったンやろか?
國府の官舎の其れとは、比べ物に為らないほど広い庭を目の当たりにして「土いじりが、出来るわねェ」と喜んでいた薫子さんの横顔を思い出しながら、私は、門の側の南天の木の前に立つと一礼し、中段の構えから愛刀を頭上に大きく振りかぶった。
コガネムシから始まった一連の騒動で高揚した気持ちを落ち着かせるべく、素振りでもしようと考えたのである。
そして程なく――私は、ある異常に気が付く事になる。
弐
南天には、「難を転じて福と成す」霊力があると古くから信じられており、月城國では、玄関脇に或いは鬼門にあたる方位に此の灌木を植えている家を多く見掛ける。
此の南天の傍らで剣の修行に励むのは、幼い頃から続けている私の日課である。
――せい!
呼気と共に左足を強く蹴り出し、前方に跳躍すると同時に木刀を勢い良く振り下ろす。
続けて、今度は右足を蹴り出して体を後方に運びながら、再び木刀を振りかぶる。
この《跳躍素振り》を先ずは千本程やろうと算段した其の時――私は、ふと或る事実に気が付いた。
南天の枝に、まるで御御籤のように真新しい奉書紙が結ばれて居ることに――。
――なんやろ? これ?
私は、訝しみつつ件の枝に近づくや、背伸びをして手に取った奉書紙を開き、書かれた文面を声に出して読み上げた。
謹而薫子殿御身御預カリ致儀申述候
然ル上ハ賀茂社奥ノ院ニ御来シ下度候
尚本儀他言可為停止被遊候
一八九二年皐月吉日
葵殿江
真蛇
薫子さんが、真の蛇を名乗る何者かによって、拐かされた――?
――へ?
賊は、此の曲事を告げると共に、大胆にも私を奥ノ院とやらに呼び出すべく、文を南天の枝に結び付けた――と云う、奇天烈な事象が留守の間に巻き起こっていたことを私は、理解した。
――嘘やん? ほんまにィ?
参
時刻は、間もなく午後四時――。
立夏の日輪は未だ中天に在り、的皪たる光が、南天、五葉松、次郎柿、二葉葵と云った庭の樹木たちを眩く照らし、その輪郭を白々と五月の大気に浮かび上がらせている。
私は、心の中で「不動心、不動心」と唱えながら、手にした文を今一度、観察する。
すると、幾つかの事柄が、忽ち気になり出した。
【疑問点・壱】
此の文は、端正かつ、山間の渓流の如き瀟とした筆致で書かれていた。
――筆のあやには心の乱れが直ぐ現れるでしょう?
とは、奇しくも先刻、想い起こしていた薫子さんの言葉で在る。また、薫子さんは、こうも教えてくれた。
――文字には、人柄が出るのよ?
この書からは、此れから非違行為に及ばんとする外道の手とは思えぬ、香り高い品が匂い立っているように、私には、感じられた。
また、表現上の特徴を挙げるとすれば、仮名が極端に少ない。
其れに加えて、
・謹而~申述候
・可為停止被遊候
と云った慇懃かつ洒脱な云い回しが、妙に浮いていて、鼻につく。
此の二点から、教養の高さが、もっと穿てば、事態を面白がっているような諧謔が、透けて見える気がした。
――士郎さんあたりの、悪戯やろか?
そんな風にも、思えてしまう。
悪戯を仕掛ける理由は、全く不明だが。
【疑問点・弐】
一八九二年とは、基督歴、即ち救世主たる耶蘇様が生まれたとされる年を紀元とする紀年法で表記した本年のことである。
然し、この表記の仕方は凡そ一般では用いられない。
市井の生活では専ら、連邦政府が御維新に際して定めた元号である『明慈』が使われている。
私が知っていたのは、基督教系の学校に、先月まで通っていたからである。
牛鍋は普及しても西洋の紀年法は、其の存在すら知らない人が、大半なのだ。
【疑問点・参】
此の文は、南天の木の枝に、わざわざ結ばれていた。
私に確実に読ませたいのであれば、玄関の三和土にでも放り投げて置けば、事足りると云うのに。
否、寧ろ其の方が自然では無かろうか? 周囲は、非違天使と其の家族が住まう官舎だらけなのである。
門の傍とは云え、大通りに面した他家の庭に断り無く忍び入り、文を枝に結ぶ――随分と危ない橋を渡ったものである。
しかも何故、南天の木なのか――?
五葉松でも、次郎柿でもなく、南天なのだ。
其れとも、意味など無いのであろうか?
「蛇に、南天、基督教……」
そう、声に出して読み上げてみる。
基督教で蛇と云えば、『創世記』に登場する亞富と荊を誘惑し、善悪の知識の樹の実を食べるよう勧めた《楽園の蛇》を真っ先に連想するが、この文の主たる「真蛇」と関係あるのだろうか?
私は、疑問の数々を胸にしまい込むと、本赤樫の木刀を握る手に力を込めた。
――行かねば、なるまい
無論、賀茂社の奥ノ院とやらにである。
正直、半信半疑である。
然し、士郎さんの悪戯と断じ、捨て置く訳にも行かぬ。
――大丈夫。あなたが信じた道を、突き進みなさい。あなたなら、どんな壁だって斬り開ける。だって士郎さんの娘、天使の娘なんですから
先ほど回想した薫子さんの言葉が、再び、膨らみ始めた小さな胸に去来する。
愛刀を手にした私は、玄関に回り、真新しい地下足袋を一足、袂にねじ込むや、冠木門を潜る。
そして、陽に燦めく湖の畔に立つ朱色の大鳥居を目指し、歩を進めた。
時刻は、丁度午後四時――。
遠く、観音堂から夕方の勤行の始まりを告げる釣鐘の音が、聞こえて来た。
私は、頭上を仰ぎ見る。
雲ひとつ無い、泬寥たる立夏の空は、未だ碧い――。
肆
低い轟きが、次第に近づいて来た。
橅と楢の古木の間を縫うようにして敷かれた、石畳と呼ぶよりは、いっそのこと苔畳と表現した方が相応しいと思われるほど、苔が生し、葛と堅香子が生い茂り、二葉葵の群生に覆われた――とどのつまりは寂れきった――古道を慎重に登り詰めると、不意に水が、香った。
開けた視界いっぱいに花崗岩の壁が迫り、崖の中腹に在る岩肌の裂け目からは、霊水が勢い良く迸る。
硝子質の粒子の如き淡き清水は、程なく落差三丈(約九メートル)程の直曝を成し、轟きを聖域の杜に残して滝壺へと流れ落ちていた。
私は、瀧見小屋が立つ広場から、真白き水煙が立ち込める深淵へと至る参道を歩き続け、淵を臨む岩場の片隅に佇む、柿葺の小さな社務所の前に辿り着くや、漸く足を止め、一息ついた。
――ふう
深く、呼吸をする。
そしてつい先刻、『六尺神職』より聞かされていた其れの存在を認めるや、間を置かずに名乗りを上げた。
「非違天使柏木士郎が娘、柏木葵。南天に文を預かり、その意を得、参上仕った――ほな、薫子さん、トットと連れて帰りますよってな? 宜しおますやろなァ?」
所懐を、敢えて前段は古式ゆかしく、後段は、商家出身の後妻さんの如き挑発的な物云いで申し述べた私は、挙措を改め、立礼する。
角度は、十五度。
目線は、相手から外さない。
そして徐に、手にした本赤樫の木刀を中段に構えた。
社務所の正面――水煙が立ち込める岩場に立つ其れの喉元の中心に向かって、切っ先を向ける。
鬼女の能面――『真蛇』を被った其れが、瀧を背に立っていた。
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