例えば蛸型火星人の成り立ち

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その始まりは、厄介な病気からだった。  患者は皆、手足が自分の意思と関係なく動く、という奇妙な症状を訴えた。 最初は痙攣する程度だったそれは、年月を経るごとに勝手に物を触る、掴む、と言った具合に進行していった。  仕舞いには、頭で考えなくても文字を書く、絵を描く……といった複雑な試行をこなすまでになった。エイリアンハンド症候群、の名で知られるその症状は、それまで脳卒中などに伴う神経の異常によるものだと考えられていた。しかし、同時多発的に患者が増えたことによって、この症状の原因がそれだけでは無いことが明らかになった。  生き物の意思決定をする器官は脳だけでは無いというのは、近年では広く知られた学説である。それを裏付けるかのように、臓器移植や輸血が性格の変化をもたらすという事象も報告されている。  酒を飲んで何も覚えていないのに、記憶が飛んでいる間も体は止まること無く活動していた。  あまりに疲れて殆ど意識が飛んだ状態で仕事をしていたのに、作業は問題なくやり遂げられていた。  その程度の経験なら覚えがあるという人は少なくないだろう。 つまり、人間というのは元々、全身でものを考える生き物なのだ。要するに今回の事というのは、その中で手足の考える割合が少しだけ増えた、と言うだけのことだ。  これは病気では無く人類の進化による物である、と公に発表されてからは早かった。勝手に物を考え、最適な動きをする手足は殊の外便利な物だった。脳で考えるのとは違い、余計な感情に振り回されることも無く、最も効率的に動く。いつしか人類は脳で考える領域を減らし、手足の考えに依存していった。  そんな生き物がこれまでのように巨大な大脳を維持しておける筈も無く、世代を経るごとに急激に脳は小さくなっていった。それと反比例するように腕や脚は長くなっていき、今や小さくなった胴体や頭部は足と腕だけで支えられている状態だ。  そのうちに指は太く長くなり、まるで腕の先から5本の新たな腕が生えているかのようになった。その腕のようになった指の先が徐々に枝分かれし、また指のようになり……それが繰り返されて、今や何処までが解剖学的に見て「腕」と呼べる器官なのか、一目で判別するのは難しい。飾りのような頭部からは、視覚情報だけは他の器官で補うことが出来ないためだろうか、眼球だけが肥大化し、常に辺りを見回している。  その姿はよく知られたある生き物に似ていた。そう、蛸だ。  すっかり陸を行く蛸と化した新人類は、その後も腕が導く最善の選択を選び続けた。その結果、人類の更なる発展と地球資源の存続の両立のためには、地上すべての新人類の、宇宙への移住が不可欠と判断された。  大脳が退化する前の旧人類であれば、名残惜しさや未知の土地への不安から、その選択は取らなかっただろう。だが感情に振り回されることのない新人類の決断から実行までは、実に迅速だった。  選ばれし新人類は、僅かに残った旧人類を地上に残し、宇宙へと旅立った。 そして彼らは、テラフォーミングした火星から地球を見守り、電波を通じて旧人類の無意識に働きかけることで、地球資源が枯渇しないよう、ギリギリのバランスを保っている。  それが、我々地球人の書物に登場する、火星人と呼ばれる種の始まりであることは、今ではあまり知られていない。  それどころか旧人類、いや地球人は自分たちが彼らに生かされていることを忘れ、彼らの存在を疑問視するようになった。これを知る最後の地球人である私がこの地上から消えた時、彼らの存在は、レトロなスペースオペラの中の虚像となるのだろう。 ただ、自身の立場を忘れるような地球人に活路無しと判断した彼らは容赦無く地球文明を滅ぼすだろうから、そんな物語すら残らないかもしれないが。
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