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第一話 逃げたらあかん、あかんねン
序幕
かくてイエスは、云った
「父よ、彼らをお赦し下さい……
なぜなら、彼らは何をしているのか
わからないからです」
(路加の福音書第二十三章三十四節)
【武利天語原文】
Jesus said,
“Father, forgive them,
for they don’t know
what they are doing.”
一
帝紀二六七六年十月十八日――。
甘い薫りをともなった神無月の風が、
Ⅰ 未読の郵送物と定期購読紙
Ⅱ 謄写された刑事記録
Ⅲ 推敲前の保釈申請書
Ⅳ もはや整理を諦めた白亜紀以来の化石達
と云う名の峻厳たる山嶺――俗にいう書類の山――を吹き抜け、弁護士Kの鼻腔を微かにくすぐった。
帝国司法支援センターから受諾した『国選』の事案を意味する【〇】の中に、【帝】の文字が鮮やかな朱色で印字された一冊のファイルを引き抜いた弁護士Kは、ページを手繰る手をいったん休めると、窓外に視線を送った。
その先に、彼女の名の一文字を由来とする街路樹が、数本立ち生えているのが見える。
いつの間にやら咲き出した淡黄色の可憐な花が、ほの甘い芳香を初秋の大気に放っていた。
弁護士Kは、外の景観から手元へと再び視線を戻すと、ヌーディー・ピンクで彩れた指先で『弁二〇三号調査報告書』をめくり、そこに掲載されている一枚の画像に注意を向けた。
透明感のあるマロン・グレージュのショートボブがよく似合う美しい女性が、四、五歳と思しき愛らしい幼児と、小学校中学年ほどの利発そうな貌立ちの児童とを両腕を回すようにして抱きしめながら、長い睫毛で縁取られた二重の瞳でカメラを見つめ、穏やかに微笑んでいた。
女性の年齢は、備考欄に記載されている個人情報によれば三十四歳。
薄化粧の貌は、然しながら、せいぜい二十代半ばほどにしか見えなかった。
この画像がソーシャル・ネットワーク・サービス『FacehooK』に投稿されたのは、事件当夜からおよそ半年前の四月二日。
タイトルから花見の席での一枚と知れた。
暫しその画像に視線を留めていた弁護士Kは、やおら受話器に手を伸ばすと、一連の番号を押し始めた。
「今日こそは、繋がってくれ」と念じながら。
二
午前九時――。
冷蔵庫の上にポツンと放り出されていたかあさんのケータイが、『月光第三楽章・ロックヴァージョン』を賑やかに奏で始めた。
ギンは、鶏卵を割り落としたフライパンに少量の水を回し掛け、弾けるように立ち上がる蒸気を閉じ込めるべく素早く蓋をすると、ケータイの液晶画面に視線を走らせた。
そこに発信者の名はなく、十桁の数字の羅列が表示されているのみだった。
即ち、電話帳に非登録――かあさんにとって見知らぬ相手、或るいは知ってはいても、わざわざ話などしたくもない相手――の番号と云う訳だ、とギンは得心した。
かあさんの電話嫌いは昔からであったが、とうさんと別れてからと云うものその傾向がいっそう顕著に、いや、ギンが思うに『凶暴化』していた。
ひとたび非登録の番号――その番号は、
・とうさんのケータイとか
・とうさんの勤務先とか
・とうさんの馴染みの居酒屋さんとか
……即ち、十中八九、電話を掛けて寄こしているのは、とうさんと推察された――から着信しようものなら、
「問答無用! 斬り捨て御免!」
と、武士のように勇ましく宣うや『拒否』ボタンを、
「成敗!」
と、暴れん坊の徳川八代将軍の如く言い放ち押してしまうのである。
これまで何度か、その『無礼討ち』の大任をかあさんより仰せつかり静々と代行した事のあるギンであったが、この朝は違った。
(ああ、きっと大切な電話やァ……絶対出なァあかんヤツやわァ)
理由もなく――不思議なことに、微塵の疑問もなしに、まるで何かに突き動かされるように――そう確信したギンは、IH調理器からフライパンを降ろすと、浴室へと走った。
いつか授業で習った『虫の知らせ』って、こんなンやろかァ? と思いながら。
「かあさーん、かんにん。電話ァー」
「んー? 誰からァ?」
五つ下の妹と『魔法少女アッキーナ・スプラッシュZ』の主題歌を歌っていたかあさんは、のんびりとした声音で問うてきた。
夜勤明けの朝風呂は、かあさんの至福のひとときなのだが、今朝はユキポンがそこに文字通り『身一つ』で飛び入り参加し、宴もたけなわの盛り上がりをみせている。
譬えばこんなとき――自分の気持ちに正直に『全力』でかあさんに甘えることが出来る妹を、ギンは、羨ましく思ってしまう。
「んー、わからへンけど……かあさん、これだけは、この電話だけは、切ったりしンとォ出た方、ええ思う」
ギンの真剣な物云いに感じるものがあったのか、間もなく浴室の折戸がガラリと開き、かあさんの白くてほっそりとした右腕が、ニュッと伸ばされた。
「ふーん。ギンちゃんが、そない云わはるのンやったら……そやったら、しゃーないわ、出たろやないのン」
ケータイを受け取ったかあさんは、ギンの左頰に素早くキスをすると、折戸を閉めるや、浴室の中で会話を始めた。
ジャボンっと音がしたから、湯舟に再び浸かったのだろう。
「はァ? 弁護士……さん? なんやのン、いまさら……」
折戸越しに、警戒心に満ちたかあさんの声が、漏れ聞こえて来る。
(へ? 弁護士さん?)
ギンは、テレビの中でしか聞いたことがないその単語に、耳を欹てた。
三
「はァ? 弁護士……さん? なんやのン、いまさら……」
元妻Aの口から出るのは、柔らかな響きの西の言葉であったが、その声音は硬く、警戒心という名の鎧と猜疑心という名の刺で覆われていた。
この反応は、至極当然のように思われた。
突然、別れた元夫――被告人X――について話をしたいと、弁護士を名乗る見ず知らずの女から電話が入ったのだ。
「身構えない方がおかしい」、と弁護士Kは思った。
「三カ月前に『協議離婚』が成立している事、御子様たちと元ご主人との『養子縁組』が解消されている事は、承知致しております。実は……元ご主人は、現在、或る『刑事事件』の被告人として勾留されておりまして……。本日は、その件でご連絡させていただきました」
「刑事事件? 被告人? アイツが――?」
訝しむ声音による立て続けの問い、そして訪れる沈黙。
その先にあるのは、驚きか、蔑みか、あるいは『振り込め詐欺』を疑ったか。
この時点で、弁護士Kは、警察そして検察が未だ元妻Aと接触していないことを確信した。
だが、同時に疑念を抱く。
遅いと――。
「はい」
弁護士Kは、元妻Aの問いにそう短く応じると、所属する弁護士法人の名称と自らの名を、今一度ゆっくりと復唱した。
「ちょ、ちょっとだけ待ってくれへン……?」
場所を変えるのであろうか。
そんな慌てたような返答の後、しばし音声が途絶えた――。
公判において、被告人の生育歴や家庭環境、犯行の背後にある真の動機や原因、『再犯防止と更生』に向けた周囲の協力状況やその具体的な計画……等々を明らかにし、できる限りの寛大な判決を求めることを『情状立証』と云う。
この情状立証は、家族、友人、勤務先関係者――すなわち被告人をよく知る人達――の協力なくしては、当然ながら為し得ない。
弁護人と面談し、情報を提供する。
『嘆願書』を作成し提出する。
あるいは『情状証人』として証言台の前に立ち、直接訴える……。
このような地道な行為を積み重ね、『酌むべき事情』を明らかにし、『更生計画』を明示してゆく――。
それが、『情状立証』である。
被告人Xの事件では、この『情状立証』が大いに難航することが、早い段階から予想されていた。
被告人Xには、家族や友人はなく、職場関係者は、ある理由から――彼女の優秀なる秘書曰く、「壊滅的に」――弁護士Kに非協力的だったのである。
唯一、何らかの協力を得られる可能性が、僅かにでも期待されたのが――ようやく電話が繋がった――この『元妻A』であった。
四
「ちょ、ちょっとだけ待ってくれへン……?」
浴室の折戸が再び開き、かあさんが顔をニュッと覗かせた。
「ギンちゃん、アイツ、なんぞやらかしはったみたいやのン。『刑事事件』の被告人として『勾留中』やねンて……弁護士さん、そのことで話したい云うたはるわ……」
かあさんが、アイツ呼ばわりする人物は、ホモ・サピエンス二十万年の歴史の中で、只の一人しかいない。
ギン達の、とうさんだ。
「ギンちゃん、かんにん。電話ァ、代わってくれはらへン?」
かあさんは、早口でそう囁くと、手にしたケータイをギンに押しつけるように差し出した。
「へ? かあさん……そらァ、あかんてェ。そない大切な電話に、子供が出たりしはったら……」
突然の無茶振りに驚き、正論でもって諭すギンだったが、かあさんは諦めない。
「だいじおへんェ? ええかァ? ギンちゃんの方が、かあさんより、よっぽどしっかりしたはるしィ、アイツの話なんか、夜勤明けに聞きとォおへんしィ、ユキポンいい加減、茹だってまうしィ、なァ? かあさんのフリして、ハナシ聞くだけでええからァ、優しい声しはった女の弁護士さんやからァ……」
タコでもあるまいし、まさか茹だったりはしないだろうが、最愛の妹が湯あたりでもしたら可哀想だな、とギンは、考え直した。
(それに……とうさんに、すっかり、きっちり、銀河ギリギリぶっちぎりに、愛想尽かしてしもたかあさんにとって、確かに酷な話かも知らへんなァ……)
とも思ってしまう。
こんなふうに諸般の事情を推し量ってしまう自分は、損な性格なのかもしれないな、と自虐気味に考えながら、ギンは、かあさんからケータイを受け取ると台所へと足早に移動した。
この新しい家に引っ越してきて早三カ月――。
世話好き、料理好きのギンにとって一番落ち着く場所が、ここであった。
ギンは、台所に着くなり、無線のイヤホン・マイクを装着した。
これで両手が自由になり、かあさんの『朝食という名の晩酌』――キンキンに冷えたビールによく合う、具だくさんサンドイッチ――作りを再開できる。
「かなんなァ……なにしはったンです?」
かあさんに成りきったつもりで、これ見よがしに溜め息をつきながら、ギンは、カウンターのタブレット端末を操作して検索エンジンを起動させると、ケータイに表示されていた電話番号を入力した。
ほどなく法律事務所のURLが、検索上位として表示される。
ギンは、当該ホームページにアクセスし、『所属弁護士紹介』とあるサブページを開くと、素早く画面をスクロールさせた。
六十代から二十代まで、男性五名、女性一名の弁護士先生の略歴が、顔写真付きで掲載されている。
(はァ……えらい別嬪さんやわァ……)
ページの最下段に、目的の女性弁護士のプロフィールを見つけたギンは、その画像に魅入ってしまった。
ドラマの世界から抜け出してきたような、艶やかなストレートの黒髪と涼しげな眉目が印象的な、知的美人が微笑を浮かべていた。
五
「かなんなァ……なにしはったンです?」
元妻Aの声音に、うんざりと云いたげな吐息が続く。
どうやら、話を聞いてみようと思う程度には、警戒心は緩んだらしい。声音はやや甲高いものへと変わり、口調もぞんざいさが薄らいでいる。
よい、兆候ではあったが、
「面倒事とは一切関わるまいぞ」
とする強い意志が、その些か芝居がかった溜め息から透けて見え、弁護士Kは、早々にアタリの悪さを予見した。
女弁護士は、執務机の引き出しから『ヴァージニア・エス』を取り出すと、『事件経緯』の説明を始める。
「十月五日二〇時三十分頃のことです――。帝都T区の路上で、元ご主人が運転する車の尾灯が点灯していないことに、警邏中の警察車輌が気付き、停止指示を発しました……」
尾灯の整備不良は、『反則点数一点・反則金七千円』の行政処分が科せられる。
「知らなかった」、では済まされない。
この『停止指示』に対し被告人Xは――あろうことかパトカーを振り切って――逃げ出したのである。
「やっぱり……」
弁護士Kは、元妻Aの反応に注意を向けた。「やっぱり」、だと?
「何故、そう思われるんです?」
穏やかな口調で、そう鎌をかけてみる。
「そらァ、長年連れ添った女の……勘ですわァ」
元妻Aは、やはり芝居かかった甘えたような口調で、そんな愚にもつかないことを云うと、子供のようにクスクスっと笑った。
「先ほど、『被告人として勾留中』って教えてくれはりましたから……。そないや・や・こ・し・い・話に成ってはるンやったら、どーせまた、『飲酒運転』か、『無免許運転』でもして、バレるの怖ァなって、逃げ出しはったンと違うやろかァ? それで罪が重ォなって、逮捕されはったんと違うやろかァ? って思ってたんです。昔っから、往生際が悪い云うか、ジタバタ騒いで、トコトン事態を悪化させる云うか……」
弁護士Kは、元妻Aの返答を吟味する。
「どーせまた……」と云う表現は、過去にも同様の非違行為が、常態的に為されていた事を強く示唆する。
これは、被告人Xの情状立証を行う上で、非常に『不利かつ無益』な情報であると云えた。
それにしても、「ジタバタ騒いで、トコトン事態を悪化させる」とは、事件当夜の被告人Xを見事に表現しているな、と弁護士Kは、思った。
『反則点数一点・反則金七千円』をかわぎりに、事態は、これからトコトン、容赦なく、徹底的に、悪化するのだ。
「あ、かんにん。続けたって下さい、先生」
元妻Aに促され、弁護士Kは、説明を再開する――。
六
「昔っから、往生際が悪いゆうか、ジタバタ騒いで、トコトン事態を悪化させる云うか……」
ガリマヨ・ソースを塗ったトーストに、
・ボロニア・ソーセージ
・カットレタス
・キュウリ
・スライストマト
・目玉焼き
・クリーム・チーズ
・カリカリに焼いたベーコン
・ポテトサラダ
と云った、一階のコンビニで調達した食材達を次々と重ねて行き、最後に、バターを塗ったトーストでギュッと押さえるように蓋をしながら、ギンは、
(我ながら、えらい無慈悲な物云いやなァ、でも、今までが今までやしィ……『本物のかあさん』やったら、もっとキッツイ言葉で、息の根ェ、止めにかかるに決まったはるしィ……かんにんェ、とうさん……逃げたらあかん、あかんねン)
と心の中で謝罪と訓戒の言葉を元父親へ贈った。
ギンは、百均で買ったワックス・ペーパーでサンドイッチをクルリと包み込んだ。
このまま少し馴染ませて、食べる直前に切り分ければ、断面も見目麗しい『ユキポンの気まぐれサンド』の完成である。
使用する具材を次々と挙げたのは、食いしん坊の妹ユキポンなのだ。
「あ、かんにん。続けたって下さい、先生」
「車は、一キロほど逃走した後……」
ギンは、女弁護士の涼やかな声音に耳を傾ける。
その直後――。
ギンは、事件の展開に衝撃を覚える。
七
「車は、一キロほど逃走した後、袋小路に進入し、車止めのガードレールに衝突、停止しました。車は損壊しましたが、幸い元ご主人に怪我はありませんでした」
被告人Xの『無免許運転』が、この段階で発覚する。
「頸から下げていた『社員証』と所持していた『健康保険証』によって本人確認がなされ、『運転免許停止』の行政処分が執行中であることが、無線照会により判明しました」
『無免許運転』は、当時の法律では、『一年以下の懲役もしくは三十万円以下の罰金』に処せられる。
「無免許運転の発覚を恐れ、停止指示を振り切り、猛スピードで逃走、物損事故を起こした……と推察されたのですが、どうも挙動がおかしい。脂汗を浮かべ、視線が泳いでいる……不審に思った警官の一人が、所持品の検査を試みました。他に何か、逃走を謀った理由があるのでは? と考えた訳です。ここで――」
肘から曲げた両手を挙げ、おとなしく所持品検査に応じる構えを見せた被告人Xであったが、突如、左足を強く踏み込み一歩前進すると、体幹を軸に体全体を反時計回りに捻るや、その回転によって生じた遠心力を右拳に乗せ、解き放った。
短い動作で打たれた鋭い右フックが、正面に立つ警官の側頭部、左こめかみに炸裂し、彼の意識を瞬時に刈り取った。
「こめかみは、人体の急所の一つです。殴られた警官は、脳が激しく揺さぶられ、意識不明に陥り、その場に卒倒しました」
被告人Xの身長は、一七六センチ。
特段、ボクシングや格闘技の経験者という訳ではない。
「無我夢中で、訳もわからず、殴りかかってしまった。偶然、こめかみに当たってしまった」
と供述し、『殺意』を否定している。
「お巡りさん、殴るやなんて……!」
元妻Aは、悲痛な声音でそう呟くと、絶句した。
「幸い、気を失っただけでしたが、これはたいへん危険な行為です。また、職務中の警官に対する暴力は、通常の『暴行罪』ではなく、より重い『公務執行妨害』が適用されます」
公妨事案は、『三年以下の懲役もしくは五十万円以下の罰金』が科せられる。
「警官が意識を失って倒れたのに驚き、立ち尽くしたところを他の警官らによって取り押さえられました。そして、改めて行われた所持品検査によって――」
或る『違法薬物』が、見つかったのである。
八
「イホウ……ヤクブツ?」
ギンは、茫然自失と云う言葉の生きた見本と化していた。
その視線の先――対面式カウンター越しに広がる八畳の居間――では、湯上がりのかあさんとユキポンが、盛大にドライヤーを使っている。
「はい。『セラフィム』と呼ばれる、合成麻薬です」
「へ? あの、セラフィム?」
セラフィム――。
それは、二年ほど前から帝国領内における乱用者が急増している『合成麻薬』の名称である。
つい二ヶ月ほど前に、四十代のIT企業経営者が主催したパーティーに参加した、
・二十代の男性トップ・アイドル
・三十代の清純派有名女優
・五十代の男性カリスマ・ギタリスト
らが、当該経営者と共にその『所持』と『使用』の罪で逮捕・起訴されたことから、その存在が一般にも広く知られるようになっていた。
ギンも、テレビの情報番組で何度かこの事件については見聞きしている。
(あのセラフィムを、とうさんが所持してはったやなンて……!)
お巡りさんを殴り倒したことも含め、何もかもが悪い冗談のように、ギンには思えてならなかった。
競馬狂いで
お金にだらしのォて
お酒には、もっとだらしのォて
ホロ酔い運転の常習犯で
軽薄で
考えがいっつも浅はかで
毎度ジタバタ騒いでは
事態をトコトン悪化させる小心者で――
そんな、とうさんであったが、子煩悩な一面もあり、ギンも妹ユキポンも大きな声で怒られたことは、滅多に無かった。
それ故、『公務執行妨害』とか、『違法薬物』とか云われても、ギンは、まったくピンと来ず、なんだか非道く裏切られたような気分になった。
そんなギンの困惑ぶりを余所に弁護士先生の説明は、続く。
「その後に行われた尿検査では陰性だった為、『使用』の容疑はかけられませんでしたが、セラフィムは、単に『所持』しているだけで『七年以下の懲役』に処せられる、たいへん危険な薬物です。以上の経緯で、元ご主人は、『道路交通法違反』、『公務執行妨害』および『麻薬取締法違反』の容疑で逮捕されました」
二時間サスペンス・ドラマでしか聞いたことがない罪名が、禍々しい波動となって次から次へとギンの鼓膜と心臓を撃ち振るわせる。
「この二日後の十月七日に検察へと身柄が送られ、ここで五日間の勾留・取り調べを経て、同罪で起訴。いまに至っております。第一回目の公判……裁判は、早くて十一月の末……遅くとも、そうですね、十二月の中頃には、開かれる予定です」
ようやく事件の経緯――『反則点数一点・反則金七千円』の行政処分が、『七年以下の懲役刑が科せられる重罪』へと、坂道を転がるようにトコトン悪化するまでの経緯――を聞き終えたギンは、ドッと疲れを感じていた。
まるで、帝都遊園地の名物アトラクション『ディメンション・ハリケーン』を乗り終えた直後みたいに、頸の付け根がジンジンと痺れ、足元がふらついた。
痛む頸元を右手で揉みながら、ふと、いつか聞いた『セラフィム』の名の由来――ヒトの中枢神経に作用し、しばしば「神の愛に熾えるような」と表現される多幸感、万能感を誘発することから、『熾天使』の名が冠されたとする説――をギンは、思い出していた。
セラフィムとは、もともとは神への愛と情熱に熾える天使を指す言葉なのである。
譬えばこんなとき――いまの自分のように、心身ともにフラフラで大混乱に陥っているとき――に大人達は、天の神様の愛に包まれているような『幸福感』を求めてセラフィムに手を出すのかも知れないな、とギンは思った。
(そや、堕天使ルシファーも、もと『熾天使』……堕ちた天使やった。とうさん、悪魔に誘惑されてしもたンと違うやろかァ……。クスリ使たら、楽になるよう、楽になるようって……)
そんな子供ならではの妄想に、ギンは、一瞬捕らわれかけた。
だが、直ぐに悪い考えを追い払うように頭を振ると、『現実』への対応へと思考を切り替える。
(先ずは、夜勤明けで疲れたはるかあさんに、朝食を提供し、早ォ休んでもらわなァあかん。それが、絶対の最・最優先やわァ)
その為には、そろそろ電話を切り上げなければならないな、とギンは思った。
然し、とうさんの一件を『自業自得』と割り切って、これで終わりにしてしまってはいけないな、ともギンは考えていた。
とうさんが、合成麻薬なんかを所持していた理由を知りたいと思ったのだ。
もし、かあさんとの『離婚』がとうさんを追い込んでしまい、今回の事件の遠縁に成ったのだとしたら……。
(私にも、『責任の一端が在る』云うことやわァ……)
そう考えると、忽ち居たたまれない気持ちに、ギンは襲われる。
殴られたお巡りさんを始め、多くの人達にご迷惑をかけてしまったと、後悔と自責の念に駆られてしまう。
それは、幼い心が作り出した、あまりにも穿った考え方であり、過剰な責任の感じ方であったのかもしれない。
だがギンは、真剣だった。
自分が知っていることは全て弁護士さんに話そう。
もし、例の『十二万円窃盗事件』がとうさんを『追い詰めて』しまい、その事が元でセラフィムなんかに手を出したのなら、警察署でも、拘置所でも、何処にでも行って、とうさんに謝ろう。
その上で、とうさんには、犯した罪に相応しい罰を受けて、キッパリ、キッチリ反省して、やり直してもらおう。
それこそが、ギン自身が出来る『決着』の付け方だ――幼いギンは、そう強く思ったのである。
(逃げたらあかん、あかんねン)
そんな黙考の後、ギンは、遠慮がちに口を開いた。
「あのォ、先生。いくつかお聞きしたいこと、お話したいこと、あるねンけど……ええでしょうか?」
「ええ、ええ、勿論です。どうぞご遠慮なさらずに」
その、やや上気したような口ぶりに、
(弁護士さんも、これから開かれる裁判に向けて、少しでも多く情報を得たいのかもしらへんなァ、たいへんなお仕事やねンなァ……)
と思いつつ、ギンは、おそるおそるひとつの質問を発した。
「セラフィムって、粉……でしたよね?」
九
「セラフィムって、粉……でしたよね?」
元妻Aのおそるおそるといった表現が相応しい口調に、弁護士Kは、身構えた。
予想だにしない、質問であった。
「そうとは、云いきれません」
『セラフィム』には、粉末型と錠剤型が存在した。色と形状は、さまざまである。
先のIT企業経営者の事件では、粉末型をアルコール飲料に溶かし、経口摂取したことが、広く報道されていた。元妻Aの認識は、この報道に基づくものと思われた。
「粉末、錠剤の両方が、流通しています。色も形も、製造元によってさまざまです。今回、元ご主人は、錠剤のタイプを所持していました。それが、何か?」
弁護士Kは、この唐突な問いの背後に、何かが潜んでいることを直感しつつ、慎重に水を向けた。
「錠剤……」
元妻Aは、しばしの逡巡の後、語り出した。
「実は……真っ赤な、なんやァ毒々しい色の錠剤、見たことあるんです。丸やァなしに、六つの角がある星型、そう『ダビデの星』みたいな六芒星の形しはった……。薬局で出すような、透明なフィルムに一錠ずつ入ってて……」
弁護士Kは、喉が干上がるのを感じた。
被告人Xが所持していた薬物と形状、パッケージの仕方まで酷似しているのだ。
赤い六芒星――。
それは、今年になって帝都を中心に流行しだした『新型』の顕著な特徴であった。
これ故、被告人Xは、早々にセラフィム所持の容疑を掛けられたのである。
「いつ、どちらで、ご覧になられたんでしょう?」
内心の興奮を気取られぬよう、弁護士Kは、努めて穏やかな口調で詳細を話すよう促す。
「あのォ……電話やとちょっと……先生、お会いすること、できひンでしょうか? そちら、お伺いしますから……」
元妻Aから面談を希望されるとは思ってもいなかった弁護士Kは、この申し出に驚きつつも、快諾した。
願ってもない提案であった。
スケジュールを確認し、いまもたらされた重大なる目撃情報に関し、明日の月曜、午前十時に会って詳細を聞く約束を取り付けた弁護士Kは、さらに唐突な質問と対峙することとなった。
「あのォ、最後にひとォつだけ……とう……アイツが運転してはった車って、お客さんのと違いますか?」
弁護士Kは、軽く息を飲んだ。まったく指摘の通りだったからだ。
被告人Xは、国産車を扱う特約販売事業者に務める営業マンであった。
事件は、被告人Xが担当する得意先の車輌の一台を、車検の為に営業所併設の整備工場に搬送する最中に起きていた。
本来であれば、整備部門が対応するべき事案であったが、得意先との、
「重要な打ち合わせ」
があった為、被告人Xが、自ら代車を運転して当該車輌の回収にあたったのだった。
この時点で、尾灯が点灯しないことに、得意先の人間も被告人Xも、気付いていない。
本事件においては正にこの点が、『情状立証』に非常に不利に働く要因となっていた。
被告人Xは、得意先の所有物を損壊しただけでなく、勤務先の社会的信用をはなはだ傷つけた。
しかも、運転免許停止の事実を隠し、数ヶ月間にわたり無免許で営業車を乗り回してもいた。
勤務先関係者の『被害者意識』が、これらの事実により爆発した。
先日の面談では、就業規則に照らし厳しい処罰が下されることはもとより、民事訴訟を辞さぬほどの勢いだったのである。
『情状立証』に向け、上司や同僚の協力が全く得られない理由は、ここにあったのだった。
唯一の救いは、この車を損壊された得意先の総務部長氏が――驚いたことに保釈の際に必要となる――『身元引受人』になることを名乗り出てくれた事だった。
だが、肝腎の『保釈手続き』は、ある理由から一向に進展していない。
「その通りです。ですが何故……そう思われたんです?」
弁護士Kは、元妻Aに問いかける。
鎌をかける意図は無く、単純にその理由を知りたかった。
だが、この問いには、「それも含めて、では明日に」との言葉が返って来たのみで、程なく電話は切られてしまった。
弁護士Kは、執務椅子から立ち上がると、窓際へと歩み寄り、ブラインドを上げるや、窓を大きく開け放った。
初秋の乾いた風によって運ばれてくる金木犀の甘い薫香に、弁護士Kは、全身をさらす。
「何かが動き出した」、との予感を強く抱きながら――。
十
「それも含めて、では明日に。はい、失礼致します……」
女弁護士先生の明日朝一番のスケジュールを空けてもらったギンは、電話を切ると、イヤホン・マイクを耳から外した。
(学校サボることになってしもたけどォ……しゃーない。ここは、ASAPや)
と、覚えたての武利天語を動員して自らの判断の心理的合理化を図ったギンは、時刻をスマホのホーム画面で確認した。
午前九時七分。
五分程度の会話であったが、痺れるような疲れが、一三八センチメートル、三三キログラムの小さな体に、じわりと広がっていた。
ギンは、再び思う――。
逃げたらあかん、あかんねン、と。
「ユキポーン、ウエイトレスさん、お願い」
かあさん達が髪を乾かし終えたのを見計らい、ギンは、五つ下の妹を呼ばわった。
「アイ・アイ・サー」
トコトコと笑顔で居間を駆けて来た妹に、ボール紙と折り紙を使って二人でこしらえた『メニュー表』を手渡すと、ユキポンは、やはりトコトコと居間のソファで寛いでいるかあさんの元へと走り寄った。
「いらっしゃいませ!」
笑顔と共に、ユキポンは、メニュー表を差し出す。
かあさんは、まるで『帝国ホテル』の三つ星レストランに居るかのような優雅な動作でそれを受け取ると、
「んー、そやねぇ、うん、こちらをひとォつお願いします。セットのドリンクは、ビールで。あっ、グラスやァなしに、ジョッキでね。アルコールは、先に持って来てくれはらへン?」
たったひとつしか記載されていないメニューを、細い指で指し示しながら、かあさんは、小さなウエイトレスに注文する。
ユキポン――雪歩は、その内容を復唱するや、
「はい。ご注文ありがとうございます。少々お待ちくださいませ。シェフー、オーダーはいりまーす!」
とびっきりの笑顔で、キッチン・カウンター越しに立つ五つ上の姉、銀音に向かって叫ぶ。
「ユキポンの気まぐれサンド・ワン! 生中・ワンおねがいしまーす!」
ギンは、冷凍庫からキンキンに凍った『霜降りジョッキ』を出すと、キリン一番搾りのロング缶を添えてトレーに置いた。
ユキポンが、サーブしている間にワックス・ペーパーに包まれたサンドイッチにナイフを入れる。
ギンは、そのとき、ふと気が付いた。
女弁護士先生に、自分は、かあさんではなく、齢十歳七カ月の長女であると明かしそびれたことに。
(まあ、ええ。今日、驚かされた分、明日、驚かしたろ)
ギンは、そう思い直すと、サンドイッチを盛り付けた皿と、風呂上がりの妹の為に作ったカルピスを満たしたグラスを持って、居間へと移動した。
「お待たせいたしました、お客様」
ギンが差し出す皿とグラスを、金木犀の花のような黄色い歓声が出迎えた。
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