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第二話 シロガネ・カノン
一
最悪のタイミングで、
最も起きて欲しくない事態が、起こる。
悪い方へ、悪い方へと、
転がるように事態が、進展して行く。
被告人Xの事案の特徴を挙げるとすれば、つまりはそう云うことだろうと弁護士Kは、思う。
このような展開をみせる事案は、稀ではあるが、けっして皆無ではない。
【事例その一】
『速度超過違反』で『交通違反告知票』を切られた後、車輌から切断された遺体の一部が見つかり、『死体損壊』および『死体遺棄』の容疑で逮捕された二十代の男。
【事例その二】
出来心で犯した万引きを、三カ月に一度の頻度でしか来店しないGメンに目撃されるや暴れ、逃走を謀った為に、『窃盗』と『暴行』で捕まった六十代の会社役員。
例を挙げれば、両手両足の指では、足りない。
それを偶然の産物と見做すか、はたまた因果が巡ったと捉えるかは、人それぞれであろう、と弁護士Kは思う。
*************
* 天之道 繟然而善謀 *
*************
ふと、思考の果てにそんな言葉が、弁護士Kの古い、古い記憶層から頭をもたげてきた。
天の道は、繟然として善く謀る
と読み下す。
天網恢恢で知られる、古代の哲人の言葉である。
天の摂理、天の采配と云うものは、大きく、ゆったりとしているため、未熟な人間には、何が起きているのか直ぐには理解できないかもしれない。
だがそれは、人知を超えてとても精緻に、とても上手く計画されているものだ――。
と云った程の意味だと教えてくれたのは、法曹界の大先輩でもある彼女の父親だった。
「この世界には、森羅万象を律する霊妙なる理が存在すること、人は、その理を正しく畏れる謙虚な存在であるべきこと――。この二つを心に止めていれたら、法律なんか、不要な存在なのかもしれないね――」
当時、法学部の学生で、理といえば法理・法律一辺倒であった彼女には、なんのことだかサッパリだったので、
「やだ、おとうさんが、それを云う? 法治国家よ? 帝国は?」
などと、幼稚な反骨心も手伝い、底が浅い突っ込みを入れるばかりであったが……。
十年も前の記憶が、雲が湧き立つように想起されたのは、いったいどういう理由からだろう?
不思議に思いつつも、弁護士Kは、椅子代わりにしていたシングルベッドから立ち上がった。
翌月曜午前八時――。
一六八センチメートルの長身を、ダーク・ネイビーのパンツスーツに包みこんだ弁護士Kは、アイスブルーのAラインコートを羽織ると、一週間分のアルコール飲料の空き缶で膨れ上がったゴミ袋をむんずと掴むや、マンションを出た。
先週は、少し飲み過ぎた。
今週も、少し飲み過ぎるだろう。
きっとそれは『天の摂理』に違いない、と嘯きながら。
二
午前八時十五分――。
時計代わりに点けていた『朝の連続テレビ小説』の終了を合図にマンションを飛び出したギンは、徒歩二分の距離にある幼稚園へ妹を送り届けると、その斜向かいにある小学校には向かわずに、駅へと足を転じた。
サイドに丸みを持たせたショート・ボブを揺らしながら、デニムのショート・パンツにブラック・レギンスを合わせた細長い脚を懸命に動かし、いま来た通学路を逆走する。
途中、何名か同級の男子児童と擦れ違う。
いずれも、不審者を見るような視線を向けてきたが、ギンの疾走は止まらないし、意にも介さない。
昨日のうちに打っておいた『架空殺人』が発動すれば、全力で走っている姿は、むしろギンの作り話の信憑性を高める効果があると、踏んでいるからだ。
程なく、交差点を折れ、駅へと向かう人波に華奢な体を紛れ込ませたギンは、ふゥ、とひとつ息を継ぐと、ようやく歩を緩めた。
ギンは、歩きながら昨日のかあさんとの会話を思い出し、左の頰にそっと掌を当てる。
* * *
「とうさんなァ、『無免許運転』バレるの怖ァなって、パトカーの停止指示ィ、無視しはってェ、猛スピードで逃げて、逃げて、逃げ回ったあげくになァ、ガードレールに衝突してしもてン。怪我は無かったらしねんけどォ、車から降りた途端になァ、いきなしお巡りさん殴ってしもたらしうてェ……こらァアクシツやァ、ケシカランわい! 云うことで捕まってしもたンやって。アホやなァ」
サンドイッチを頬張りつつ、
「クリチーが、ミルキーやわァ」
「ああ、ボロニアのこの下品な塩味、たまらへン」
「ああポテサラや、ポテサラや」
などの名言を量産しつつ、霜降りジョッキのビールをたちまち飲み干したかあさんは――当然のごとく、おかわりを所望しつつ――このギンの報告に、激しく憤ってみせた。
「オッサン、なにしてはんねャ? まったく……アホやなァ」
トテトテと台所へと走り、再びキンキンに凍ったジョッキとキリン一番搾りのロング缶を取り、トテトテと戻ってきた五つ下の妹も、かあさんの口調そのままに同意する。
「まったく、アホやなァ」
「あっ、ユキちゃんおおきにィ、あら上手、あら天才、あら神の子」
七対三の黄金比でビールを注ぐ五歳児の神技を褒め、讃えながらかあさんは、ギンの貌に視線を向けた。
「弁護士さん、他になんか、面倒なこと云うてへンかった? 会いに来いとか、差し入れせェとか、カネ耳そろえて払わンかい、とか?」
冗談めかしたその問いかけに、流石は、かあさんやわァ、とギンは感服した。
ギンは思いもつかなかったが、下着とか、歯ブラシとか不自由しているのかもしれない。
また、そもそも弁護士先生の費用は、どうなっているのだろうとの疑問も持った。
過去、ギンの貯金にまで手を出して競馬に注ぎ込んでいた――それが、かあさんをして離婚を決意させるきっかけの一つだった――とうさんに金銭的な余裕があるとは、ギンにはとうてい思えなかったからだ。
「ん? そや、十一月の末か、遅くとも十二月の中頃までに、最初の裁判開かれる予定やァって、教えてくれはったわ。それだけ」
ギンは、意図的に幾つかの事実をかあさんに伏せていた。
即ち、
・殴られた警官が、卒倒した事
・合成麻薬セラフィムを所持していた事
・月曜十時に弁護士と会う約束をした事
の三点である。
話せばきっと驚かし、唖然とさせ、反対されると判っていたのが秘匿した理由であったが、本音をいえば、ギンは、かあさんにこれ以上、とうさんの事を嫌いになって欲しくなかったのだ。
「ん、さよかァ……おおきにィ、ギンちゃん。助かったわ。かんにんェ」
かあさんは、安心したように、それでいて、ちょっと当てが外れたかのようにそう呟くと、ギンの左頰の丁度ホクロの当たりに、その日二度目のキスをした。
「ん、くすぐったァ」
「なんや、ええやないのン? かあさん酔ってるンやし。なァ? ユキポン」
かあさんは、酔ってなくてもキス魔だ、とギンが思った瞬間、
「ユキもー」
トテトテと廻り込んできた妹が、右のほっぺたに小さな唇を押し当てて来た。それは、カルピスの香りに包まれていた。
「ああ、ええなあギンちゃん。ユキポン、かあさんにも、いっこちょうだい」
かあさんは、ほのかに桃色に染まった頰を指差しながら、そう子供のようにおねだりした。
* * *
寿司詰め状態の電車からようやく解放され、ふらふらの体で、目的駅に辿り着いたギンは、改札を抜けると、真っ直ぐ法律事務所が入居しているオフィス・ビルを目指した。
ホームページのアクセス案内には、駅から徒歩三分、五階建ての雑居ビルの二階とある。
午前九時一八分――。
女弁護士との約束の時間まで、今しばらく余裕があった。
ギンは、目的のビルの向かいにある小さな公園で、ベンチにでも座りながら読み止しの『小公女』を開き、待ち時間を過ごす心積もりでいた。
とうさんへの差し入れ用の下着や洗顔用具、ロト6の当たりくじは、昨日のうちに購入してある。
目的のビルの隣に、お馴染みのコンビニ『セブン・アイランズ』が見えてきたが、もう別段、必要なものは無い。
ギンは、歩きながら昨日手を打った『工作』について思いを寄せた。
(龍おじさん、忘れへンと……学校、連絡してくれはったやろかァ?)
一瞬そう思いかけたが、その疑問を直ちに振り払う。
義に厚い叔父は、昨日、かあさんに内緒で弁護士先生に会いに行く旨を、正直に打ち明けた姪に対し、
「相変わらず、オトコマエなやっちゃなァ……ギンは……」
と、龍おじさんにとって最大級の褒め言葉でもって、賛意を示すや、
「どうせ、姉さん傷つけとォあらへンとかァ、元義兄さんのことこれ以上、嫌いになって欲しないとかァ……そない余計ェなこと考えたはンのやろ?」
と、的確にギンの心の葛藤を分析するや、ズバンっと直球を投げ込み、
「よっしゃあ、オッチャンに任しときィ。誰ぞ亡ォなったことにして、学校に電話しといたるわァ。さァて、誰コロソ? まァ、年の順で云うたら、百合子さん姉さんやねンけどなァ……ん? ギン? アカンか? そやなァ……あのヒト、あと一億年はピンピンしたはるわなァ。せやったら、次は……」
と、力強く『架空殺人』を請け負ってくれたのだった。
「弁護士さんとこ、同伴してあげたいねンけどォなァ……あいにく明日なァ、朝一番で、本部行かなァ、あかんのンやァ……カンニンなァ、ギン。ひとりで大丈夫かあ?」
ギンのことを本気で気遣ってくれる龍おじさんが、約束を忘れる筈も無い、とギンは、思い直した。
公園に近づくにつれ、金木犀の甘い香りが強まって来た。
今朝は、陽射しも柔らかい。
こんな素敵な環境で読書が出来るとは、なんて贅沢なんだろうと思った瞬間、突如、ギンは、背後から大きな声で呼び止められた。
「ねえ、そこの君、ちょっと、ちょっと、ちょっと」
野太い、男の人の声だった。
繰り返される、「ちょっと」は、その度に声量と横柄さが、指数関数的に増してくる。
ギンは、ビクリと立ち止まると、咄嗟に、パーカーのポケットにねじ込んでいたキッズ・ケータイを握り締めた。
「ねえ、お嬢ちゃん、銀カノンちゃん、だよね?」
銀カノン――。
懐かしい響きだな、とギンは、思った。
それは、本名である銀音をもじり、かつて一度だけ、
『人助け八割、興味本位二割』
で引き受けた、かあさんの旧い友人が関わる或る映像作品に参加する際に使った名であった。
(髪バッサリ短こうしたから……顔バレなんて、絶対しィひン思てたンやけどォ……)
ギンは、彼女自身すっかり忘れていたその名で呼ばれたことで、およそ半年前に世に産み落とされた『虚構』が、彼女の思惑に反し、まるで浴室のパッキンを侵すカビのように、根深く社会に浸潤し、増殖していたことを悟り、慄然とした。
(シロガネ・カノンなんて、もう何処にもいてへンのに……)
(バレエのお稽古もキッパリ辞めてしもて、主婦業と主姉業に徹してるゥ、云うのに……)
ギンは、そう思うと、この突然現れた不躾なる質問者に対し――非常に珍しいことであったが――腹を立て始めていた。
(なんで、忘れてくれはらへンのン? ほっといてンかァ)
ギンは、そう心の中で、激しい詰問を繰り返しながら、キッズ・ケータイを握りしめた右掌を、ネイビーブルーのパーカーのポケットから出した。
「ねえ、カノンちゃん、おじさんと、ちょっとだけお話ししてくれないかな?」
ギンは、おそるおそる振り返り、横柄な制止から、ねっとりとした猫なで声の問いかけに変わった、声音の主へと貌を向けた。
ギンの正面には、禿げ上がった頭に僅かに残った髪をバーコードのように撫でつけた、でっぷりと太ったスーツ姿の男の人が、度のキツイ眼鏡の奥の細い目にギラギラと光を湛えながら、佇んでいた。
「ああ、やっと会えたね、カノンちゃん」
煙草のヤニで黄色く染まった前歯を分厚い唇から覗かせながら、男の人は、ニタリと笑った。
三
「え? 例の『国選』の美人妻、これから来所されるんですか? やりましたね、先生。マリアナ海溝よりも深い、先生の執念の賜物ですね。お疲れさまです」
午前九時一八分――。
出勤早々、予定外の訪問客の対応に一五分ほど時間をとられた弁護士Kは、全く実りのない不毛なる会話――いや、会話などでは無い。極めて一方的に、訪問者の根拠ない暴言を繰り返し聞かされるワンサイド・ゲームだった――に時間を費消したことに辟易としながら、ブラック缶コーヒーを喉に流し込んだ。
「元よ、元妻。あるいは元配偶者。使う言葉は正確に」
そして、秘書、事務職員、調査員の三役をこなす、彼女の有能なる秘書Mの発言をやんわりと訂正する。
「だって先生、それだと美人元妻になっちゃいますよ? 語呂、悪過ぎません?」
秘書Mは、「でも、元美人妻だと、かつては美人でいまはガッカリ的な残念な空気が漂って来ますから、やっぱ美人元妻ですかねェ……」などと独り言ともつかない与太を衛星軌道の彼方に飛ばしながら、スケジュール管理ソフトを素早く立ち上げた。
入社半年の新人ながら、彼女の仕事は早く、的確だ。
然しながら、独特な感性に基づいて投げ込まれる『言葉の爆弾』――悪意皆無、全て天然――に気分を害される弁護士が続出した為、いつの間にやら弁護士Kの専任スタッフとして処遇することで衆議が一致し、以来、『核廃棄物』並みの慎重さ、丁重さでもって取り扱われるに至っている。
或る先輩弁護士は、こう語る。
「毒をもって毒を制する、だね」
――と。
「ああ、やっぱり……先生、午前十時からは、『月刊リーガル・ジャーナル』様と、例のコラムの件で打合せが入ってますが?」
やや困惑した面持ちで、秘書Mは、ダブル・ブッキングを指摘する。
「ああ、ごめんごめん……土曜の夜遅くに連絡があって、先方の都合でそれ、延期になったの。三八度七分の発熱だって、彼女」
丸顔の愛らしい編集女史のまさに疲労困憊といった声音を、弁護士Kは、思いだした。
「うはァ、それはお気の毒と申しましょうか、小声でラッキーと申しておきましょうか……。あれだけ美人元妻と連絡とれなくて苦労させられたのが、嘘みたいですねェ……。土曜の夜にスケジュールに穴が空いた途端、日曜の朝には電話が通じて、翌月曜には、ちゃっかりその穴が埋まって面談が叶うだなんて。まさに、トントン拍子」
秘書Mは、訂正情報をスケジュール管理ソフトに入力しつつ、「トントントーン」と口ずさむ。
譬えばこんなとき――弁護士Kは、事態の本質を抉るような洞察力を、彼女から嗅ぎ取る。
そう、まさにトントン拍子だ――。
まるで何者かに導かれるように、あるいは背中を押されでもしたかのように、事態が進展し、自分は或る事実に肉迫しようとしている……。
「美人元妻のご尊顔を拝するのは楽しみですけど、美少女姉妹にも会いたかったなァ。先生、お気付きになりました? 上のお嬢さん、あの銀カノンちゃんですよ?」
秘書Mは、自らしたためた調査報告書を手に取ると、弁護士Kが昨日見入っていたSNSの画像が掲載されている頁を開き、指差した。
人形のように整った貌立ちの、凛とした空気をまとった美少女が、長い黒髪に散り行く桜の花弁を数葉乗せて、微笑んでいた。
「左頰にホクロもあるし、位置もピッタリ同じだし、これは間違いないですね。ああ、『守秘義務』が無かったら、世界の中心で呟きまくってますよ、自分」
調査員の面目躍如と云わんばかりに満面に笑みを浮かべながら、秘書Mは、そんな物騒な発言を口にした。
「シロガネ・カノン? 誰それ?」
しかし、弁護士Kは、七歳年が離れた秘書の盛り上がりぶりを余所に、本気で呆けてみせる。
カノンといえば、希国語で法律のことであり、それが転じて、聖書の『正典』をカノンというようになった。
因みに『外典』は、アポクリファ……といったトリビア的な知識しか、彼女は持ち合わせていない。
秘書Mは、女優と見紛うほど美しい女弁護士を、まじまじと見つめるや、
「え? ご存知ありませんか? ほら、そのコーヒー買われた隣の店でも、よく店内で流れてますよね? 宇宙蛍の『ミッドナイト』。そのミュージック・ビデオに出演してる、女の子のことですよ? 半年くらい前に動画が公開されるや、『あの可憐な女の子はナニモノだ?』って、ネットがザワついて、わずか公開四週目で総再生回数一億を突破した、あの銀カノンちゃん……て、あれ? 先生? 本当にご存知ない? マジっすか?」
秘書Mは、女弁護士の情弱ぶりに、憐憫とでもいうべき表情を一瞬浮かべかけたが、大手コンビニ・チェーン『セブン・アイランズ』のホームページを立ち上げると、当該動画へのリンクが張られたアイコンをクリックした。
同曲は、セブン・アイランズ社のテレビCM曲としてタイアップ企画されたものだ、と注釈を加えつつ、秘書Mは、ドラマ仕立てで制作されたミュージック・ビデオの見所を、熱く、熱く、熱く語り始めた。
「シングル・ファザー役のボーカル蓮もいい味出してるんですけど、何と云っても、その父親とぶつかり合いながらも、ときに励まし、ときに助ける、カノンちゃんの透明感あふれる演技、特にそのコロコロと変わる多彩な表情が、本当に魅力的なんです!」
「ふ、ふーん……」
「自分的には、土日だけ始めた、コンビニでの仕事に備え一眠りする父親に、毛布をそっと掛け直してあげるシーンで見せる、あの憂いに満ちた横顔がもう、ドすとらいくで!」
「は、はあ……」
「圧巻は、同僚バイトくんの無断欠勤のせいで危機に陥った蓮を助けるべく、セブンのユニフォームを身にまとったカノンちゃんが登場するシーンですかね。両開きのスイング・ドアがさっと開くや、完璧な接客と超絶レジ技法で、次々とお客さんを捌いてゆく爽快感といったら胸熱です! 父親のレジ接客を鬼コーチよろしく、マニュアル片手に指導する伏線が、ここで回収されるんですよ!」
「へ、へえ……」
「そして、目くるめくダンス・シーン。身長差五十センチの二人のキレッキレの動きは、もう眼福の一語に尽きます!」
「ほ、ほう……」
秘書Mの語り口は、推しアイドルの魅力を語るファンと云うよりも、自らが崇拝する『小さな天使』への絶対的信仰でもって、未開の野蛮人――無論、女弁護士のことだ――を教化せしめんとする『伝道師』のそれである。
弁護士Kは、ビッグバンもかくやと思われる高温高圧の火の玉と化した秘書に圧倒され、言葉も無い。
「宇宙蛍の従来の支持層よりだいぶ上のM2層、M3層、いわゆる『オジサン世代』が、このカノンちゃんにドはまりしまして、『カノン効果』なんて造語もできるぐらい、CD他の売上を押し上げてるんです。さあ先生、百聞はなんとやら。ご堪能くださいまし!」
秘書Mは、サッと立ち上がるや、女弁護士に席を譲った。
「これ観たら、きっとカノンちゃんの虜ですよ、先生も。彼女、オジサン・キラーですからね」
有能なる秘書が、また一つ余計なことを云った、その時――。
外気を取り入れる為に細く開けていた窓の隙間から、甲高い叫び声が聞こえて来た。
「いやァ、離してェ! いたーい!」
秘書Mは、ギョッとした表情を浮かべ、弁護士Kと貌を見合わせると、素早く窓へと駆け寄り、開け放った。
金木犀の甘い香りの密度が増す中、身を乗り出すようにして通りを見下ろす。
五メートルほど先の路上で、淡い菫色のランドセルを背負った女の子が、肥満したスーツ姿の男性に腕を掴まれていた。
その少女の貌を見て、秘書Mは、愕然としたかのように声を上げる。
「せ、先生……カ、カノンちゃんです!」
四
「ああ、やっと会えたね、カノンちゃん」
太った男――バーコード禿おじさん、略してバーコード氏――は、ヤニで黄色く染まった前歯を見せてニタリと笑うや、
「カノンちゃん、ショートも似合うねえ。でもオジサンは、前の髪形の方が、好きだなあ」
舐め回すような、粘着質の視線をギンに向けながら、そんな感想を聞かれもしないのに語り出した。
ギンは、バーコード氏の一連の発言から肥大しきった自尊心を早くも察知し、沸き立つような嫌悪感が華奢な体を駆け巡るのを感じていた。
「カノンちゃんとのツーショット撮っても、構わないよね?」
依頼ではない。
その口振りは、事前確認を装った強要だ。
(オッサン、なにネゴトほざいたはンねン?)
ギンは堪え切れず、後方へ大きく、跳びはねるようにして退いた。
同時に、周囲に素早く視線を巡らせ、状況把握に努める。
午前九時を回り、出勤ラッシュは流石に収まっていたが、駅方面からの人通りは絶えない。
また、弁護士法人が入居するビルの隣の大きな建物の入口には、制服姿の警備員さんの姿も見える。
(駆けっこなら負けへンもん。あかんかったら、大声で叫んだはる)
小さいながら学年随一の俊足を誇るギンは、でっぷりと太ったバーコード氏の運動能力を過小に評価した。
(ブザーは、使わんとこ)
警報ブザーのストラップを引くのは最終手段だと、ギンは、心得ている。
ひとたび引けば、大音量の警報と共に、内外カメラで自動撮影されたギン本人と周囲の画像が、GPS情報と共に、かあさんと龍おじさんのスマホに発信される仕掛けになっているからだ。
秘匿していた今日の行動を、かあさんに知られてしまうだけでなく、『架空殺人』の『実行犯』たる龍おじさんにも迷惑を掛けることになる。
それだけは避けなければ、とギンは思った。
後方へ飛び退いたギンに、バーコード氏は、慌てたように手を振った。
「いや、カノンちゃん、オジサンはね、怪しい者じゃないんだよ。ちゃんとした会社で働いている。しかも役員で、そう、カノンちゃんのお父さんの知り合いでもあるんだ」
スーツの内ポケットから革の名刺入れ取り出したバーコード氏は、太い指で中の一枚を抜き取ると、ギンに向かって差し出した。
(へ? とうさんの知り合い?)
その意外な一言に、ギンは、困惑の表情を浮かべた。
だが、警戒心は緩めないし、嫌悪感に至っては、意思の力ではどうしようもない。
「今もね、弁護士の尻を叩いて来たところなんだよ。お父さんを早やく保釈……自由にしてあげなさいってね? お父さんの担当弁護士は、若いオンナでね。まあ、ミテクレはいいかも知れないが、私に云わせれば、それだけしか価値が無い、中身の伴わない低能だ。全く、オンナって云う生き物は、須く仕事が遅くていけない」
バーコード氏は、たちまち尊大な空気を撒き散らし、女弁護士に対する誹謗と女性全般に対する暴言を口にし始めた。
(あの別嬪さんの、尻を叩くやなんて……)
読書家のギンは、この慣用句を勿論知ってはいたが、敢えてこの場で、この言葉を選択するバーコード氏の品性にどうしようもない下劣さを感じ、激しく憤った。
かあさんの最近の口癖に倣うなら、「問答無用! 斬り捨て御免!」であった。
「オジサンはね、お父さんの味方なんだよ、カノンちゃん」
バーコード氏は、そう語ると、ギンも驚く敏捷さを見せ、ギンの左手首を強引に掴むや、ぐいと引き寄せ、無理矢理、名刺を握らせようとした。
「いやァ、離してェ! いたーい!」
ギンは、この状況に乗じた。
全く痛くは無かったが、大袈裟に痛みを訴え、必死の形相を装い、第三者に状況がよく判るよう、敢えてブルンブルンと左腕を振った。
この時点で、バーコード氏は、ギンの腕を離しているのだが、ギンは、スーツの袖口を指で摘まみ上げていた。
遠目から、それらしく見えればいいと、ギンは、割り切っている。
「痛ァい! 離して!」
ダメ押しで再度叫ぶと同時に、指を離し、体を捻るようにして、再び後ろへ跳び、うつ伏せに倒れてみせた。
その時――。
「こら、オッサン! なにしてはンねャ!」
先ほど警備員の姿を確認した大きな建物から、スーツ姿の背の高い青年が、勢いよく飛び出して来た。
青年は、ギンに駆けより抱き寄せると、
「大丈夫かい?」
優しい眼差しで、ギンを見つめた。
その顔を凝視したギンの目は、驚きの余り丸くなる。
青年は、一九〇センチはあるかと思われる長身でもってギンを守るようにして立ち上がると、バーコード氏を凄まじい剣幕で睨みつけた。
「おう! こらァ、立派な犯罪やぞォ? 子供相手になにしてはンねャ? ああ?」
ヤクザさながらの凄みのある怒声、そして身にまとったスーツがはち切れんばかりに鍛えられたその肉体を前に、バーコード氏は、恐怖に駆られたようであった。
「は、犯罪? い、いや、わたしは何も、ただ……」
同じビルから、異常を察知した警備員が飛び出して来た。
ギンが驚いたことに、報道陣と思しき、大きなカメラを肩に担いだ男の人を含めた数名の人影が、その後に続いていた。
何事かと立ち止まる人、あるいは周囲のビルからワラワラと駆けつけて来る人――人の壁に覆われたことに気付いたらしく、バーコード氏は、まるで拳銃を突き付けられでもしたかのように、両腕を挙げた。
「わ、私は、な、何もしていない! た、ただ名刺を、カノ、この子に渡そうと――」
開き直ったか、バーコード氏は、弁明を始めた。
先ほど見せた横柄な態度や物云いは、すっかり雲散霧消している。
「はあ? 痛がっとったやないか! 『暴行罪』やぞ! すいませーん、どなたか、警察呼んで下さいませんか!」
語調を改め、丁寧な帝国標準語で周囲に呼びかける青年を、ギンは、制止した。
「ええから! もうええから!」
いささかやり過ぎた、との反省を込めて、ギンは、青年の前に回り込むと懇願するように叫んだ。
「もうええから、へえきやから、許したって、龍おじさん!」
「ん? さよかァ? どっこも怪我してへんかァ? まあ、ギンがそない云わはるンやったら……しゃあない、許したるわ」
青年は、ギンにだけ見えるよう貌を近づけると、片目でウインクをした。
ギンの芝居には、端から気付いているようであった。
「ほれオッサン、とっとと、いねい」
まるで野良犬を追い払うかのように、掌をヒラヒラと上下させると、青年は、テレビカメラの存在に初めて気付いたらしく、チッと軽く舌打ちをした。
五
「おおきにィ、びっくりしたわァ」
ギンは、日に焼けた精悍な顔つきの青年――かあさんの六つ下の弟であり、親戚の不幸をでっち上げて学校を休めるように協力してくれた『架空殺人』の『実行犯』たる龍おじさんの顔を、まじまじと見上げた。
「びっくりしたンは、こっちや。心臓、口から飛び出るかと思たわァ……云うのは、嘘や」
龍おじさんは、そう云うとニッと微笑んでみせた。
「バレてはった?」
「完璧な受け身やったからな」
ギンは、ブラックスーツ姿の叔父をペタペタと触りつつ、先ほどから感じていた疑問を口にした。
「なんで、こないなとこ、いてはンのン?」
「ん? 昨日、電話で、云わへンかったか? 朝一で、本部行かなァあかんてェ? うちの球団本部、彼処の最上階に入っとンねん。今日は、『契約更改』で呼び出されてしもたンや」
ギンは、「ああっ」と肯いた。
季節は、十月――。
プロ野球選手の契約更改や移籍が、連日ニュースになっていた。
年中ジャージが定番の龍おじさんが、珍しくもスーツを着ていることも、テレビ取材陣がビルに待機していたことも、これで納得した。
龍おじさんは、直径七・四センチメートルの白球を時速一五五キロメートルの速さで投げ放つ『魔法の左腕』の持ち主なのだ。
龍おじさんは、腕時計で時刻を確認すると、公園のベンチを顎で示した。
「九時二三分――。弁護士さんとの約束まで、どや? そこのベンチで、茶ァでもしばかへンか?」
ギンは、肯く。
視線が下がると同時に、足元に落ちている一枚の紙片――バーコード氏の置き土産――の存在に、ギンは、気がついた。
それは、取締役総務部長の役職を有する、氏の名刺であった。
読書熱が高じて、ギンは、常用漢字は全て書けないまでも読むことが出来た。
だが、『取締役総務部長』がいったいぜんたい何をする人なのか、皆目わからない。
(とうさんの味方やァ……云うたはったなァ、あの人……)
ギンは、しゃがみ込むと、出来るだけ紙面に触らないように注意しながら名刺を摘まみ上げると、タオル地のハンカチで丁寧に包み込んだ。
「シロガネ・カノン――さん?」
その時――。
その名を遠慮がちに呼ぶ、涼やかな若い女の人の声をギンは、耳にした。
銀カノン――それは、忘れ去った名だ。
もう、どこにも存在しない者の名だ。
だが、ギンは、バーコード氏にそう呼ばれたときと全く異なる感慨を、このとき抱いていた。
それは、天空の月を写し出す鏡のような湖の水面に、ポチャンとひとつ小石が投じられ、円形の波紋が幾つもいくつも生じるのに似ていた。
声に続き、ギンの視界に踵が平たいパンプスと、ダークネイビーのパンツスーツに包まれた細い脚が見えた。
ギンは、ある予感に駆られ、いっきに立ち上がると、正面に立つ人物を真っ直ぐに見つめた。
「初めまして、先生。父のことで、たいへんお世話になっております。私のことは、カノンやァなしに、『ギン』と呼んでください」
ギンは、女弁護士に、深々と頭を下げた。
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