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第三話 確率操作
一
ギンは、あの日の記憶を思い出していた。
陽の光を避け、膠のように凝り固まっていた、あの日の記憶を――。
* * *
「なあ、ギンちゃん、これから、とうさんの得意先の人と会ってくれないかな?」
それは、暦の上では翌日から連休が始まる、五月二日の夕刻のことだった。
ギンは、カレー・ルーを包丁で刻む手を止めて、とうさんの彫りの深い貌をまじまじと見つめた。
「へ? 得意先の人? これから? もうじきご飯だよ? 豚コマのカレーだよ?」
ギンが作るカレーは、家族全員から好評であった。
妹ユキポンには、ヨーグルトとチョコレートを隠し味として入れたお子様カレーを用意し、とうさんの為には、辛口ルーを入れた後、食べる直前にガラムマサラを振りかけるといった拘りようである。
その日のとうさんは、明日からの激務に備えて代休を取っているにも関わらず、いつになく苦渋に満ちた顔つきをしており、ギンの問いかけに、弱り切った、力ない声で応じた。
「その人、ある会社経営者のご長男さんで――まあ、ゆくゆくは社業を引き継ぐ方なんだけど、その会社の役員を勤めるかたわら、友達とモデル事務所をやってるんだ。もともと、そっちの世界に興味があると云うか、そっちの方が長いと云うか……それで……」
なんとなく話の行く末が見えてきたギンは、先回りして釘を刺した。
「とうさん、私、何度も云ってるけど、芸能界なんて興味ないからね? 銀カノンは、いっかい、ぽっきり、これっきり、なんだから」
歌うような抑揚を付けて、そう云い切る。
宇宙蛍の新シングル『ミッドナイト』のミュージック・ビデオが世に送り出されて、もうじき一カ月。
動画の再生回数は、一億回を突破し、映像制作会社のプロデューサー氏を経由して、
・モデル事務所
・芸能プロダクション
・子役部門を擁する劇団
等々から、銀カノンの専属契約を具申する問い合わせが殺到し、かあさんがその申し出を丁重に、粛々と断り続けると云う日々が、依然として続いていた。
「うーん。ギンちゃん、会うだけ会ってみる、と云う訳には……」
「いきません」
とうさんと話すとき、ギンは、帝国標準語を用いる。
これは、とうさんに疎外感を与えないようにという、彼女なりの配慮であった。
家の中で、女三人が、かあさんの生まれ故郷である月御門の言葉で話し出すと、文字通り『姦しい』こと甚だしく、「まるで、旅行でもしている気分だ」と、いつかぼやいていたからである。
「そこをなんとか……頼むよ、ギンちゃん」
とうさんは、尚も食い下がる。
「だーめ。第一、芸能活動なんか始めたら、ユキポンの送り迎えとか、お料理とか、動画配信とか、できなくなっちゃうでしょ?」
今回の撮影は、たまたま、春休み中の七日間が当てられたが、五つ下の妹を随分と寂しがらせてしまった。
譬えばこんなとき――かあさんだったら、ギンの本当の気持ちを上手に聞き出す。そして、
「うん、さよかァ。せやったら、ギンちゃんのしたいように、しはったらええ。ただなァ、大勢の人が観てくれはって、評価されて、こないしてぎょうさん声掛かる云うのンは……それはそれは幸せで、とっても有難いことやと、思わへン? 素敵な『出会い』に感謝しなァ、あかんェ?」
と、飄々としながらも人として大切なことを諭してくれる。
だが、とうさんは、自分のことでいっぱいいっぱいで、そんな教育的視点や器量は、ミジンコの毛先の角質化蛋白ほども見せない。
ギンは、思う。
人には、向き不向きがある。
出会って五年になるが、とうさんと云う人は、「父親には、向いていない」のだ、と。
「もう……。その人と、なにかあるの? 理由ぐらい聞くよ?」
力ない素振りや、これ見よがしの苦しそうな表情は、世話好きで周囲の空気を推し量ってしまう自分の性格を熟知しているとうさんの、『極めて計算高い三文芝居』だと、ギンは、看破している。
だが、両手を拝むように合わせつつ項垂れる姿が余りにも哀れに、余りにも情けなく思えてしまい、ついつい、水を向けてしまった。
「ほら……とうさん、先月、ギンちゃんの貯金、無断で使っちゃったろ、競馬に?」
とうさんは、ギンが降ろした『蜘蛛の糸』に飛びつくや、また非道い話を蒸し返して来た。
「ああ、あれね? 『十二万円窃盗事件』ね? 今度なんかしでかしたら秒で離婚だって、かあさん本気で怒らせた、あれね? それが、なにかな?」
ギンの声音は、氷菓『ガリガリクソン君』のように冷たく、硬い。
十二万円という金額は、ユキポンとギン二人の一カ月のお小遣いの合計額三百円で換算すると、実に五十五年と六カ月分に相当する。
そんな大金をギンが持っていたのは、動画サイト『YouCube』上に、ユキポンと二人で開設している動画チャンネルから得られる収益を、コツコツと貯めていたからだ。
姉妹は、このお金がもう少し貯まったら、結婚式も新婚旅行も未だしていない、とうさんとかあさんに、『写真撮影プラン&一泊二日の豪華温泉旅行』をプレゼントしようと企んでいたのである。
サプライズの発動は、七月七日。
二人の入籍日――そして、連れ子であるギンら姉妹が、とうさんと『養子縁組』をした日。即ち、新しい家族が、法的に誕生した日――である七夕の夜を予定していた。
十二万円窃盗事件は、そんな矢先に起きたのだ。
かあさんの心の天秤が、大きく『離婚』に傾くのに、この事件が契機となった事は、想像に難くない……。
「実はさ……」
とうさんが、そう切り出す話もまた、非道いものだった。
国産車の特約販売事業者で営業マンとして働くとうさんの仕事のひとつに、『現金一括払い』で販売した車の代金回収業務がある。
とうさんは、この代金を着服し、競馬の軍資金として流用していたのであった。
「とうさん、それって『業務上横領』だよ。知ってると思うけど、立派な犯罪」
ギンは、「は・ん・ざ・い」と音節を切りながら、冷静に指摘してみせる。
もう、これくらいの事では、全く驚かなくなっていた。これは慣れなのか、はたまた麻痺なのか、十歳二カ月のギンには、判らない。
「うん、そうなんだけどさ……締め日までにさ、レースでひと山当てて、ちゃんと入金処理すれば、問題なんて無いと思ったんだ。実際、これまでは上手くやってきたし、大きくプラスになった月もあった。それがさ、ここんところ負けがこんじゃって……」
横領額の元金割れは、百三十万円。
それを何とか補填しようと、小学生の娘の貯金にまで手を出して大勝負に出るが、当然のごとくあっという間にすってしまう。
次月決算分の『現金一括払い』の案件から代金を流用し、一時的に穴埋め――これをして自転車操業と云う――しようにも、運悪く『カーローン払い』ばかりで適当な案件が、ない。
消費者金融には、とうの昔から相手にされていないし、かあさんに泣きついたら最後、「秒で離婚」が、現実のモノと為るのは必至だ。
万策尽きた。
いよいよ警察沙汰かと思われたとき――。
くだんのモデル事務所を副業で営む、得意先のご長男氏が、「助け船を出してくれた」と、とうさんは云うのである。
「藁をもすがる思いで頼んだらさ、ポケット・マネーを出してくれてね、それで事なきを得た。だから、先方には大きな『借り』があって、ちょっと断り辛いって云うか……」
とうさんは、そこで言葉を濁すと、チラリとギンの表情を伺うように視線を向けた。
ああ、とうさんまた嘘ついたはるわァ、とギンは、思った。
『業務上横領』の件は、本当だろう。
だが、その話を得意先の役員を勤めるご長男氏に打ち明けたら、ポンっと百三十万円出してくれたというくだりは、子供のギンにも不自然に思えた。
事実は逆で、銀カノンにまつわる『何らかの利権』をチラつかせ――銀ならぬ、金の卵を産むガチョウでも手に入れたつもりになって――先方からお金を騙し取ったのではなかろうか?
そのお金で『入金処理』とやらをしたことで、横領発覚の危機は脱したが、ご長男氏との約束は不履行のままだ。
いつもの調子で、ヘラヘラ愛想笑いを振りまきながら、のらァりくらりと躱すのもそろそろ限界で、『詐欺罪』で訴えられかねない『危険水域』にそろそろ差し掛かっている。
それでいま、とうさんは、困りに困っている。故に、ご長男氏に、ひとまず娘を引き合わせる事で、お茶を濁そうと考えている。
そんなところであろうと、ギンは踏んだ。
(ほんま底が浅い云うか、往生際が悪い云うか、ジタバタ騒いで、トコトン事態を悪化させる云うか……)
ギンは、一つ溜め息をつく。
この時点で、自分が、とうさんにとって都合の良い金蔓のように思われていることに、ギンは、気が付いている。
然し、その事に対して最早怒りはないし、悲しみもない。
これもまた慣れなのか、はたまた麻痺なのか――小学五年生になったばかりのギンには――やっぱり、さっぱり判らない。
(せや、『天の神様』に聞いてみよ……)
ギンは、常に持ち歩いているプラスチック製のサイコロ――一辺の長さ五ミリ程の、白、紅、碧、黄、翠、桃で塗り分けられた六つの正八面体――を、パーカーのポケットから取り出した。
(天の神様、偶然と確率を司どる神様、お願い致します。これは、私利私欲ではありません。とうさんを諫める為です。私の先程の考えが正しくて、とうさんが嘘ついたはるなら、『白一、紅二、碧三、黄四、翠五、桃六』の目ェが出ます。間違っていたら、それ以外です)
ギンは、そう強く念じながら、傍にあったトレーに、サイコロを投げ入れた。プラスチックがぶつかる軽やかな音が、キッチンに響き渡る。
果たして、出目は――。
白一
紅二
碧三
黄四
翠五
桃六
八の六乗分の一、即ち、二六万二千百四十四分の一の確率でしか出ない目が、一発で出た。
天の神様によって、偶然が、引き寄せられたのだ。
とうさんは、急に無言でサイコロを振り出した娘を、唖然とした表情で見つめている。
動画投稿サイト『YouCube』にギンら姉妹が開設している『ユキポン超能力研究所』の存在を、とうさんは当然知っている。
故に、この突然の行動の意味を、うっすらと理解したのだろうと、ギンは、推察した。
ギンは、いま一度、天の神様――それは、偶然起こる事象に干渉し、天の意志、天の摂理を示して下さる、目には見えない存在だとギンは認識している――にお伺いを立てる。
(神様、もう一度だけ。私の考えが正しければ、全ての目ェが、『八』となります)
ギンは、再度、正八面体を投じた。
出目は――。
白八
紅八
碧八
黄八
翠八
桃八
ギンは、この結果に満足すると、サイコロをポケットに戻すや、とうさんを、長い睫毛で縁取られた大きな二重の瞳で見据えた。
二六万二千百四十四分の一の確率でしか発生しない事象が、二度続けて起きたのだ。
天の神様は、およそ六百八十七億二千万回に一度しか生じない事象を、確率を操作することで生起せしめ、ギンに『真実』を指し示してくれたのだ。
何も迷うことはなかった。
ご長男氏より借りた、いや騙し取ったお金は、それこそコンビニでアルバイトでもして返すべきなのだ。
「今夜は、何処にも行かないし、モデル事務所なんかにも入らない。今夜は、豚コマのカレーを食べるの。ね、とうさんも出かけるの止めて、一緒に食べよ? 明日からお仕事たいへんなんでしょ? ビール冷えてるよ? じき、かあさんも帰ってくるよ?」
ギンの瞳から、涙がポロリと零れおちた。
とうさんは、ギンの真摯な眼差しを避けるように目をそらすと、
「わるかった、ギンちゃん。忘れて」
と呟くや、台所から足早に去っていった。
嘘を見破られたことを悟ったのだと、ギンは、思った。
一人残されたギンは、鼻をひとつすすると、包丁を再び握る。
カレー・ルーを刻み終え、大きめに切った男爵芋が顔を覗かせる鍋へと入れ、お玉で優しくかきまぜる。おんころころ、おんころころ――。
たちまち、食欲をそそる香辛料のハーモニーに台所と居間が包まれる。
「カレー!」
幼児用アニメのDVDを見ていたユキポンが、トテトテと駆けよって来る。
そのとき、玄関のドアを開閉する金属音が小さく響き、とうさんが無言で出て行ったことを、ギンは、知った。
* * *
ギンは、隣に座る龍おじさんの顔を仰ぎ見る。
二
「やっと会えたねェ、云うたはったわ……あの人」
午前九時二六分――。
予定より三十分ほど早く、灰白色と焦茶色を基調とした、落ち着いた雰囲気の執務室に招じ入れられたギンは、応接セットと呼ぶよりは、より実務向きなテーブル席のひとつに座を占めると、隣に座る龍おじさんに小声で話しかけた。
「なんか……変なの」
この部屋の美しい主は、月曜恒例の所内会議があるとのことで、二人を案内するや、
「ギンちゃん、ちょっと待ってて下さいね。速攻で終わらせますから」
とギンに声を掛け、龍おじさんに一礼するや律動的な足取りで立ち去り、今は不在である。
よって『赤い六芒星』目撃と云う本題に入る前に、ささやかな目の前の疑問について、ギンは、口にしてみたのだった。
「そらァ――『ギンの大ファン』云うことやろォ? はた迷惑なオッサンやったけどォ……別段、おかしない思うけどなァ?」
龍おじさんは、そう応えると、「どない思わはれますかァ?」と、お茶を給仕して下さった秘書さんに、やんわりと水を向けた。
「その人……元義兄の知り合いとか云うてェ、先ほど、こちらの先生、尋ねて来やはったらしいんですわ」
色白の、女雛を思わせる雅な顔立ちをした秘書さんは、お盆を胸元に掲げながら、龍おじさんの突然の問いかけを受けて、真剣な表情で思案を始めた。
「ああ、あの予約無しでお見えになった方ですよね?」
すると秘書さんは、クスっと笑いながら、さらりと容赦ない毒舌を披露した。
「見事なまでのバーコード禿の、なんだかギラついた、いけ好かないオッサンって感じの――」
その可憐な容姿と、この際どい発言とのギャップがなんとも鮮烈だった為、ギンは、弁護士先生に引き続き、いっぺんで秘書さんのファンになってしまった。
「やっと会えたと云うときって、前々から会う約束がお流れになっていて、時を経て、ようやく会えたときなんかに使いますよね。つまり、時間的隔たりを乗り越えた末にあるのが、やっと会えた」
秘書さんの理知的な云い回しに、龍おじさんは、「なるほどっ、流石は弁護士先生の秘書さんやァ、頭よろしなァ」と大きく、真顔で何度も肯くと、
「どや? 以前、デートの約束して、すっぽかしたこと、あるのンとちゃうかァ?」
からかうようにギンを問い質す。
「アホなこと云わんといてェ。知らんしィ、あないなオッサン」
ギンは、膠も無く一刀両断である。
「そやったら……こんな変化球はどや? ギン当人に会う約束した覚えはなくとも、第三者が仲立ちしてやなァ――
『銀カノンに会わせたるわい! 大船に乗った気ィで、ワシに任せときィ!』
――とかなんとか大口叩いた訳や。その約束が果たされへンまま、時間が過ぎて、今日になって偶然見かけたもンやから……ああ、やっと会えた!」
ギンは、龍おじさんの含みを持たせた発言について思案する。
大口を叩くかはともかく、ギンの意思を無視した、傍迷惑な真似をする者が居るとするならば――該当する人物は、ホモ・サピエンス二十万年の歴史の中で只の一人――とうさんしか居ない。
「あっ!」
ギンは、思わず小さく叫んでしまった。
「お? なんや?」
「そない云うたら……」
ギンは、あの日の記憶を思い出していた。
陽の光を避け、膠のように凝り固まっていた、あの日の記憶を――。
ギンは、隣に座る龍おじさんの顔を仰ぎ見る。
「龍おじさんの話聞いてたら、急に、思い出してしもた……とうさん、得意先の人に、会おてくれへンかァって。社長さんのご長男さんで、副業でモデル事務所経営したはる人やァって。いきなしやったから、断ったけど……その人って、ひょっとしたらバーコード・オジサンやったのかもしらへン」
ギンは、とうさんの『業務上横領』の件は、ひた隠した。
ギンは耐性が出来ていたが、これを聞いた人間が、あからさまにドン引きするであろうことは、判っていたからだ。
「お? 断定できひンけどォ、その可能性は濃厚やなァ。そのあと引っ越しして、雲隠れしたったから、探そうにも手がかりあらへんかったしな?」
かあさんは、離婚届けを役所に出す前に、『世帯分離』の手続きを行っていた。
これにより、とうさんの住民票には、ギン達が転居しても、新たに住まう『新住所』は記載されず、いままで暮らしていた『旧住所』のまま載ることになる。
結果、とうさんは、ギン達の行方を知る手段を絶たれたのだった。
この一連の手続きを調べ上げ、書類を揃え、役所に提出したのはギンである。
ギンは、ポケットからハンカチを取り出すと会議机の上に置き、そっと開いた。
先ほど拾った名刺が、執務室の照明に照らされる。
そこには、『帝都中央運輸サービス』と書かれていた。
「なんや? 『モデル事務所』やあらへんのかいな? 本業、云うことかいな?」
ギンは、名刺を覗き込む龍おじさんの声を聞きながら、バーコード氏のギラギラと輝く細い目を思い出し、小さく身震いした。
「あら? この会社は……少々お待ち下さい。直ぐ、済みます」
秘書さんは、名刺に一瞥を加えるや、龍おじさんの正面の席に座ると、ノートパソコンを起動させ、キーボードを操作し始めた。
「ああ、判りました。先ず、こちらのバーコード禿・オジサンですが、モデル事務所『アークエンジェル』の共同代表をされてます。次に、『帝都中央運輸サービス』の社長さんとバーコード禿・オジサンの姓は同じ、名前は一文字違いです。近親者と判断してよいと思われます」
秘書さんは、パソコンの画面を見ながら、次々と、光の速さで実施した調査結果を読み上げる。
「おお、当たりだな、ギン」
龍おじさんが、満足そうに肯く。
「最後に、この帝都中央運輸サービスですが……」
秘書さんは、パソコンの画面から視線を外すと、ギンを正面から見つめた。
「ギンちゃんの『お父さん』が、事故を起こした車の所有者です」
「へ?」
これにはギンも驚いた。
とうさんが、お客さんの車を運転していたに違いないと予想していたギンであった――なぜならアルコール反応に対する言及が、弁護士先生の説明になかったからだ。マイカーでも社用車でも日が沈んでから運転するとき、とうさんは、必ず酒を飲むのである。例外があるとすれば、客先の車輌、即ち、『商品』であった――が、まさかそれが、五月に、とうさんから会うように頼まれた会社の車であったとは、思ってもいなかった。
「はァ……こらァ、もの凄い偶然やなァ、ギン?」
三
偶然――。
この言葉を聞いて、本当に単なる偶然なのだろうか、とギンは、疑問に思った。
これは、『天の神様』が、確率を操作することで引き寄せた、天の意思、天の摂理の現れではなかろうか?
ギンは、そんな思いに捕らわれながら、しばし、天井を見上げる。
【A系列】事件の発生
Ⅰ 車の回収中、尾灯の不良が発生した
これは、偶然か?
Ⅱ パトカーがたまたま通り掛かかった
これは、偶然か?
Ⅲ このとき、合成麻薬を所持していた
これは、偶然か?
【B系列】弁護士先生の電話受信
Ⅳ ユキポンが、母の朝風呂に乱入した
これは、偶然か?
Ⅴ 歌い始め、常にない長風呂となった
これは、偶然か?
Ⅵ 故に女弁護士の電話を自分がとった
これは、偶然か?
【C系列】今日の出会い
Ⅶ バーコード・禿オジサンと出会った
これは、偶然か?
Ⅷ 龍おじさんの契約更改日と重なった
これは、偶然か?
【A、B、Cの果てに】
Ⅸ 五カ月前の出来事を突然、想起した
これらは、全て単なる偶然なのか?
「……ねえ」
なんだか『Ⅸ』に至る為に、『偶然』と云う名のドミノが次から次へと倒れ、複数の支流が連鎖、合流し、遂に『一枚の絵』が浮かび上がったかのように、ギンには思えてならなかった。
(これって……後で、『天の神様』に、お伺いしてみなあかんなァ……)
そう決意しながら、ギンは、『重大なるヒント』を与えてくれ、記憶の想起に一役買ってくれた崇敬するエースの貌をマジマジと見つめる。
「なんや? どないしはったんや?」
「龍おじさん、ええ勘したはるわァ、思て……。今日は、珍しくスーツなんか着たはるしィ……なんやァ、ドラマん中の刑事さんみたいやわァ」
ギンのこの褒め言葉に、龍おじさんは、まんざらでもなさそうな顔をした。
「どや? 俺かて、ボール放るとき以外にも、アタマ使うことあんねンで? まあ、今日のところは……」
「ボールだけに、『たまたま』……ちゅうオチ云わはるンやったら、やめときィ。レディの前やで? 龍おじさん」
ギンの指摘は図星だったらしく、龍おじさんは、鉄板ネタを封じられ、ぐっと言葉に詰まった。
そんな二人の『叔父・姪漫談』を聞いていた秘書さんは、小さな両掌で口元を隠しながら、クスクスと笑い出した。
四
「六月三日の朝のことです。前の晩に接待があったとかで、とうさんのスーツ、えらい煙草臭ォて……。クリーニング出したげよォ思て、ポケット探ったら、真っ赤な六芒星の形をした錠剤が、ぎょうさん出て来はりました」
午前九時三五分――。
元妻Aの長女は、昨日の電話で彼女が言及した、『赤い六芒星』――合成麻薬セラフィム――を目撃したときの状況を、弁護士Kの求めに応じ、詳しく語り出した。
「ぎょうさん?」
弁護士Kは、その云い回しに敏感に反応した。
隣席で議事録をノートパソコンに打ち込んでいた秘書Mも、驚いたように手を止める。
「具体的に、何個あったか覚えていますか?」
弁護士Kは、務めて柔らかい口調で、長女に尋ねた。
「んー、ちゃんと数えたりしいひンかったけどォ……十五とか、二十とか、多分そんくらいやったと思います」
多いな、と弁護士Kは、思った。
最近出回り出したこの新型の『赤い六芒星』は、一錠当たり四千円から五千円で取引されていた。
個人が一度に購入する量としては多すぎる。
競馬でひと山当てたから、との理由も考えられなくはなかったが、弁護士Kは、この時点で新たな疑惑を抱かざるを得なかった。
即ち、『営利目的』での所持である。
これは、『単純所持』よりさらに重い、『十年以下の懲役』が科せられる重罪であった――。
「ポケットから見つけた後、どうしました?」
女弁護士は、冷静を装いつつ、長女を促した。
「居間のテーブルの上に、お財布と一緒に放っといたら、お昼近くになって起き出して来はったとうさんが、えらい慌てはってェ……。『勝手に触るなァ』とかなんとか云わはってェ。とうさんが、大きな声出すやなんて滅多になくて……せやから、よォ覚えてます」
「見たのは、それ一度きり?」
「はい」
つい数分前には、朗らかな笑い声に満ちていた執務室に、今や、ただならぬ空気が立ち込めていた。
「あのォ、わざわざギンから、こないな話、聞き出す云うことは、元義兄は、この事は――」
長女の隣に座る長身の青年が、遠慮がちに問おて来る。
元妻Aの弟、つまり被告人Xの元義弟である。
先刻、有能なる秘書Mが、二人きりになったときに、
「帝都タイタンズの若月龍秋選手ですよ。一昨年、昨年と二年連続、『最多勝利投手』に輝いた」
と、こっそり耳打ちしてきたが、エンタメ情報に加え、スポーツ界にも全くもって疎い女弁護士は、「今季の成績に言及しないのは何故だろう?」と思いながらも、曖昧に肯いただけだった。
弁護士Kは、青年に語りかける。
「はい。一切供述していません。警察及び検察の取り調べでは――
『前日の日曜、競馬場で出会った見ず知らずの男から、気持ち良くなるクスリだ。心が軽くなると云われて貰った。違法な薬物かもしれないかも、と思ったが、興味本位で受け止ってしまった。セラフィムとは知らなかった。勿論、今回が、見るのも、触るのも初めてだ』
――との主張を繰り返しています」
事件の前日、十月四日は、同競馬場でG1レースが開催されており、被告人Xは、このレースを楽しむ為に来場したとのことだった。
「競馬場で? 見ず知らずの男から貰った? はあ……?」
元義弟は、一瞬、宙を睨むと、頰を引きつらせながら隣に座る少女に声をかけた。
「オッサン、相変わらず、やな……?」
「ん。ブレへん。流石とうさんやわァ。また嘘ついて、ジタバタ騒いだはる」
元妻Aの長女は、被告人Xの供述を嘘と断じ、バッサリと斬り捨てた。
「現在、検察の指揮のもと、いまお二人が疑問を示されたセラフィムの入手経路について、裏付け捜査が進められているものと思われます。彼らもまた――
『見ず知らずの男から貰ったとする供述は、不合理かつ信頼性に欠ける』
――として、『弁解の虚偽性』を問題にしていることは疑いありません。つまり……」
弁護士Kは、喉の渇きを覚えながらも、言葉を継いだ。
いま、非常に難しい判断を、彼女は、強いられているのだ。
「いまギンちゃんから得られた――
『事件発生のおよそ四カ月前にあたる六月三日に、セラフィムを大量に所持していた』
とする証言は、
『今回が、見るのも、触るのも初めて』
――とする『被告人』の供述と真っ向から対立します。またこれは、『真の入手経路』を割り出す為の、重要な手がかりと成り得るものです」
弁護士Kは、いったん言葉を切ると、手元のカップに口を付けた。
「おそらく『被告人』もそれが判っていたが故に、敢えて虚偽の証言をしたのでしょう。つまり、『入手元が判明することを、恐れた』のです。また、所持の回数は、量刑にも大きく影響しますから、その点を考慮したのかもしれません」
弁護士Kは、そこまで口にすると、目の前に座る、大きな二重の瞳が印象的な利発そうな美少女と、よく日に焼けた精悍な顔立ちの青年に、交互に視線を送った。
「私は、『弁護人』です。酌むべき事情を明らかにし、できる限りの寛大な判決になるよう『被告人』の為に注力することが、法で定められた私の役割です。そこで、ギンちゃんにお願いがあります――」
弁護士Kの瞳が、被告人Xの元長女に据えられた。
その時――。
「先生は、私の話、聞いてへンことにしはるつもりですか? とうさんの罪、軽ゥする為に、私に黙ってろと、云わはるつもりですか?」
少女の先回りした物云いと、真っ直ぐな、挑むような瞳が、弁護士Kを捉えた。
「いいえ、逆ですよ、ギンちゃん」
弁護士Kは、ゆっくりと否定する。
「できる限りの寛大な判決を得る為にも、私は、ギンちゃんのこの証言は、包み隠さず検察へ提供すべきだと考えてます。但し、話をするのは、ギンちゃんではありません。ギンちゃんの『お父さん』です」
離婚の成立と同時に、少女ら姉妹と被告人Xとの『養子縁組』は、解消されていた。
よって法的には、もはや養親ではない。元養父、赤の他人である。しかし、弁護士Kは、敢えて『お父さん』と云う表現を用いた。
女弁護士は、元妻Aの長女の瞳の奥に、さざ波が立つのを知覚する。
「お父さんが、『被告人』が、自らの口で、真実を話し、入手経路を明らかにし、捜査に協力する。その真摯な姿を裁判官に訴えかける。これを、本件情状の『基本方針』とします。この為に、ギンちゃん。協力してくださいませんか? 私が、あなたにお願いしたいのは、このことです。あなたなくして、本件の『情状立証』は、成り立ちません。『お父さん』に真実を話してもらう為には、あなたの協力が、必要なんです」
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