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最終話 神は、サイコロを振る
一
「主文。被告人を懲役二年六月に処す。この裁判が確定した日から五年間その刑の執行を猶予する」
帝紀二六七六年十二月二四日午前十時十分――。
とうさんは、クリスマス・イヴに刑を云い渡された。
その背中をギンは、傍聴席から菫色のランドセルをぎゅっと抱きしめながら見つめていた。
少女の隣に、崇敬する叔父の姿は、ない。
二
午後四時――。
被告人Xの最終公判を終えた弁護士Kは、帝都内の某ホテルにて開催された或る会見に参列していた。
この十月に、今季限りの引退を表明していた『帝都タイタンズ』の投手、若月龍秋選手の引退会見である。
三
「まず始めに、このような場を設けて下さった球団関係者の皆さま、そして足下が悪いなか集まって下さいました報道関係者の皆さま方に、感謝申し上げます。本当に有難う御座います」
深々と頭を下げる精悍な顔立ちをした青年を、三十人以上集まった報道関係者の最後列に陣取るカメラが、一斉に捉えた。
発光装置が発する眩いばかりの白色光と、さざ波のようなシャッター音が、レセプション・ルームに満ち満ちる。
その光景を弁護士Kは、有能なる秘書を伴い、会場の後方から眺めていた。
二人とも、頸から『STAFF』と書かれた認識カードをぶら下げている。
「十年ですよ。十八でプロ入りして、引退までが十年! 早過ぎますよ……。一昨年、昨年と二季連続最多勝利投手に輝き、今季だって、シーズン半ばに戦線離脱したのにも関わらず、十勝も上げてるんですよ? 十勝! なのに……引退だなんて」
秘書Mは、女雛を思わせる切れ長の瞳で正面を見つめながら、やり切れない、と云いたげに、そう呟いた。
「さっきまでは、『五年は、長すぎる!』って云ってたじゃない?」
弁護士Kもまた、視線を青年に据えながら、そう返した。
自分に諧謔の素養がないことは判ってはいたが、何事かを口にして、ガス抜きをしてやりたくなったのだ。
因みに、ここで云う『五年』とは、六時間ほど前に被告人Xが云い渡された執行猶予期間である。
「それはそれ、これはこれです」
秘書Mは、傍らに立つ長身の弁護士をチロリと睨んだ後、再び、正面へと貌を戻した。
「先生は、あの量刑は『妥当』だとおっしゃいますけど……やっぱ、厳しすぎません?」
秘書Mの問いに、女弁護士は、視線を正面の雛壇に据えたまま、きっぱりと断じた。
「交通三悪のうち、無免許運転と速度超過をやらかしてるでしょ? それに加えて、警官に対する暴行、セラフィムの所持。酒気帯び運転に関しては前歴多数と来たら……普通だったら『矯正施設』入り、実刑を云い渡されてもおかしくないわ。ギンちゃんの頑張りで――あの前代未聞の『更生・再生計画』で――ようやくもぎ取った『執行猶予』よ。五年。妥当ね」
「五年……妥当かァ……」
その『五年』は、婚姻関係が破綻し、養子縁組が解消された『元家族』が、『再犯防止と更生に向けた監督』と云う大義名分のもと、部屋は別とは云え同じマンションに住み、一つの職場で働く時間の長さでもある。
多感な少女が、大人の階段を駆け上がる長さでもある。
「五年なんて……きっと、アッと云う間よ」
弁護士Kは、この時点では、次のように考えていた。
崩壊した『元家族』が、再び共に生きる時間を『天の神様』によって与えられたのだ、と。
これこそが、未熟な人間には計り知れない『天の意思』、『天の采配』なのだ――と。
然し――。
五年後、彼女は、己の推察の『甘さ』と『浅さ』を噛みしめる事になる。
神の思し召しは、透徹としており、弁護士Kの浅慮を嘲うかのように辛辣であり、苛烈であったのだ。
だが、それはまた別の物語である。
四
会見は、質疑応答に移り、引退の理由と決意した時期について、某スポーツ紙の記者が問うていた。
若月投手の左肩と肘の具合は相当に厳しいらしく、球団からは今季と同額の契約金の提示があったものの、
「結果が出せないならチームに居るべきではない」
と自ら判断し、契約更改の席で引退の意思を伝えた、とのことだった。
あの日、健気な姪と共に、元義兄の事件について親身になって話し合い、帝都拘置所にまで付いてきてくれた青年は、その直前に、自らの半生に『終止符を打つ』決断を下していたのだ――。
この事実を、少女から知らされたとき、弁護士Kは、えも云われぬ感情に襲われた。
――なァ? 龍おじさんって、オトコマエやろォ?
姪っこの、自慢げな口振りが、いまこの瞬間も、耳元でゆっくりと再生される。
質疑は三十分ほどで終わった。
タイタンズの球団旗を背に、青年は、感無量といった表情で立ち、今一度深々と参集者へと頭を垂れた。
その時――。
左手にある控え室のドアがそっと開き、大きな花束を抱きかかえるようにして持った、小さな人影が二つ、引退するエースへと近づいてきた。
「ギン、ユキ……」
それは、青年の二人の姪であった。
姉の方は、弁護士Kもよく知っている。
被告人Xの元長女――戦友ギンちゃんだ。
白い小袖に菫色の袴を身につけ、その上から銀色の千早を纏っている。
髪は、不思議な事にいつのまにか長くなり、後頭部の高い位置でひとつにまてめていた。
「おい……シロガネ・カノンだぜ……」
会場のあちこちから、そんな独白がおこるのを、弁護士Kは聞く。
妹の方は、淡い桃色と白を基調とした丈の短いドレスに袖を通し、下は白いタイツをはいている。
長い睫毛に縁取られた、二重の大きな瞳。
細く整った鼻梁。
緩やかな孤を描く眉。
この愛らしい二名のサプライズ・ゲストの登場に、オトコマエの叔父は、破顔する。
「龍おじさん、お疲れさまでした」
「おつかれさま」
姉妹から花束を受け取ったエースは、姉に何事かを囁かれるや、腰を曲げる。
透かさず――。
妹が、右手から。
姉は、左手から。
叔父の両頰にキスをした。
この日、雪が降り積もり、帝都は、十数年ぶりにホワイト・クリスマスを迎えた。
五
偶然を引き寄せ、天の意思を示す存在は、ある一つの縁を紡ぐ。
終幕 (刑の確定から五年三カ月後)
帝紀二六八二年三月八日午前九時二十分――。
弁護士Kは、母になった。
予定日より二週間ほど早い、妊娠三八週と三日で、安全なる宮殿から魑魅魍魎が跋扈する危険極まる外界へと、『冒険の旅』に出ることを決意したこの小さな命――体重二千二百二十二グラムの男の子――をベッドの上で抱きしめながら、秘かに『勇者Z』と命名した女弁護士は、我が子の逞しき意志と熾ゆる情熱を心の中で誉め、讃え、声に出してはこう云った。
「ようこそ、勇者。私が、君のおかあさんです。これから始まる君の旅の序盤を支える、『旅の仲間』の一人です。弁護士としては、十数年の経験が有りますが、母としては、今日が初日。LV1の新米ママです。不手際もあろうかと思いますが、どうぞよろしくお願い致します」
この発言を傍らで聞いていた弁護士Kの二人の姪、今月の末に十六歳になる姉・銀音と、先月、十一歳を迎えたばかりの妹・雪歩は、『勇者』なる云い回しをいたく気に入り、新たに誕生した従弟に対し、自らもこう言葉をかけた。
分娩室から個室に移っておよそ一時間が経過した、午前十時二十分のことである。
「初めまして、勇者。私はなァ、ギンちゃんや。君のお従姉ちゃんやねンで? 旅の仲間の一人や。あんなァ? この先なァ、辛ァいこと、悲しいこと、ぎょうさんあるかもしらへン。『生きる』ってなァ、以外としんどいねン。せやけどなァ、なにがあっても、私は君の味方やから。君のこと、全力で、守ったはるから。せやからなァ、たっぷり寝てェ、たっぷりオッパイ飲んでェ、Kちゃん先生の云うこと、よォ聞いてェ、ゆっくり、ゆったり、おおきゅう、成りなはれ」
姉の言葉には、世話好きで、心配性で、オトコマエな少女の人柄が、無償の愛と共に溢れんばかりに表れていた。
弁護士Kは、幼い命を覗き込むようにして語るその憂いに満ちた横顔に、昨年の暮れ、五年の執行猶予が満了する二週間前に起きた、ある事件の苦すぎる顛末を重ね合わせ、少女が醸す凛とした空気の意味を考えながら、勇者Zを抱く腕の力を僅かに強めた。
「あー、勇者よ。吾輩が、アイザック・ユキポン博士であーる。吾輩の撮影の合間を縫って誕生してくれるとは、なんとも君は、天晴れなる快男児だ。生後零日で、人の世の機微を捉えるに賢いその香り高い人格を見込んで、君に、吾輩の第二助手を名乗る栄誉を授けようではないか。そして、君が成人したあかつきには、『神聖月御門帝国』の首相兼元帥の座を約束しよう。では、そろそろ現場に戻らねばならぬので、失敬する。さらば!」
天真爛漫な妹――遠くない未来に世界を征服するであろう、神聖月御門帝国初代皇帝アイザック・ユキポン一世――は、読書熱が高じて会得した語彙を駆使して生誕の祝辞を述べると、姉を見上げ、懇願する。
「ギンちゃんお願い!」
「ん。合点承知。いつもの駐車場の裏でええ?」
「うん。バッチグー」
三十年ほど前に帝国領内で流行った言葉――ネタ元は、間違いなく百合子さん姉さん――でもって万事良好なる様を表現する妹を伴い、姉はベッドから離れると左掌を病室の窓へと向けた。
その手首には、鏡のように磨かれた一センチ程の幅の銀色の板が幾つか連なり、腕時計のように手首の周りを覆う造りをした腕輪が、装着されていた。
板の表面には微細な加工で絵文字のような図柄がほどこされており、その中央、文字盤に当たる一際大きな台座に、五百円硬貨ほどの大きさの、滑らかな『石』が埋め込まれている。
その瞬間――。
左手首の『石』から、鮮やかな紅色の光条が四方に放たれたかと思うと、姉の左掌前面の空間が、陽炎のようにたゆたい、突如、直径一メートル程の漆黒の真円が、宙に出現した。
飛翔と時空跳躍を司る力・紅が、発動したのである。
「じゃ、先生。龍おじさんには、連絡済みやから。せやけど、男の子って教えてへんから、安心して。じゃ、もうすぐ、来やはる筈やから。ほなァ!」
姉妹が、漆黒の穴・転移門に飛び込むように分け入ると、真円は、たちどころに消失し、産院の個室は、静寂に包まれた。
「云い忘れてたけど……」
残された新米ママは、クスリと笑うと、腕の中の息子を見つめた。
すると、新生児覚醒であろうか。未だ視力が発達していない筈の勇者Zの瞳が、母親の顔をジッと見つめる。
「君のお従姉ちゃんはね、魔法使いなの。太陽系最強のね」
弁護士Kは、勇者Zの小さな耳に唇を寄せると、そう秘事を明かすや、清潔なタオルで包まれた背中を、優しく丸く撫で上げた。
「そしてね、勇者よ。君のお父さんは、太陽系で一番オトコマエなの。では君に、話してあげましょう……ううん、聞いて欲しいの。私と、ギンちゃん、そしてお父さんとの出会いを。天の道は、繟然として善く謀る……こんな言葉が、あってね……」
《完》
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