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花嫁の回顧
最初のキスは、自分の部屋でだった。
鏡ごしの彼を見つめながら、私は静かに想い出をなぞる。
気が急いて、まずは歯が当たって、けれど、容赦無く迫りくる時間に構わず交わした。いつもならば咎める良心もその時ばかりは顔を出さず、カーテン越しにエンジン音が聞こえてきてやっと我に返った。そのくらい、あの時の私たちは互いに飢えていた。
思えば、あれから随分と遠い場所まで来てしまった。
数年前から共に暮らしているのは彼ではないし、数日後に挙げる結婚式で私の隣にいるのも彼じゃない。指輪をくれたのも、愛してるの言葉をくれたのも、ぜんぶぜんぶ、彼じゃない。それで良かった。だってそれが、正しい形なんだから。
鏡の彼が、こちらを見る。私は目を細めて、それから振り向いた。
「随分と盛り上がってるじゃない?」
旦那が顔を上げた。
「はは、うん。いやさ、俺、弟くんと高校が同じなんだよね。4年違いだから入れ違いだけど」
「へえ、そうなの? じゃああの制服着てたんだ。確か結構かっこいいやつじゃなかった?」
ね、と弟を見ると目が合う。弟は頷いて、「制服目当てで入ってくる奴もいたから」と笑った。
「弟の制服とかよく覚えてんね?」
「だってかっこよかったから。ねえ、今度あなたの写真も見せてよ。携帯とかにないの?」
「いや、無理無理、絶対むり。ちょ、待ってってば…!」
彼の携帯を奪おうとする私と、手を高く挙げて逃げる旦那とそれを見て笑っている弟。しかし、ほどなくして聞こえてきたカーテン越しのエンジン音に、私と弟は同時に窓を振り向いた。
いいワインを持参した結婚前の最後の挨拶。その予告をすると、見合う食事を出さねばと両親は車を走らせた。
あの頃と違って軽の音に怯える必要はないのに、どうしても一回覚えた感覚は取り消せない。私は弟を見て、旦那に携帯を返してから玄関に向かった。
クラシックブルーの、あの格調高い制服。それに包まれて犯した過ちは、今でも昨日のように思い出せる。ともすればあの記憶を旦那とのものに移すことも可能かと思ったけれど、でもやはりあの感覚は旦那とでは味わえなかっただろう。
背徳感と、それを上回る喜び。いつ聞こえるか分からない帰宅の足音もあったから、ちょっとしたスリルもあった。
ああ、そうだ。私はいまだに、あの時のキスを忘れられない。何度愛する旦那とキスしようと、きっとこれからもあれ以上のキスを知らないまま生きていく。
両親を迎え入れて、リビングに戻る。
扉の音に、彼は静かにこちらを見上げる。それから、花嫁を迎えるように優しく笑うのだ。
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