#4

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#4

オールドフォギーは天を仰いだ。鬱陶しい雲に覆われる空、空、空。この街での本物は空だけだ。それ以外は全て借り物か、作り物。 こうして時折空を見る彼を、署内では「老ペンギンが空飛ぶことを夢見ている」だの、「少しでも身長を伸ばすイメージトレーニングをしている」だのといった陰口のタネにされていることは知っている。だが彼は、そう言われているからとて、習慣を止めはしない。といって、そうした揶揄に突っかかるだけの若さも持ち合わせていない。 むしろ、彼らの言葉もあながち間違いではない、とすら彼は思っている。空に憧れたまま氷土に縛られた不恰好なペンギン、なるほどそれは自分だ。生きる為には更に深く、冷たい空虚な海に潜らなければならない。 彼の家系は昔からこの土地に住んでいた。といっても彼が幼い頃、まだ時代遅れの老人(オールドフォギー)でなかった頃にはもう、街は今の有り様だった。似た顔をした集合住宅の群れと、整備された道路とホワイトカラー。それ以前の放牧と糞尿の時代を見たことはないのだが、生き証人だった祖父からその頃の話を当時よく聞いていた。 祖父は他の古い住人と同様、街が無かった頃のこの土地の歴史を捨て、そしてそのことへの罪の意識を抱えていた。いつも悲しそうだった祖父の瞳は、年を経た今も忘れられない。その罪悪感は祖父にとって心地よいものでなく、本意ではなかっただろう。だが、オールドフォギーはその屈折すらも祖父の一部として尊重していた。 二〇四街の北東部、幼い彼が住む家から更に東側。街を外れた森の近く。そこにかつて祖父の家があった。家といっても、その場しのぎで組んだかのようなあばら屋。 この地には、こんな家しか昔はなかったと祖父は語ってくれた。ここに住んでいた人々にとって家とは、放牧する馬や羊らと共に時折移すものだったという。 オールドフォギーは学校で、異国には同じように折々に居を移す、遊牧民という民族がいることを学んだ時があった。写真にある彼らの移動式住居と比べると、祖父の仮組みの家は随分とお粗末なものだった。そのことを伝えると祖父は少し笑って、小慣れる必要がないのだ、と語ったのも覚えている。 ーーこの地域は長い間、問題や争いがなく、娯楽もなかった。それに動くといっても、その範囲はこの狭い高原の中だけだ。だから、家を移す度に、木を切り倒して、新しい家を作る余裕があったのだ。新しい家を建てる時、古い家の資材は薪として、近くの住人と分け合った。それがこの高地で暮らす人々の、かつての生き方だったという。 祖父の機嫌が良い時は他に、様々な古い暮らし方の話をしてくれた。か細く、吐息混じりの、だが耳に残る声。その声はゆっくりと、当時の住人の数や、子供たちの遊び、珍しい出来事、そしてこの辺りに住むという妖精の話を紡いだ。 椅子の上で膝を抱えて座りながら、湿った木々の臭いを嗅ぎながら。仄暗いあばら家で聞くそれらの話は、まるで実際に経験した記憶のように彼の中に焼き付いている。 そんな祖父の語る過去は、百年前に全てこの街によって埋葬され、消されたものだ。わずかでもその残滓が残るのは、古くから変わらぬ空だけ。だから、オールドフォギーとなった彼は今日も空を見上げる。祖父や、それ以前の古い先人たちへの、ささやかな手向けのように。 「それで巡査部長。発見者の聴取などは終わったのかい」 呼びかけられて、彼は視線を元の高さに戻す。錆びた金網、ゴミコンテナ、そして目の前には背の高い、痩せた男が立っている。年齢は確か、自分より二回りは若かったはずだが、その眉間に刻みこまれた皺が、本来の年齢より老けて見せている。本庁勤めの警部というのは、中々心労のある仕事なのだろう。 「はい。時刻は朝方六時頃。日課のジョギングをしているところ、発見したそうです」 「こんな路地裏をジョギングするかね、普通」 警部は鼻にハンカチを押さえながら周囲を見渡す。段ボールやゴミの臭いがする狭い路地裏は確かに、川べりや公園と比べて走るのに不向きだ。 「タンギーの爺さん、今回の発見者は街でも有名な変わり者でして、ジョギングコースを毎回変えているんです。勝手に人の庭に入ったという苦情もよく聞きますよ」 「この街は相変わらず変なのが多いな」 オールドフォギーは苦笑する。全くその通りだ、ここは歪んでいる。自分も含めて。 警部は被害者に近づき、検分を始めた。 被害者は、蓋されたゴミコンテナの上に横たわっていた。きちんと胸の上に腕を組んでおり、瞳も閉じられている。まるで棺に入っているかのように穏やかな様相。被害者が若い女性ということもあり、全体的にシュールレアリズムの絵画のようにも思える。胸から生えているナイフの柄も、服に滲んだ血の色も、作り物のようだ。 「衣服の乱れた跡もなく、財布なども残っている。強姦・強盗目的ではなさそうです」 彼の説明を背中に聞きながら、警部はハンカチを外し、手を遺体の前にかざす。 「今回も同様かい」 「ええ。検死をしないとはっきりとはわかりませんが、発見当時、被害者は殆ど凍っていたようです」 そう、この街で起きている連続殺人事件。今回の事件以前に、既に半年で三件、同様の事件が起きている。被害者達の年齢・性別はバラバラだが、これまでの事件が同一犯とされる共通点が三つあった。 一点目は、全員、鋭利な刃物で刺殺されていること。 二点目は、どの遺体も氷点下まで温度を下げられていること。 三点目は、彼らが全員この街の住人でないこと。皆、旅行者だったり、仕事で訪れただけだったりで、偶々この街にいただけの人々だった。 だが、三つ目の共通点が、今回の件は当てはまらないようだ。 「被害者の身元ですが、今回はすぐにわかるかもしれません。この街の人間のようですから」 「どうしてこの街の人間とわかった?」 聞かれて、彼は被害者の腕のアクセサリを指差す。警部は顔を近づけてそれを見る。 「何だこれは、ドリームキャッチャーが何かを、アクセサリにしたものか」 「いえ、これは標ですよ、警部殿。この街で流行っている」 「標?」 そう、標だ。この街の歪みの形の一つ。 ここ数年でぽつぽつと見かけるようになった、装飾具。麻糸と黒い石を組み合わせた簡単な作りで、手首のところには円形に編まれた飾りがぶら下がっている。それは確かにドリームキャッチャーに形状が似ている。 「まあ、この街の若者達が時折身につける、ここでしか手に入らないお守りのようなものですよ。だから、奴さんもこのあたりの人間じゃないかって」 彼の説明に警部は、ふんと鼻を鳴らす。 「これまでのルールから逸脱しているが模倣犯の可能性は、あるか」 「どうでしょうか、死体の温度については報道陣に伝えていないので」 警部は少し考える。眉間の皺が深くなる。 「まあ、被害者の身元が早くわかるならそれに越したことはない。連続殺人なんて、この辺りの観光産業へのイメージダウンでしかないからな」 言いながら深いため息をつく。これから待ち構えているだろう、報道への対応に気を沈ませているのだろう、とオールドフォギーは推察した。 「今回のが四件目であれ、模倣犯であれ、事件の深刻性は増している。いよいよ片田舎のちょっとした事件では収まらなくなりつつある」 それはそうだ。被害者の数が増えるにつれて、近くのホテル等の客足は目に見えて減ってきている。更に今回の事件が街の住人だとすれば、今日から住人の間にも恐怖が伝播する恐れがある。 「それで、本庁としてはどのような対応を?」 「画期的な手段があるわけではないさ。ありきたりだが、人員の更なる投入、巡回の強化、周辺にいる前科者の事件当日の行動洗い出しなどだ」 巡回の強化で動かされるのは本庁ではなく、我々、自治体警察側だ。そう思い気が滅入りそうになるのを隠しながらオールドフォギーはふんふん、と頷く。 「ということは、その内の巡回の強化は我々側が預かる、感じでしょうか」 「まだ上同士で話をしている段階だが、おそらくそういうことになるだろう。他にも、住民の不安の解消といった治安維持の部分は、かなり力を借りることになるだろうな。ただ、その分といっては何だが、事件調査の部分については、これまで合同で行なっていた部分を、我々、国家警察が預かることになるはすだ」 それだけ話して、警部は他の警察官と話をしに行った。残されたオールドフォギーは最後の言葉をゆっくりと咀嚼する。ポケットから両手を出して、互いの指先を擦り合わせる。考えるときの彼の癖。秋も終わり、冬が近づく空気を手の平に感じる。 ーーお遊びの自治体警察は調査の部分から手を引け、周辺の露払い等に徹していろ。 警部が言ったのはそういうことだ。むろん、些かひねくれて捉えすぎかもしれないが、大筋は変わらないはずだ。 そうだとして、と彼は考えを続ける。それが自分に何をもたらすか。仕事の量は大きくは変わらないだろう。だが、一連の事件への距離は今よりも遠のくはずだ。その意味は? ーー関係ない。そう彼は結論付けた。 これまで調査をしていたのは真理を究明したいからでも、犯人への義憤からでもない。あくまでそれが街から与えられた役割だったからだ。それが別の役割に変わるのであれば、変わった役割を果たす。かつての役割に固執はしない。 巡回を強化する。それ以外はいつものように、非行少年の家出や、酔っ払いの喧嘩、駐車違反だけを取り扱っていればいい。 その時は、彼はそう思っていた。
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