#5

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#5

ひとしきり盛った後に、僕らは冷めてしまったトーストをもそもそと食べて。それから貴方だけは再びベッドで休むことにしました。昨日あまり眠れなかったことや、連日の疲れからか、すぐに規則正しい寝息をたてる貴方。 少し寂しくはありましたが、といっても十分に愛してもらったのですし、その身体を揺り起こすほどには無粋ではありません。僕はリビングに行き、やりかけだったコロリアージュに手をつけます。 今回のイラストは、遠い異国のお城。いくつもの流線が組み合わさって形作られたそれは、まるで水か、不定形の何かでできているみたいで。とても同じ世界のものとは思えません。まるで魔法のよう、と一人ため息を漏らしながら、色鉛筆の一本を手に取りました。海原のような、深い青色。その色を、城壁にあしらわれた花の模様の上に移していきます。それからまた別の色達を手に取り、城壁を這う蔦に、城に訪れる男たちのターバン、顔のついた太陽に彩りを加えていきます。色が足される度に絵は奥行きを増して、拡がり、実際にその中を旅しているような気分になって。 僕はこの街を出たことがありません。何かの複製のように軽薄なこの街以外、何も知らない。山間の向こうにある華やかな都市も、海も、そのさらに向こうの異国の数々も想像や写真でしか知らないのです。 一方で貴方は外のことをたくさん知っている。ルポライターというお仕事から、それは不思議ではないのでしょうけど。でも貴方から聞く話はどれも驚きや楽しみに満ちていて、まるで良質な映画を見ているかのよう。 そして、何より自分の体験を話す貴方ときたら。まだ電気の通っていない村で子供たちから貰った、木の実細工の玩具を僕に見せながら語るその瞳。十数年は若返ったかのようにきらきらと輝かせて。ベッドでの淫猥な姿も、そんなジュニアスクールの学生のような無垢な姿も、愛おしく、手放し難い。 ずっと、ずっと、ずっと、ずっと貴方といたい。 半刻と少しばかりをかけて塗った絵は、全体の三割ほどに色が満たされました。残りの七割は、黒い線で引かれた境界の向こう側を羨んでいます。貴方と僕のよう、なんて思いながら、僕は外に出かけるために服を着替えます。 カーキ色のハンチング帽に灰色のオーバーオールなんて、ストリートチルドレンのようないつもの格好。本当はもっとフォーマルな服を着こなしたいのですが、この小柄な身体にツイードのジャケットとかは似合わない。 出かける前に、もう一度ベッドの貴方を眺めます。まるで幻のように消えていないかを確かめたくて。それから声には出さずに、いってきます、を口の中で紡いで。 そうして僕は手狭で、でも優しい二人の宮殿を後にしました。 外はもう昼過ぎになっていましたが、空の明るさは明け方とさして変わりません。鬱蒼とした雲をかき分けて降りてくるか細い光。それに照らされて、二〇四街は今日ものっそりと息をしています。 最近は殺人事件のせいで、更に鬱屈としている気がします。路地の隅でちびちびとスキットルを飲む身汚い男も、信号待ちをする車の運転手も、どこか落ち着きがなく、周囲を見渡したりなどしています。誰もが隣人に警戒し、自分だけがこの街の唯一の良心だと信じている顔です。 そんな猜疑の薄い霧を横目で流しながら、僕は待ちで三番目に大きなグローサリーに向かいます。顔の弛んだ中年女性と、恰幅がいいが小心な男性と、あるいは特に長所も短所もない有象無象の人々が働くその場所で、僕も奥のロッカーで制服に着替えた後に集団に混じります。品出しをして、レジに立って。この街の人々の口を通って、最終的に糞尿へと変わる品物たちのバーコードを読み取っていきます。 「あの日はな、前日牛乳を買い損じたんだ」 レジ対応をしていると、一人の客が話しかけてきました。顔を上げれば、なるほど、タンギー爺さんです。この街で少し有名なーーもちろんあまり良くない意味での。 「レジ打ちが、まだ入りたての娘だったと思うんだ。ここの連中は、ワシが牛乳を買わないことなんてあり得ないって普通知っておるからな。だがその日は偶々、ワシは牛乳をカートに乗せるのを忘れ、偶々、世の道理を知らん若造が担当するレジに並んでしまったわけだ」 爺さんは何も口に含んでいないのに、まるでガムを噛んでいるようにもごもごと、何度も歯を噛み合わせます。話している最中にもそれを挟んでくるので、一言一言が長くなります。懸命な他の客は、哀れに捕まった僕以外が担当する列に並び、精算するようにしていました。 「買い忘れたから、その次の日のジョギングは西向きに走ろうと思ったんだ。太陽の光は人間を健忘症にするからな、最近東向きで走ってばかりだったから。その影響に違いないと思ったんだ」 タンギー爺さんの話に相槌を打たない、というのは雇用契約書に書いてあってもおかしくないくらいにこの店の共通ルールですが、それでも無視するのは気が引けて、曖昧に頷いたり、相槌を打ってしまいます。後で店長に小言を言われてしまうな、と思いながら、爺さんの深い皺の奥のビー玉のような瞳を見つめ返します。狂人の光を放つ黒い眼ーーいえ、彼なりの正気と論理を保っているのでしょうが、それは我々の道理と少し外れてしまっているのです。 「西向きに走って、六つ目の路地裏で彼女を見つけたんだ。哀れなフレミンの亡骸をな。そして、その横にあいつを見かけたんだが、警察の野郎は誰も信じちゃくれないんだ」 「何を見たんですか」 おそらく興味なさそうに返事してしまったのですが、タンギー爺さんはくっくとしゃくりあげるように笑い、それからこう続けました。 「怪物だよ、この街に昔からいる怪物。汚泥と糞尿にうず高く積み上げられたおぞましい姿の。そいつがフレミンを抱えて、ゴミコンテナの上に横たえていたんだよ」
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