m.モーリス/入り江の怪物

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m.モーリス/入り江の怪物

 モーリスの住む町の目の前に広がる小さな、けれども深い入り江。そこには怪物が住み着いている。浜辺から少し行ったところから急激に深くなる水の、一番暗くて深いところにそいつはいる。そいつはある時から住み着いて、入り江に泳ぎ出る人や船を襲うようになった。船が入り江の深いところに差し掛かると下から巨大な影が浮かび上がってきてそのままパクリ。大きな口でひと呑みだ。  怪物の最初の犠牲者はモーリスの父親だった。曇りの隙間から夕日が漏れる空模様の日だった。夕釣りのために船を出して、下から突然現れたそいつに船ごと丸呑みにされた。一瞬だった。父親を見送るために浜辺から手を振っていたモーリスはその一瞬をはっきりと覚えている。幼いモーリスが誰より最初に「お父さんが怪物に食べられた」といった時、大人はみんな誰も信じず、小さな子供の戯言だと相手にしなかった。翌朝、漁に出た船が深みに差し掛かったとき、下から現れた怪物に丸呑みされたのを見て、大人たちは怪物の存在を認めざるを得なくなった。  怪物の存在を知った人々は慌てふためき、様々な方法を駆使してそいつを駆除しようとしたが、全て失敗した。狩人、傭兵、軍隊、誰一人として水底にいるそいつを引き上げられなかったし、そいつをなんとか殺そうと水の上に出むいてはそいつに食われた。  漁のできなくなった入り江の町からは人が減っていき、他所に移動する人々が多く出た。それでも地に残るのは、慣れ親しんだ土地を離れたくない老人や、病気の家族などの理由があって離れられない家庭ばかり。父親を失ったモーリスの家も、残る事を決めた家の1つだった。町は火が消えたように静かになり、水辺に近づく人間も減った。  モーリスが幼子から少年になる頃には町はすっかり寂れていた。人のいない町は廃墟が立ち並び、わずかに残っていた住人もぽつりぽつりと移住したり、亡くなったりしてさらに数を減らしていた。残った住民たちは、時間が経つうちに浅瀬には怪物が来ないことを発見して、恐れつつも怪物の現れない浅瀬で貝や魚をとり、なんとか日々の食糧を得て暮らしていた。モーリスの家も例外ではなく、母親が漁へ行き、父親が死んで以来怖くて水場に近付けないモーリスが家の事を行っていた。子供らしく遊び回る時間は失われ、母親の顔にもモーリスの顔にも濃い疲労の影が落ちるようになったが、母親が努めて明るく優しく振る舞ったため、モーリスの心から子供らしい柔らかさが完全に失われる事はなかった。  モーリスは毎晩眠る事を楽しみにしていた。夢の中ではどこまでも自由で、どれほどでも子供らしくいられるからだ。湖の怪物が倒される夢を何度も見たし、父親が帰ってくる夢を見た。起きると、夢の中とぜんぜん違う現実にひどくがっかりする事もあったが、それでも夢の中では幸せだった。そして、いつか怪物はいなくなるだろうという漠然とした希望を抱いていられた。そうやって日々の夢に楽しみを見出しながら過ごしていたある日、入り江に異変が起きた。  最初は地響きのような振動だった。それは徐々に輪郭を持ち、最後には咆哮に変わった。月明かりの中、入り江から響き渡る恐ろしげな音に、残った住人はただただ家で震えるしかなかった。咆哮は月が高く昇った頃から日の出まで続くと、何事もなかったかのようにおさまった。住民たちがこれで収まったかと安心した晩に再び咆哮は響き渡り、日の出まで続いたそれは次の晩も、その次の晩も続き、それから毎夜、月が空に高くかかる頃になると入り江から咆哮が響き渡るようになった。  初めての咆哮以来モーリスの夜は以前のような楽しいものではなくなった。家の壁を貫いて耳に届く咆哮は、モーリスの夢に侵入し、それまでの自由で楽しかった夢を悪夢に変えた。モーリスの日常からはすっかり希望が失われ、憔悴していくモーリスの姿に母親は涙した。  そしてついに母親が言った。 「モーリス、ここを出よう」  それからは最低限の荷物をまとめ、旅のための保存食を作りと忙しくすごした。町にほんの僅か残る人々に旅立ちを伝え別れを告げ、いざ明日の朝旅路につくという晩、モーリスは母親に、最後に入り江が見たいとせがんだ。  不思議なことに、その晩は怪物の咆哮は聞こえてこず、モーリスは久しぶりに楽しい夢を見た。  旅立ちの日の朝。  前日の晩のモーリスの願いのとおり、母親とモーリスは手を繋ぎ、二人で入り江を見つめていた。曇り空の合間から差す朝日は、まるであの日の夕日を思い起こさせた。幼いモーリスが父親に手を振った浜辺、全ての始まりを目撃した場所。  久しぶりに水辺に立つモーリスの身体は震えていたが、それでも自分の足でしっかりと立って、沖の水中の暗がりをしっかりと目に焼き付けていた。  父親が呑み込まれた深い暗がり、その底にいる怪物。  誰も倒すことのできなかったそいつから逃げるように、人々は町を離れ、ついには自分たちもこの場所を離れていく。モーリスは悲しかった、悔しかった、胸を掻きむしりたくなるほどに。怪物が憎かった。母親と繋いだ手に力を込めると、母親もギュッと握り返した。  そのまましばし沖を見つめたあと、二人は無言で浜辺に背を向けた。  その時だった。  いつもは夜に聞こえる咆哮が、昨晩はなかった怪物の咆哮が響き渡った。慌てて入り江を振り返ると、先程見つめていた暗がりの水がどんどんと盛り上がって、巨大なそいつが天を向いて姿を現すのが見えた。大きい波が立ち、浜辺に立つ二人を激しく濡らす。  船を飲み込むほどに巨大なそいつが、まるで釣り上げられるように空に昇っていく様子を、二人はただ呆然と眺めていた。  誰もが水から引き上げることのできなかった怪物が、自ずから天を昇っていく様子は壮大であると共に異様だった。咆哮する大きな口から続く長い胴が、雲の切れ間から差す朝日に鱗を反射させながら水から引き出され、まるで空を泳ぐようにくねっている。巨大な眼は瞬きもせず開かれたまま虚空を見つめているようだったが、それを見ていたモーリスはふっと、そいつと目があった気がして背筋に寒気が走った。  頭部分が曇りの空に届き、雲を裂いてさらに上を目指す。追従する長い長い胴体が雲の隙間にどんどんと飲み込まれていく。  姿が見えなくなると共に咆哮も遠くなり、姿が見えなくなったあともしばらく聞こえていた咆哮も聞こえなくなると、あたりはまるで何もなかったかのように静寂に包まれた。  二人は波に濡れたままその場に座りこんで呆然としていたが、先に我に返った母親が、両手で顔を覆ってすすり泣きはじめた。母親の泣き声を聞いて我に返ったモーリスの目からも涙が溢れた。涙で掠れる視線の先の入り江には、ただ穏やかに、波が揺れていた。
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