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がやがやと、静かさを保ちつつ次第に五月蝿くなる部屋を出る時に、真っ黒な服に身を包んだ彼の顔を覗きこんだ。
「何、お腹空いた?」
「…ううん?空いてない」
「そ?珍しいね」
「ひどくない?」
「ふふふ」
目の下が腫れぼったい彼は、いつも皆に見せている笑顔で空を仰いだが、やはりその声には力がなかった。
「…北里くん、」
「んー?なーに」
「…大丈、夫?」
聞かずにはいられなかったが、聞いてから言わなければ良かったと心が痛くなった。
「うん?大丈夫だよ?」
…この人は、こんな風に笑う人だっけ?
「………晴れて良かったね」
「…何で?」
「だってさ、ほら、煙、昇りやすいんじゃない?綺麗に」
「…そうだね、良かったな」
朝まで灰色だった空は、今ではそんなことは忘れているかのように全ての雲が出払っていた。目を細めて上を見上げる彼の横顔を見て、やっぱり北里くんは、どんな時でもかっこいいんだ、と思った。
妹思いの、優しいお兄ちゃん。
「…寂しくなるなぁ」
「…そりゃあ、ね」
「…ふふ、今でも捨てきれないんだよね、やっぱり。考えがちらつくんだ」
「…何が?」
「…死んだのが、俺だったら、って」
「………北里く」
「ははは、そうしたら良かったのになぁ。もし俺があの病気で死んでいたら、あの子は死ななくてすんだのかもしれないのに。何で俺じゃなかったんだろ、何で俺はこんなに元気なのにあの子が選ばれたんだろう?あの病気にかかってたのが俺だったら、もしかしたら」
「北里くん!」
悲しくなって、必死に北里くんのブレザーにしがみついた。
「…何で、綾瀬が泣いてるんだよ」
「…だって、北里くんがそんなこと言うから、…やめてよ、そんなこと言わないでよ」
からっと渇いた晴天の中であっというまにぐしゃぐしゃになった私の顔を見て、北里くんは苦笑する。
確かに、どうして妹ちゃんが突然あんな病にかかったのか、誰しもが顔を暗くした。兄よりも伸び代のある選手だった、誰にでも愛想良く、誰からも愛されるような、才色兼備の将来有望な希望の星。皆が彼女の活躍を確信していた。
でも、だからって、北里くんが死んでおけば良かっただなんて、誰も思ってないよ。北里くんは皆に必要な存在だし、いなくなっちゃ困るし、…もちろん妹ちゃんも必要な存在、だった。こんな言い方じゃまるで必要な存在じゃないみたくなっちゃうな、違うんだ、私が言いたいのはそういうんじゃなくって…!
「…あやせ」
私の頭をくしゃっとしてから、北里くんは遠くを見上げて言った。
「見て。……綺麗だね」
ああ、綺麗だね。水色の空の中に、七色の橋がかかってる。
静かに微笑んでいる北里くんの横顔は、こんな場所に不釣り合いな位に、凄く凄くきれいだった。
「…俺さ、陸上を始めた頃、あの子のお兄ちゃんになったんだ」
「…うん」
「小さかったけどお兄ちゃんになれて、照れくさかったけど、凄く嬉しかったんだ」
「…うん」
「俺、…あの子のお兄ちゃんになれて、本当に、…良かったって、思うよ」
「…そうだね」
建物を囲うように植えてある背の高い木々が、風にそよいでさわさわと音をたてる。
北里くんのふわふわした髪を見て、もう一度彼のブレザーを掴んだ。
「…私、寂しいよ」
「…?」
「今も寂しいけど、北里くんがいなくなったら、もっと寂しい。………寂しいよ」
「……うん、そうだね」
俺も、寂しいよ。
そう小さく呟いた北里くんは、小さく小さく嗚咽した。丸い雫が後から後からマフラーを濡らして、私はハンカチを渡して背中をさすることしかできなかった。
「きれいだね、」
虹はずっと空の中に浮いていて、白い煙もすぅっと青の中に溶け込んでいく。
「きれいだね……」
今日が晴れで、本当に良かった、北里くんが優しい人で、本当に良かった、皆の前では強くて格好いい、いつだって優しくて妹思いの、
北里くんが顔をこすりながらもう一度空を見上げたその顔が、何よりもきれいに見えた。
遠くの方で、北里くんのお母さんが私たちを呼ぶか細い声が聞こえた。
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